第5章―10
闇夜の森を、魂の炎のように淡く灯る光を頼りに、ウタルは疾走していた。背中に負傷した兵士をおぶって。
クイールとシュウを探しに森に飛び込んだウタルは、兵士に応急手当を施している二人と合流できた。本来なら、その兵士を置き去りにしてクイールだけでも――残念ながら、その最低限の選択の中にシュウは含まれていない――安全な場所に連れていかなければならなかったはずだ。だが、ウタルは今、負傷兵を背負い、シュウが提案した森の広場に向かっている。
クイールの命令であった――。
『ですが、まずは王子の安全を確保せねばなりません。どうか、お聞き入れください』
『それでは間に合わないのだ。この兵の命は尽きかけている――』
そして、こう言った。
『ルアン国第一王子クイールが命ずる。ウタルよ、この兵を担ぎ安全な場所まで運ぶのだ』
王族としての立場を利用したのではない。王族としての立場に目覚めたのだ。
シュウは先導して、木の幹にほのかな魔法の光を灯していく。地面の様子が最低限確認できるように、できるだけ木の根上がりの部分に光の印をつけていく。
――まるで光の道が浮かび上がっているようだ……。
ウタルはそう思った。
ウタルはその淡い光の筋に導かれるまま、夜の森を走り続けた。
――もう少しだ……。
シュウには確信があった。薄明かりに照らされた木々の並びに見覚えがある。ハルヒコが森の広場で教える学校の休憩時間、村の子ども達と一緒に森の中を鬼ごっこや隠れんぼをして縦横無尽に駆け巡っていたのだ。
やがて、照らされた光の向こうに真っ暗な空間が姿を現した。それはつまり光を反射する樹木がそこにはないということを示している。
その広場に到着したからといって安全が保証されるわけではない。それでも、シュウにとっては普段慣れ親しんだ場所に戻ってこられたことで、どれほど安心することができただろうか。
だが、事はそんなにすんなりとは行ってくれないものだ。シュウ達が広場にたどり着こうとしたその直前、背後から凄まじい獣の叫び声が彼等を追いかけるようにして聞こえてきた。まるで不安という怪物が実体を手に入れ、その手で彼等の首をぐいとひねったかのように、シュウ達はみな振り向かずにはいられなかった。
「あの声はいったい何だ……」
ウタルほどの者でも思わずそうこぼしてしまう不吉さが、その声には宿っていた。
森は暗い闇の底に沈んだまま、何一つ不穏な兆しは見受けられない。
――戦場で何かが起こっている……。
それは間違いないだろう。だが、今はそんなことを気にかけてはいられない。一刻も早く、負傷した兵に手当てを施さなければならない。
ウタルは戦場がある方角に意識を向け、決して注意を怠らぬよう努めた。
「手足を固定する添え木がいります。お二人で探してきてもらえますか。できるだけまっすぐなものがいい」
「それならこっちだ」
シュウは見当をつけて走り出した。クイールが後に続く。
ウタルは負傷兵を地面に下ろした。クイールから簡単に容態を聞いていたが、いざ自分で確認してみると、その酷い有様に背筋が凍る思いがした。
――よくこれで、命を繋ぎとめられているものだ……。
奇跡という言葉が、ウタルの頭を一瞬よぎった。だが、ウタルはすぐに――人の思考を止めてしまう――甘い誘惑にも似たその言葉を頭から追い払った。兵士にとっては目の前の現実がすべてだ。自分が置かれている状況を憶測を交えず客観的に分析し、今自分ができること、なすべきことをただ実行するのみだ。
ウタルはクイールが縛った肩口の紐を緩めた。とたんに傷口から血が噴き出した。
――しっかりと縛ってくださっていたのだな……。
適切な止血点を適切な強さで縛っている。ウタルは自分が教えた応急手当てを、クイールが忘れずに覚えていてくれたことに喜びを禁じえなかった。このような状況下ではあったが、クイールが成長していく姿を目の当たりにできて嬉しかったのだ。
