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第5章―11

 そいつは脇目も振らず一直線に向かってきた。恨みをはらすかのように。

 まるで何がこの国の人々にとって最大の――そして最悪の――打撃になるのかを、理性ではなく本能で嗅ぎつけているみたいであった。まさに獣と呼ぶにふさわしい……。

 ウタルの体は考えるよりも早く、シュウ達の前に進み出ていた。

 腰に帯びた豪剣を引き抜く。黒光りする刀身――その大剣を構えた剛の者ウタルの姿は、まさしくクイール達を守る盾であり、壁であった。

 地面の淡い光に照らされ、トロールの姿が森の闇に浮かび上がってきた。その顔は地獄から這い出てきた豪鬼のごとき憤怒の形相で、トロールは木立をなぎ倒しながらこちらに突進してきた。

 ウタルは引くわけにはいかなかった。トロールの攻撃をいなすことも難しい。彼の背後には、動くことのかなわぬ兵士が横たわり、クイールとシュウが側に控えていたのだから。

 幸いというべきか、トロールは棍棒を手にしていなかった。素手ならば勝機はある――などと、そんな夢物語をウタルが考えたりするはずがない。

 ウタルが咄嗟に下した判断、それは――

 ――兵士を助けることは叶わない……。自分の命も時間稼ぎにしかならないだろう……。

「クイール王子、シュウを連れて逃げるのです! シュウを護ってやってください!」

 卑怯な物言いだと、ウタルは自分でも思った。クイールだけなら決してウタルや負傷兵を見捨てて逃げたりはしないだろう。

 ――きっと剣を抜くに違いない……。

 だが護るべき者がいるなら話は別だ。クイールは必ずや最後までその者を見捨てず、護り通してくれるに違いない。

「シュウ、逃げよう!」

「でも、ウタル隊長が……」

「ウタルのことを思うなら、自分の命を最後まで護ってみせるんだ」

 ――賢いお方だ……。

 最後にこの方をお救いできることに、ウタルは至上の喜びを感じた。

「さあ、行くのです!」

 クイールは無理やりシュウの手を引いて、その場を離れようとした。

 間髪入れずトロールが広場に飛び出してきた。爆発が起きたかのような轟音がシュウ達の背後で鳴り響いた。クイールは決して振り向かなかった。だが、シュウはクイールに手を引かれながら、置き去りにしてきた心残りを断ち切れず、振り返ってしまった。

 確認せずにはいられなかったのだ、その怪物の姿を。そして、これからウタルの身に起きる事の顛末を……。

 トロールは丸太のような剛腕を振り上げた。そして、剣を構えたウタルに躊躇いなく拳を振り下ろした。

 ――こいつは剣が怖くないのか!

 痛みに対する恐怖心の欠如。この怪物は自分が傷つくことを何一つ恐れてはいない。

 鈍く光る黒い刀身の切っ先を見てもなお、トロールは力を緩める気配を見せなかった。

 痛みは人を支配できる。痛みを知る者に対しては、その痛みをもってしてウタルは相手をコントロールすることができた。だが、この怪物にその術は通用しない。

 ウタルが手に持つ豪剣も、トロールの拳を前にすると果物ナイフにしか見えなかった。だが、人ならばそれでもその鋭い刃先に自分の拳を打ちつけようなどとは思いもしないだろう。トロールは……容易くそれをやってのけた。

 ウタルはトロールの振り下ろした拳を真正面から剣で受けた。トロールの指に深く刃が食い込んでいく。それでも怪物の力は緩まない。

 ウタルは負傷兵の位置を確認した上で、構えを半身に変えてトロールの攻撃をいなした。と同時に受け流した怪物の腕に一太刀を浴びせる。

 ――単調な動きだ……。

 それでも、倒せるなどと幻想を抱くことはしない。ただ、自分が想定している以上に時間をかせげると思っただけだ。クイール達が逃げるための時間を。

 だが、単調な攻撃だと判断したのは早計であった。人ならば――とウタルは条件をつけるべきであった。相手は人ではない。怪物という名の野獣なのだ。獣は時として人の想像を超えた動きをする。

 トロールは向きを変え、敵を体の正面にとらえたところで二撃目を放ってくる――ウタルはそう踏んでいた。だが、そうはならなかった。

 人ならば、そんな体勢でそんな攻撃を放ったところで効果はないはずだ。だが、相手はトロール。壊滅的な剛腕の持ち主で、暴君の如くその力を振るう怪物だ。

 はたして、怪物が次にとった行動は何であったか――。

 トロールは受け流された拳をそのままウタルに返してきたのである。裏拳である。

 そんな崩れた体勢で放ったところで、どれほどの効果があるというのか――。

 人ならば……。

 気づいたときには、ウタルはふき飛ばされていた。まさか、こんなタイミングでと虚をつかれ、防御に転じるいとまさえ与えられなかった。

 人がこんなふうに宙を舞うことがあるのかと、スローモーションのように放物線を描いてウタルが飛んでいくその光景をシュウは目の当たりにした。

「ウタル隊長!」

 シュウは叫んでいた。その声にクイールもたまらず振り向く。

 ウタルの体は何度も地面にバウンドし、やがてぴくりとも動かなくなった。

 ――こいつ!

