第6章―2
それは予期せぬ災害のようであった。
人が引き起こした災いであったにも関わらず、その誰かを責める気にはなれない――あたかも自然を前にして行き場のない恨みを飲み込まざるをえないような――避けようのない事故にあってしまったような、そんな感覚であった。
思い返してみても、ハルヒコは未だに誰一人として憎しみを覚える者はない。ただ、人という存在の悲しさに打ちのめされるばかりだ。
ハルヒコ達がそろそろ寝に就こうとしていたときである。戸口をたたく音がした。
「わしじゃ、マグダルじゃ。夜遅くにすまんが、扉を開けてくれんか?」
今から思えば、それはとても落ち着いた、いつも通りのマグダルの声であった。
――あのような状況にもかかわらず……。
ハルヒコは訝しみつつ扉を開けた。突然の来訪を警戒せずにはいられなかったが、マグダルを待たせるわけにはいかない。
「お待たせしました。こんな時間にどうされ……」
ハルヒコは、マグダルの背後に立つ人物に気づいた。
「クイール王子……」
従者は他にいなかった。ハルヒコは全身から血の気が引いていくのを感じた。
――なにか、とんでもないことが起きたんじゃないのか……。
それほど、目の前の状況は尋常ではなかった。むしろ異常と呼ぶべき事態だろう。
「すまんが、邪魔するよ」
マグダルはクイールを中に促し、その後に続いた。クイールは終始うつむいたままであった。
「マグダル様、何が……」
「クーデターじゃ……」
抑揚もなく、淡々と事実だけを述べるように、マグダルはその言葉を口にした。
「クイール王子を連れて逃げねばならん……」
言い終わらぬ内に、マグダルの表情が苦悶に歪む。ハルヒコは倒れそうになったマグダルの身体を支えた。
――!
ハルヒコはそのままマグダルを椅子に座らせた。マグダルの身体に手を添えたまま、ハルヒコは言葉をかけることができなかった。かけるべき言葉が見つからなかった。
マグダルはハルヒコに笑ってみせた。冷や汗を浮かべ、顔面を蒼白にしながらも。
「分かるじゃろ。わしは一緒には行けん……」
次の瞬間、ハルヒコはトウコ達にこう告げていた。
「今すぐ、持てるだけの食料と水、それと着替えをバッグに詰めるんだ。バッグは一人一つまでしか持っていけない――」
「何を……」
困惑するトウコの言葉を遮るように、ハルヒコはこう続けた。
「この家を捨てる……」
誰もが言葉を失った。時間が止まったみたいに、みな動けないでいた。
「時間がないんだ! 一刻の猶予もない! みんな、今すぐ準備するんだ!」
説明は不要だった。これほどまでにハルヒコが切羽詰まった様子で強く促すことなど今まで一度もなかったことだ。それほど自分達が追い詰められている状況だと、トウコ達はすぐに理解した。
「シュウ、カナ、着替えを取ってらっしゃい。いい、カバンに詰められるだけよ――」
シュウもカナも言われるままに寝室へと走っていった。
「私は保存食を集めておくわ」
「すまない……頼む」
ハルヒコ達家族のやりとりを聞いていたマグダルが悲痛な表情を浮かべる。うつむいたままのクイールも歯を食いしばっているようにみえた。
「ハルヒコ、本当にすまない……」
振り絞るような声。再びマグダルの顔が苦悶に歪む。
「マグダル様、少し動けますか? この体勢は少しお辛そうです。ベッドに横になりましょう。クイール王子、手を貸していただけますか?」
クイールは表情を見せないまま小さく頷いた。
ハルヒコはマグダルの脇腹に添えた手を極力見せないように、クイールには反対側を支えてもらった。
クイールが小さく呟く。
「お気遣い感謝します。ですが、私もマグダルの具合は承知しております……」
ハルヒコには応える言葉が見つからなかった。それはもう、マグダルが助からないということを理解しているということだ。
ハルヒコがマグダルを支えた手は真っ赤に染まっていた。何かをこぼしたみたいに、マグダルの服はぐっしょりと濡れていた。後から後から、生暖かい何かが今も拍動に合わせて押し出されてくる。
「参りましょう……」
二人はマグダルを支えながらゆっくりと寝室に向かった。
寝室にはチェストから着替えを取り出しているシュウとカナがいた。
「僕も手伝うよ」
しゃがんでいたシュウが手を貸そうと立ち上がった。
「こっちは大丈夫だから、シュウ達は早く服をママのところに持っていってくれるかい。そうだ、パパさんとママさんの服もごそっとまとめて持っていってくれるかな」
シュウは分かったと引き出しの中にある服を丸ごと抱えて寝室を出ていった。カナも真似するように、自分の服を持てるだけ持って出ていった。シュウ達はそうやって何往復かして三段チェストの中身をすべてリビングへと運んでいった。