ウタルは再び兵士の肩口を縛った。出血すると分かっていても、血を通わせなければ腕は壊死してしまう。そのため、ウタルはわざと紐を一旦緩めたのだった。
――これでしばらくはもつだろう。
そこにクイール達が戻ってきた。
「ウタル、添え木はこれで大丈夫だろうか?」
クイールが抱えた木には鋭利な切り口が見てとれた。細い木立を剣で断ち切ったのだろう。長さも測ったように兵士の腕と足にぴったりであった。
――いや、測っていかれたのだろう。私が指示していなくとも……。
そして、二人で抱えてきた大人の身長ほどもある二本の木に目をやった。
「……それは?」
「担架が必要だろうと思って持ってきた。これに服を通せば、とりあえず人を運べる担架になるのだろう?」
――そこまで考えて……。
この先、自分が王子に対して選択という名の強制を――あたかもそこに自由があるかのように――提示することはないだろう。これからは本当の意味での助言をただ伝えていくのみだ。王子はもう自覚をもって判断し行動していくことができる。放っておいても自ら成長していくことだろう。
ウタルは一抹の寂しさを覚えた。喜ぶべきことなのにと心の中で苦笑した。
「さあ時間がありません。早く手当てをいたしましょう。添え木で腕を固定します。手伝っていただけますか?」
クイールは兵の傍らに膝をついた。
「シュウ、灯りを頼む」
シュウは自分の手に宿した魔法の光を、兵士の体全体を照らすように掲げた。
ウタルはクイールが同じくそうしたように、自らの服の袖を引きちぎりロープをつくった。三人は兵士の手当てに集中した。まるで世界はそこだけにしか存在していないかのようであった。
だが、どんなに望むまいと世界は閉じてくれたりはしない。閉じた世界は、それを望む者がつくり出した幻想にすぎないのだ。夢の世界の外側には、獲物を狙う残酷な現実が手ぐすね引いて待っている。
兵士の手当てが済むとウタルは言った。
「助けを呼びにまいりましょう。これ以上、彼を動かすのは危険だ」
残念ながら、クイール達と共に担架を担ぐのは現実的ではない。子どもであるという事実は変えられない。力がまだ足りないのだ。無理して運ぼうとすれば、不安定な担架は傾き、兵士を落下させてしまう危険性が高い。
「それなら、私とシュウが助けを呼びにいこう」
「王子達だけで行かせるのは危険だと分かっております。しかし、今はそうするしかないでしょう。彼の容態が急変したとき、私が近くにいた方がいい。王子が拾ってくださった命です。なんとしても彼を助けてやりたい」
クイールはうなずいた。
「川の方から回ろう。シュウ、案内を頼む」
「分かった。こっちだよ」
そうして二人が走り出そうとした――そのとき、
――!
「王子、少しお待ちを!」
ウタルが小声で叫んだ。
「どうした……」
クイールが尋ねようとすると、ウタルは人差し指を立てて自分の口に押し当てた。
「お静かに……」
尋常ではない事態が起こりつつある。ウタルの様子から、そんな不安がシュウ達を一瞬で包み込んだ。
みな身動き一つせず耳をそばだてる。
それは遠くから聞こえてきた。いや、聞こえてきたのではない。地面を伝わってきたのだ――うねり進む蛇のように……。
小刻みな振動が足を伝わって、不安な魂を揺らす。それは確実に大きくなってきている……近づいてきているのだ!
ばきばきと森が割れる音が、シュウ達の耳にも届くようになってきた。地面を伝わってくる振動も――それはもはや地震と呼んでも差し支えなかった――正常な思考をさせないほどに彼等の魂を揺さぶった。
そいつはシュウ達が通ってきた淡い光の通路を、まるで彼等を追いかけるように辿ってきたのだ。