 シュウの小さな体にわき起こった感情は、怒りであった。恐怖はその感情にふき飛ばされて、どこかに行ってしまっていた。

 そして、シュウは何をしたか――。

 シュウはクイールの手を振りほどき、トロールに向けて手をかざした。

 詠唱が始まる――。

 その手の先には不敵な笑みを浮かべ、下卑た笑い声を上げるトロールの姿が見えた。

 シュウの怒りが増した。それに伴うように手の先が熱くなる。青白い火球が膨らんでいく。その熱量に手が蒸発するのではないかと思ったぐらいだ。いや、蒸発してもいいと思った。

 怒りに我を忘れたシュウであったが、それでもトロールを倒せるなどとは思っていなかった。ただ――

 ――こいつに一発食らわしてやらないと気がすまない!

 トロールに魔法は効かないと何度も聞かされた。ハルヒコよりも小さな火球しか作れないことも分かっている。それでも――

 ――絶対に一発、お見舞いしてやるんだ!

 クイールはもはやシュウを止めることなどできなかった。今までシュウに見せてもらった、どんな炎の魔法よりも大きな火の玉が彼の手の先に錬成されていく。その強烈な熱量に肌を焦がされ、クイールはシュウに近寄ることもできなかった。

 ――これが魔法の本当の姿なのか!

 それは目の前の怪物よりも凶暴に見えた。その凶暴さを制御できなくなったとき――手に負えなくなったとき――どんな惨事が待ち構えているのか。クイールは空恐ろしくなった。

 つまるところ、大きな力を制御するのは人の意思なのだ。力をコントロールできない人間は、その力を持つべきではない。その先には破滅が荒野の如く広がっていることだろう。

 もう充分だった。煮えたぎる怒りもすべて、その火球に取り込まれてしまった。炎の魔法は荒ぶり、シュウでさえもう抑えきれなくなっていた。炎はまるで命が宿ったかのように凶暴で冷酷な光を放っていた。

「フラーモ……」

 たまらず口にしていた――その魔法の名を。

 青白い火球は名前を与えられ、嬉々としてシュウの手から飛び出した。

 それは一瞬の出来事であった。

 森にレーザーのような光の筋が走ったかと思うと、次の瞬間、大地が激しく揺れた。トロールの巨体が膝をついて地面に倒れたのだ。土煙りが舞いあがった。

 ――何が起こったんだ……。

 クイールだけではない。魔法を放ったシュウでさえ事態を把握できないでいた。

 シュウの手は、がたがたとただ震えていた。

 やがて土埃が沈澱し、静けさと共に空気が澄み渡ると、そこにはトロールの骸が横たわっていた。その醜悪な顔面を、半分吹き飛ばされて……。

 ――魔法は効かないはずじゃなかったのか……。

 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 シュウはクイールの制止を振り切り、倒れているウタルの元へと走った。傍らにひざまずき、ウタルの胸の動きを確認する。

 ――まだ生きている!

 希望の光がわずかに見えたそのとき、背後で地獄の亡者の唸り声が上がった。シュウの魂は一瞬にして握り潰された。

 ゆっくりと背後を振り向く。

 そこには、まさに亡者と呼ぶにふさわしい、頭を半分吹き飛ばされたトロールがゆっくりと上体を起こしているところであった。

 ハルヒコは――父親は――何と言っていたか。

『この世界で甘い考えは捨てないといけない。注意深く慎重に行動しなければ、いつかは足をすくわれてしまう』

 何度も口癖のようにそう言い聞かされてきた。

 ――パパさん……。

 ああ、失敗したな――そんなことしか、そのときは頭に思い浮かばなかった。

 トロールがゆっくりと腕を振り上げる。

 シュウはヘビに睨まれたカエルのように金縛りにあい、ゆっくりと近づいてくる死神の姿から目を逸らすことを許されなかった。

「シュウ!」

 クイールが剣を引き抜き駆けてくる。

 だが、到底間に合うことはかなわないだろう。間に合ったところで、どうすることもできない……。

 ――クイール、逃げて……。

 声を出すことができなかった。シュウは心でそう祈った。

 いよいよ、死の臭いが色濃くなった。

 トロールの腕は頂きにまで持ち上げられ、後はそれが振り下ろされるのを待つばかりだった。シュウはその腕をただ見上げるのみだった。

 次の瞬間――

 遠くから何か叫び声が聞こえたような気がした。何を叫んでいるかは分からなかったが、懐かしい声であった。

 そして、火が噴き上がった!

