第5章―9
まともにやり合うことなど最初から考えてもいなかった。怪物相手に正々堂々と真正面からぶつかるなんて、冗談ではない。
――青春映画でもあるまいし……。
さしずめ、恰幅のいい不良少年に魂でぶつかっていく熱血教師の構図だろうか。それでトロールが更生してくれるなら、ハルヒコも身を挺してやり合う覚悟も持てる。
――冗談じゃない……。
ハルヒコはもう一度そう思った。
何か考えがあったわけではない。トロールに魔法は効きにくいと誰彼となく一方的に洗脳され、自分の腕っ節の弱さは他人に指摘されるまでもない。だが、それが目の前の少年を助けてはいけない理由にはならないはずだ。
しかし、ハルヒコは勘違いをしていた。
何か考えがあったわけではない――自分ではそう思っていた。だが、気づいていなかっただけなのだ。知らず知らず無意識のうちに、ハルヒコは少年兵を助ける算段をつけていた。
目の前に溺れている者がいて、策もなく自分の力量も測れず水に飛び込むのは、はたして勇気と呼べるのだろうか。自分を犠牲にして誰かを助ける行為は確かに美しい。だが、一方で残された家族の悲しみや苦しさは計り知れない。そこまで考えての行動なのか。
――人が手を延ばせる範囲は案外狭いものだ……。
人それぞれに考えはあるだろう。ハルヒコは――それが絶対に正しいとは思っていないが――自分にできることをすればそれでいいと考えている人間だ。自分の手の届く範囲で――その場の状況と自分の能力を客観的に判断し――やれることをやる。
一方で、自分に何かができるにも関わらず、ただ傍観しているのも何か違うようにも感じていた。ただの見物人として黙っているのは――生き方としては賢いのかもしれないが――ハルヒコの性には合わなかった。
ともかく、このときのハルヒコがとった行動は単純なものだった。
「フラーモ!」
あれほど効かぬと釘を刺されていた魔法をハルヒコは放ったのだ。
炎の火球が一直線にトロールの顔面めがけて飛んでいく。
ハルヒコはこの炎でトロールを倒せるなどとは夢にも思ってはいなかった。
火球はトロールの目の前で炸裂したが、案の定、怪物の分厚い表皮の一部を少し焦がしただけにすぎなかった。
だが、ハルヒコの狙いはそこにあったのではない。
――お前は光が苦手なんだろう。
たっぷりと眩しがるがいい!
ハルヒコはトロールの目を眩ますことを狙ったのだ。少しでも隙をつくることができれば、そのわずかな時間を使って少年兵をその場から連れ出し、一目散に橋の方へと逃げ出すつもりでいた。
確信があったわけではない。上手くいかなかったときには、残酷だが少年兵を見捨てる選択もありえた。
だが、ハルヒコの策は見事に的中した。それどころか、想定を超える効果をトロールにもたらしたのだ。
火球が炸裂した瞬間、目の前で起こった爆発と閃光によってトロールは思わずのけ反った。手から棍棒を取り落とし、巨大な木塊は地響きを立て地面に落下した。そして――
「ビギャァゥワ……!」
トロールは両手で顔面を押さえ、子どもが転んだときのように泣き叫んだ。
なんとも惨めな光景であった。それまで不敵な笑みを浮かべ自信の塊のように振る舞っていた怪物は、図体のでかいただのガキだったのだ。
ハルヒコは呆気に取られた。何事が起きたのか理解できず、一瞬時間が止まってしまったかのように感じたぐらいだ。
何が起こったのか――。
それは魔法の理に深く関わる出来事であった。
ハルヒコはトロールの目を眩ますために、あえて火球をぶつけず目の前で炸裂させた。イメージのなせる技である。それが功を奏した――このときには幸いにも。
魔法には耐性のあるトロールに凄まじい光と熱が襲いかかる。繰り返すが、トロールは魔法には耐性があったのだ――。
このときのことを、後になってハルヒコはよく回想する。後悔と言ってもいい。
――どうして、あのとき魔法の理についてもっと考えなかったんだろう……。
つまりは痛い目を見ることになったのだ。それほど遠くない未来において。
ともかく、このときトロールは悶え苦しみ、足元のおぼつかない様子でふらふらとよろめいた。
そして、ハルヒコは何をしたか――。
少年兵を助けたのではない。もちろん、その少年兵を助けて逃げることなど容易であった。当初の目的もそうであったはずだ。
だが、ハルヒコがとった行動は違っていた。深く考えてそうしたわけではない。咄嗟の判断で思わず――トロールへの恨みもあったのかもしれない――叫んでいたのだ。
「トロールを押し戻せ!」
越権行為も甚だしい。どんな権限があって、そんな命令を兵達に下せるというのか。小さな村の、一介の村長ごときが……。
だが、その取るに足らない一介の村長の声に、あろうことか、その場にいた兵達はみな呼応したのである。
おおぅと鬨の声を上げ、槍を握り直した兵達が突進していく。同時にクロスボウの矢が夕立のようにトロールに降り注いだ。
トロールは突き押され、貫かれ、悶絶し、最後は足を踏み外したかのように、もんどりをうって街道から落下した。
ドズーンと轟音と共に大地が揺れた。兵達は石垣に取りつき、街道下の斜面を――ことの成り行きを、この戦いの結末を――固唾を呑んでうかがった。
そこには、無数の針が突き出た巨大な肉塊が、何も語らずただ黙って転がっていた。トロールに穿たれた矢や槍は、巨体の圧倒的な重みに押され、身体中のありとあらゆる急所を貫いていた。トロールは自身の体重によって、自らの命にとどめを刺したのだ。
――勝ったのか……?
