第6章―3
外に出てみると、普段と変わらぬ静けさに夜は沈んでいた。耳を澄ましてみても、わざとらしいほどに物音一つ聞こえない。
――誰かが見ていたとしても、自然に振る舞っていればいい。
警戒はしつつ……と、ハルヒコは付け加えた。
――しかし……。
あれを見られたら、一発でバレるだろうけどな……。
闇がひときわ深い塀の物陰に、隠すように一匹の白馬がつなぎ止められていた。マグダル達が騎乗してきた馬に違いない。
人が焦燥の炎に焼かれているこんなときでさえ、我関せず、馬は別世界の出来事のように落ち着きはらっていた。当前といえばそれまでのことであったが、なぜかそのとき、ハルヒコはそこに世界の超然とした姿を垣間見たような気がした。
――どうやって逃げるのかも考えないといけないな……。
馬や馬車に乗って逃亡する。そんな単純な話になるはずがないことは明らかだ。
――どこに逃げればいいのか……。
考えはまとまっていない。それでも、それを理由に何もせず立ち止まってはいられない。今できることをとにかくやるしかないのだ。思いつく限りのことを、思いついた順に行動に移していかなければならないのだ。たとえ、それが後になって意味をなすことなのかどうか、今は定かではなくとも。
――今は直感に頼るしかない……。
ふと、暗闇に浮かぶ庭の畑が目に入った。
――そうだ、トマトもいくつかもいでいこう。
収穫したジャガイモも持っていけるなと思いついた。
――そうだよ、今は答えなんて分からない……。
分からなくて当然だと言い聞かせ、ハルヒコは無理やり自分を納得させた。
ハルヒコは鶏小屋に向かった。
扉の鍵を開けると、ニワトリ達は眠っていた。いつも卵が転がっている辺りを手で探ってみる。ニワトリに乗っかられている場所は、腹の下に手を突っ込んだ。
一羽のニワトリが迷惑そうに体をよじった。かつて、ハルヒコの魔法で足を地面に固定され、狂ったように暴れまわったあのニワトリだ。
あのときはすまなかったなと、ハルヒコは心の中で謝った。
卵は三個見つかった。
家の中に戻ると、ハルヒコは玄関横のキャビネットにある村の金庫のことを思い出した。
――そうだ、鍵を開けていかないと……。
ハルヒコは椅子に乗って、壁の高い位置に据え付けられた棚の奥を手で探った。普段からキャビネットの鍵を隠している場所だ。
ハルヒコはキャビネットの金庫が収まっている扉の鍵を開けた。そして、金庫の横に置かれている小さな袋を取り出した。ハルヒコ達家族の全財産が入った袋だった。村の運営に必要なお金や村の子ども達の積立金は、黒光りする重厚な金庫の中でしっかりと守られている。
ハルヒコは今一度、金庫に鍵がかかっていることを確認した。
――バルトさんとヤンガスさんなら、金庫の中のお金を、きっと本来の目的で使ってくれるはずだ。
ハルヒコは二人のことを信頼するしかなかった。いや、ハルヒコは彼らのことを信じて疑わなかった。
そんなことを考えていると、背後からカナが話しかけてきた。
「パパ……。パパさんが作ってくれたお人形さんと絵本、持っていっちゃダメ?」
「ああ、僕も本は持っていきたいな」
――ああ、そうか……。
そこまでは考えがいたらなかった。ハルヒコは自分の思慮の足りなさを恥じた。
人は食べ物だけで成長するのではない。心を――魂を育む必要もあるのだ。
「本は一人一冊までにしよう。村の子ども達にも残しておかないといけないから。カナのおもちゃは、自分で責任をもって運べる分だけカバンに入れていいよ」
カナは嬉々として飛んでいった。
――魔法の書物も持っていかないといけないな。
マグダルから借りた魔法に関する書物が三冊あった。それらはすべて持っていかせてもらおうと思った。
ふと横を見ると、シュウは何かを考えるように視線をさまよわせていた。
「シュウ、どうした?」
はっと気づいたように、シュウは振り向いた。
「焦ってうっかりしてたけど、村のみんなとはもう会えないんだなって……」
ハルヒコは心が痛んだ。
口に出してはいないが、おそらくシュウの脳裏にはシドの顔が思い浮かんでいるに違いない。
大人の事情で子ども達が翻弄されてしまう。ハルヒコは自分自身も含め、そんな世界の在り方に怒りを覚えずにはいられなかった。
かける言葉が見つからず、ハルヒコはシュウの頭に手をのせ、くしゅくしゅと髪を優しくかき回した。
シュウが必死に感情を押し殺しているのが――こぼれそうになる涙を押しとどめているのが、ハルヒコには痛いほど分かった。
「ハルヒコ……。マグダルが呼んでいる」
クイールが寝室から出てきた。彼の目にも涙の跡はなかった。
――自分が思っているよりも、子ども達は強い……。
だからといって、彼らの強さに甘えていいはずはない。
「何が起きたのですか?」
二度と会えなくなる人を前にして、本当に話したいことは山ほどあった。それでも、この限られた時間で可能な限りの情報を得なくてはならない。
「クーデターじゃ……。首謀者は分かるじゃろ」
「アイス団長ですね」
マグダルは小さな溜め息をついた。
「以前から、アイスはウラギオス国への宣戦を進言しておった。かの国に恨みを持つ者は多い。トロール討伐の成功も、軍に自信をつけさせるきっかけになったのかもしれん……」
「クロム王は……」
マグダルは首を振った。
「そんな……。アイス団長がそこまでする方だとは思えない――」
マグダルは何かを思い返すように、その視線はしばらく宙をさまよっていた。
「アイスもそんなつもりはなかったじゃろう……。血を流すつもりなど、はなから考えてもいなかったはずじゃ……」
「では、いったい何が……」
ハルヒコがそのときの状況をさらに聞き出そうとしたとき、マグダルがつぶやいた。
「呪いじゃよ。王家の呪いが発動してしまったんじゃ……」
――呪い……?