ハルヒコはシュウ達の作業を横目に、マグダルをベッドにゆっくりと横たえた。マグダルに布団を掛け、そこから手を抜き出すときに、ハルヒコは自分の手についた液体をベッドのシーツで拭った。シュウ達にそれを見せないようにするためであった。
「少しの間、王子と二人にしてくれんか」
「分かりました。あちらで荷物をまとめておきます。何かあればお呼びください……」
ハルヒコは後ろ髪を引かれる思いで寝室を後にした。時がそれを許さないことは理解していたつもりだ。だが、このような状況下にあっても、ハルヒコはマグダルといつまでも言葉を交わしていたいと思った。それが取りとめもない思い出話であったとしてもだ。
寝室にはマグダルとクイールの二人だけが残された。これが最後となる貴重な時間にもかかわらず、二人の間にはただ沈黙が息を潜めるように横たわっているばかりであった。
「クイール王子……。あなたが生まれた日のことを今もよく覚えています。まるで我が事のように嬉しかった――」
「マグダル……いかないで……。僕を残していかないで……」
マグダルは困ったように笑った。
「決して誰も恨まぬように。彼等は元より争うつもりなどなかったのでしょう……。あれは不慮の事故だったのです」
「どうして、最後の別れのようなことを言う……。いやだ。マグダルまで僕を置いていくなんて……」
マグダルは微笑みを小さくしぼり出した。
「お別れです……。私はもう王子の隣を一緒に歩いていくことはできません。これからはお一人で……。いや、彼を――ハルヒコを師と仰いで、共に前に進んでいくのです」
そう話しながら、マグダルは思った。
――できることなら、私も彼と共に歩いていきたかった……。
「調味料も邪魔にならないようなら持っていこう」
ハルヒコはリビングで荷物をまとめていた。持っていける食料はあらかたカバンに詰め込んだ。といっても、実際には干し肉とパンそれにチーズぐらいしかなかった。
――五人では、どんなに頑張っても二食が限界か……。
そして、ふと思いついた。
――ニワトリを自由してやらないといけない……。
鶏小屋を閉めっぱなしでは、ニワトリ達はいつかは餓死してしまう。バルトやヤンガスがいいようにしてくれるのは間違いなかったが、彼等とてこの先どうなってしまうか予想もつかない。希望的な観測に頼ってはいけない。
――それに……。
とハルヒコは思った。
――卵を何個か持っていけるんじゃないか……。
ハルヒコはすぐに行動に移した。
「トウコ、シュウ、あるだけの水筒に水を入れておいてくれないか。パパさんは鶏小屋の鍵を開けてくる」
ハルヒコは玄関の扉の前に立った。そして、いざドアを開けようとしたそのとき――意識せずその手が止まった。ハルヒコがどんなに力を入れようとしても、ドアの取っ手にかけた手は動かなかった。魔法などではない。ハルヒコの体が無意識の内に発した警戒信号であった。
――もう追っ手はここまで来ているんじゃないのか……?
あれからどれだけ時間が経った?
このドアの向こうには兵士達が潜んでいて、こっちを窺っているんじゃないのか?
ハルヒコの中で疑念が渦巻く。
――マグダル様と関わりの深い自分は、真っ先に疑われて当たり前だ……。
一人の人物の顔を、ハルヒコは思い浮かべた。
――アイス団長……。
おそらく彼が、このクーデターの首謀者だろう。マグダルはそうとは言わなかったが、ここのところ起こっていた出来事を振り返ってみると、思い当たる節はいろいろとあった。城でのマグダルとの会話の中にアイスの名が出てきたときの違和感。アイスがハルヒコの家に立ち寄った際に交わした、何気ない世間話の中に潜んでいた微かなしこり。
――彼ほどの人間でも、少しぐらいの愚痴はこぼすだろう……。
その程度にしか、自分はアイスの言葉を受け止めていなかった。
――あれは探っていたんじゃないのか……。
自分がこのような事態に陥ったときに、どう動くのかを。
考えてみれば、アイスがこんなにも頻繁にリュッセルとエオラを行き来することに疑問を抱くべきだった。この国の裏側で何かが起ころうとしていることに気づいて然るべきだった。
今さら悔やんだところで、過ぎ去った時間は取り戻せない。自分の甘さにも、もういい加減うんざりではあったが……。
――ここからだ。ここから何をすべきか考えるんだ。
ハルヒコは扉の取っ手を握る手に力を込めた。
――このドアを開けなければ何も始まらない。
迷いがなくなったといえば嘘になる。だが、今は動かなければいけない。そうしなければ、さらなる後悔に押し潰されることになるだろう。
ハルヒコは扉を押した。
ドアは音もなく、あっさりと開いていった。