 トロールに穿たれた穴という穴から、紅蓮の炎が――。

 元から空いていた眼孔や口からはもちろん、刺さった槍や矢の管からも火が噴き出し、シュウが吹き飛ばした顔面の大穴からも盛大な火柱が立ち上がった。

 まるで地獄からの使者が、亡者を連れ戻しにきたかのような光景であった。

 ぷすぷすと怪物の巨体が炭化して、炎の行き場が失われると、かつてトロールであったその物体は大地に帰るように静かに横たわった。

 ぱちぱちと小さく残り火が爆ぜる音がする。それ以外の音はどこかに隠れてしまい、物陰からこっそりとこちらの様子を窺っているようだった。辺りは先ほどまでの狂乱が嘘のように、しんと静まり返っていた。

 そして、シュウは見た。

 崩れ落ちたトロールの骸の向こうに立つ、その人の姿を――。


 ハルヒコは森を走っていた。

 森に侵入したトロールを追って。

 この狂騒の舞台に登場した最後の生き残り――手負いの狼であった。

 先を行くトロールは何かに引かれるように、迷いなく森を突っ走っていく。ほのかに浮かび上がった光の道をガイドにして。その背中は絶望的に遠く小さく見える。

 ――この光はシュウのものに違いない。

 そして、おそらくはあそこにいるのだろうと、ハルヒコは確信していた。

 ――間に合ってくれ!

 だがトロールに追いついたからといって何ができるというのだ。目眩しでまた時間をかせぐのか……。

 ハルヒコに何か打開策があったわけではない。むしろ何も考えてなどいられなかった。

 ただ、とにかく一刻も早くシュウのところに向かいたかった。理屈ではない。シュウの傍らに立ち、この世界から二人の存在が消えてしまうことになったとしても、せめて最後は抱きしめて父子一緒に終わりを迎えたいと思った。

 ――シュウがあそこにいるなら、奴はもうすぐ辿り着く……。

 焦燥感ばかりが込み上げてくる。足を懸命に動かしているのに、スローモーションのように体は一向に前に進んでいないように感じてしまう。

 ――間に合ってくれ!

 ハルヒコはもう一度そう祈った。

 そのとき、森に閃光が走った。ハルヒコの前方で青白い光の筋が走った。

 シュウの魔法に違いない。だが、トロールに魔法は通用しないはずだ。

 ハルヒコは身にまとわりつく空気と時間をもどかしげに掻いた。気持ちばかりが先行する。

 やがて、広場を視界にとらえると、そこには信じられない光景が広がっていた。あの巨大なトロールが地面に伏していたのだ。

 ――シュウがやったのか……?

 ハルヒコの思考が混乱する中、倒れた怪物の向こう側にシュウの姿がちらと見えた。

 ――無事だ!

 ハルヒコがそう安心したのも束の間、目の前の怪物がもぞもぞと動き出した。ハルヒコとシュウを隔てる壁が立ち上がっていく。

 怒りを覚えた。沸々と煮えたぎる怒りが込み上げてくるのを、ハルヒコは抑えられなかった。

 ――こいつ! なに邪魔しようとしてんだ!

 トロールが手を振り上げる。

「俺の息子に手を出すんじゃねえ!」

 ハルヒコは叫んでいた。

 そして、つかんだ――。

 無意識に、トロールに刺さった槍の一端を――。

 ――お前は魔法が効かなかったんだっけな……。

 でも、体の内側はどうなんだ!

 意識して、そう思ったわけではない。ハルヒコの心のどこかで、そう叫んでいるものがいた。そして、こうも思った。

 ――図体ばかりでかい、脆弱な魂の持ち主が!

 そして、小さく囁いていた。「フラーモ」と――。

 次の瞬間、放たれた炎は槍を伝わり、穿たれた穴からトロールの体内に侵入し――その怪物の魂を内側から破壊した。

 トロールは一瞬にして魂を焼き尽くされ、次いで体内のありとあらゆる臓器や筋肉が、抵抗する間もなくその圧倒的な熱量に炙られ損なわれていった。

 やがて、トロールの体内を蹂躙し行き場を失った炎は、皮膚に空いた穴という穴から外の世界を目がけて噴き出していった。

 消し炭と化した怪物は、静かに大地の一部へと帰っていった……。


 崩れ落ちたトロールの骸の向こうに、その人は立っていた。

 シュウは見た――。

 息を切らして立つ、父の姿を――ハルヒコの姿を。

 いたわるような目でじっと自分を見つめ、ハルヒコは――父は微笑んでいた

 シュウは思った……。

 ――なぜだろう……。

 父の姿を見つめながら、シュウは思った……。

 恐ろしい――と……。


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