ハルヒコだけが心の中でつぶやいた言葉ではなかった。その場にいた全員が同じように思ったはずだ。
どれほどの沈黙が続いたか分からない。そして、どこから湧き上がったかのかも分からない――誰かが勝利の声を上げた。
それは最初、耳をそばだてなければ聞こえないような微かなささやき声であった。そのささやきが静かな水面を伝わる素元波のごとく、次から次へと数を増やし広がっていった。波と波が重なり、音と音が重なり――そして人の思いと思いが重なって――最後には大気を震わすほどの大歓声へと変わっていった。
ハルヒコは――望むとも望まざるとも――その歓喜の中心にいて、一切の賛美を浴びせかけられることになった。
――ああ、またとんでもないことになった……。
ハルヒコは愛想笑いを浮かべながら、漠然とした未来への不安を覚えた。
誰かに賛辞をもらって嬉しくないわけがない。だが、あまりにも大きすぎる――この世界の表舞台に立たざるをえなくなるような――そんな重たい評価は身に余る。ハルヒコはただ穏やかに家族と暮らしていきたいだけなのだ。
――ともかく、これでシュウ達も大丈夫か……。
もう危険が及ぶこともないだろう。
『甘い考えだ……。どうして、こんなにも同じ過ちを繰り返す……。愚か者め……』
天の上で誰かが嘲笑った。
そのとき――どうしてこんなにも、この世界は水を差すのが上手いのだろう――皆が歓喜にわくこの瞬間、狙ったかのように、それは放たれた。
断末魔であった――。
――こんなことがあっていいのか!
俺様がこんなにも惨めに切り刻まれて地面に伏している――。
――こんなことがあっていいのか!
なんて俺は可哀想なんだ――。
悲しみとも怒りとも取れる泣き声を上げ、トロールは自らを憐れむ最後の声を世界に刻んだ。
悪夢の始まりであった……。
怪物が事切れ、肝を冷やした兵士達が心から安堵の溜め息をもらした――そのとき、大森林の奥から雷鳴のごとき怒号が上がり、兵達の魂を冷たく噛み砕いた。トロールの断末魔に呼応するように、怒り悲しみ――さまざまな感情がない交ぜになった――呪いを込めた獣の叫びが世界を揺らした。
時を置かずして――森が、割れた。
ばきばきと巨木がなぎ倒され、大森林に筋が引かれていく。兵士達の立つ地面まで短い間隔の振動が伝わってくる。揺れはますます激しさを増していく。近づいてきているのだ。
刻まれていく筋が森の縁にたどり着いたとき、一瞬の静寂の後――森が爆発した。そう形容するのがふさわしい光景であった。
トロールが出現した場所からほど近い地点。そして、そこから北にずいぶんと離れた地点――街道に敷かれた兵士達の布陣の端。爆発はその二か所で同時に起きた。
想像に難くない――新たなトロールの出現であった。いや、トロール達の出現というべきか……。
アイスは何と言ったか?
『敵の規模が分からないうちは――』と言ったのではなかったか。
――こういうことか……。
ハルヒコは、また打ちのめされた。この世界のどこかで嘲笑している誰かに。いつまでたっても直らない、自分の甘さ加減に。
その後の戦いは混迷を極めた。
近くに現れたトロールには、ハルヒコも炎の魔法をもって参戦した。先ほどと同じように目眩しをかけ、その隙をついて槍兵や弓兵が攻撃を仕掛ける。街道に上がってこさせないように、タイミングを見計らってハルヒコは魔法を放つ。ほどなく目の前のトロールは地面に膝をついた。負傷者の山を高く築き上げて……。
問題は北に現れたトロールの方であった。そのトロールはひときわ巨大な体躯をほこり、その場に布陣した部隊には絶対的な戦力が足りなかった。増援を向かわせようにも、手前のトロールとの戦いで街道は兵士達で埋まり、戦場は完全に分断されてしまった。そして、ついにはトロールが街道まで侵攻することを許してしまった。
手前のトロールを仕留めたハルヒコは、街道北の戦場へ援護に向かおうとした。手順は何も変わらない。時間はかかるが、トロールを仕留められるのは間違いないだろう。この短い時間で、ハルヒコも兵士達も多くの経験を積んだ。
だが、事態は思いも寄らぬ方向へと動き出した。
――ダメだ……。そっちに行ってはダメだ!
トロールは再び突進した。兵士達に向かって……ではない。
何を思ったのか、トロールは森に向かって走り出したのだ。まるで何かに引き寄せられるように。
――ダメだ! その先には……。
トロールが向かう先、シュウとクイール、その二人が負傷した兵を助けようと奮闘しているに違いなかった。