「アイスは誰一人として危害を加えぬよう厳命していたはずじゃ。だが、臆病な兵士の一人が矢を――」
マグダルは悲痛な表情を浮かべた。
「不幸な事故だったのかもしれん。じゃが、その矢によってお妃さまは……」
――王妃さまが!
「今やエオラの城と町は、うごめく死者の群れであふれ返っておることじゃろう……」
――呪い……。王妃……。死者……。
ハルヒコは城で働くサムとマロニーの姿を思い浮かべた。
――あの二人は無事なのか……?
「アイスなら、今もエオラに取り残された人々を助けているはずじゃ。クーデターを引き起こした相手を信頼しているなど、皮肉な話じゃがな……」
マグダルは小さく苦笑いを浮かべた。玉のような冷や汗を流し、文字通り苦しさを押し殺して。
もう限界が近づいてきているのは誰の目にも明らかだった……。
「ハルヒコ……。こんなことをお主に頼むのは筋違いだというのはよおく分かっておる……」
マグダルも自分に残された時間が尽きかけていることを悟っていた。急がねばならない。
「隣国のアクラへ、クイール王子を連れて逃げるのだ。バナム王が必ずや王子を守ってくださる」
――どのように、そこまで逃げればいいのですか?
そのような愚問をハルヒコは口に出さなかった。マグダルはその逃亡手段も含めて、ハルヒコにクイールの未来を託したのだから。
「必ずや、王子を送り届けてみせます。ですから、マグダル様はもう何も心配されなくても大丈夫です……」
もう、さまざまな苦しみ――人との軋轢、のしかかる重責――そういったものから解放されるのですよと、ハルヒコは心の中でつぶやいた。
「そうか……」
まるでハルヒコの心の声を聞いたみたいに、マグダルはほっとしたように小さな笑みを浮かべた。背負っていた重荷を下ろして、これでようやく一息つける――まるで、ただの老人に戻ったように穏やかで柔和な表情だった。
ハルヒコはこらえきれず、瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。
「マグダル様、今まで本当にありがとうございました……。私達家族がこの世界でなんとかやってこれたのも、すべてはマグダル様のおかげでした――」
マグダルのほおにも一筋の雫が伝っていった。
「感謝するのは、わしの方じゃ……。ハルヒコと出会えたこと――わしには家族がおらなんだが――最後にこんなに素晴らしい息子と出会えて……。わしは幸せじゃった」
ハルヒコはベッドの傍らにひざまずいた。そして、マグダルの手をとって自分の額を押し当てた。
「私には父がおりませんでした。自分が父親となってからも――父親とはどういうものなのか、ずっと考えることばかりでした。ですが、マグダル様と出会えて……。私は……」
今までずっと感じていた――しかし、決して口に出してはいけないと心の奥底に仕舞っていた言葉を、ハルヒコは息をつまらせながら、この非情な世界に向けてしぼり出した。
「……まるで、本当の父親のように感じておりました……」
――ああ、もう充分だ……。
マグダルは救われたような気がした。もう思い残すことはないように感じた。こんなに恵まれた最後を迎えることができようとは……。
ハルヒコは家族とクイールを寝室に引き入れた。
「マグダル様、お別れです……」
カナが不思議そうにハルヒコの顔を見た。もう涙は拭っていた。
「マグダルおじちゃんは一緒に行かないの?」
「マグダル様は……」
ハルヒコが説明しようとすると、マグダルが口を開いた。
「わしはちょっと疲れてな……。少し休んでから、皆を追いかけるつもりじゃ。カナはお父さんの言うことをしっかりと聞くんじゃぞ。お父さんのことをしっかりと手伝ってやるんじゃぞ」
「わたしはいつもパパのいうこと、ちゃんと聞いてるもん」
マグダルは微笑んだ。
「シュウも頑張るのだぞ、ハルヒコと共に――。お主の父は本当にすごい人なんじゃから」
シュウは無言でただ小さくうなずいた。口を開いてしまうと、とめどない悲しみがこぼれ出てしまうのが分かっていたのだ。
「トウコ殿、こんなことになってしまい、本当に申し訳なく思う。許してほしい……」
トウコもまた返すべき言葉を見つけられないでいるようだった。
「王子……」
「マグダル、もう心配はいらぬ。私を――ハルヒコを信じてくれればいいのだ。約束する。誰にも恥じぬ生き方をしていくと……」
マグダルは穏やかな笑顔でクイールをしばらく見つめていた。もう言葉は必要ないと思った。
「さあ、皆もう出発するのじゃ。時は待ってくれはせん――」
そして、ハルヒコを見た。
「進むのだ。足が動く限り――」
――そして、心が折れない限り……。
ハルヒコは最後にもう一度言った。
「お別れです。マグダル様……」
一人一人が目にマグダルの姿を焼きつけ、寝室を後にした。
ハルヒコは扉の前に立ち、最後に深々とマグダルに向かって頭を下げた。
顔を上げると、ベッドでマグダルは笑っていた。
ハルヒコは生涯そのときのマグダルの姿を忘れはしなかった。




