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第5章―7

 時間は少しさかのぼる。

 トロールが街道にまで上がってきた光景に、本陣に詰めていた兵士達もまた騒然となっていた。

「クイール様、避難のお支度を。私は騎手に馬の用意を指示してまいります」

 マグダルはそう言うと急ぎ席を離れていった。

「どうしよう……。クイール、そこまで怪物が来ている……」

 それまでも、まさに居ても立ってもいられぬ様子で戦況を見守ってきたシュウは、臆病者とそしられるのもかまわず――そこまで考えが及ばなかったというのが本当のところだが――震える声で本音をもらした。

 だが、シュウの声はクイールの耳には届いていなかった。クイールはただまっすぐにトロールが暴れている前線を睨みつけていた。

 いつまでも返事を返さないクイールを心配して、シュウが再び声をかけようとした。そのとき、

「シュウ、手伝ってほしいことがあるんだ……」

 クイールが小さな声でつぶやいた。まるで周囲の兵達に聞こえないように注意しているかのようだった。

 シュウは、クイールに戦場についてきてほしいと城で打ち明けられたときの、あの嫌な感覚を思い出していた。背中をまた、ねっとりとした冷や汗が流れていくのを感じた。

 クイールが何を言おうとしているのか――。

 聞くまでもない。シュウにはもう分かっていたのだ。

 クイールが蔑まされるようなことを言うはずがない。むしろ、王族としての責任に背中を押され、崇高な志がその口から語られることになるだろう。それが、付き合わされるシュウにとって、逃げ出したくなるような面倒事であったとしてもだ……。

「あの負傷した兵を見殺しにはできない」

 シュウは迫りくる前線を再び見た。

「トロールが暴れてるんだよ。あの場所に飛び込んでいくっていうの?」

 今も兵士達は槍を手に果敢に獰猛な怪物へと挑んでいる。矢と怒号が飛び交い、人が入り乱れ、戦場は逆巻く混沌の渦中にあった。

「今は誰もあの兵士を助けにいく余裕がない。でも、早くしないと彼はどんどん危険な状態になっていく。命にかかわるんだ」

 それでもとシュウは思った。

 ――僕達だけで何ができるっていうの……?

「あの兵士が今どんな状態か分からない。でも、応急処置ぐらいならできるんだ。出血しているなら、それを抑えることもできる」

 そんなこと、他の兵士に任せられないのかと、シュウは素直に思った。

「それに、あの場所で動けないのはすごく危険なんだ。早く彼を移動させてあげないと――」

 そして、クイールはシュウの目をまっすぐ見て言った。

「俺一人じゃ何もできない――。シュウの助けがいるんだ」

 クイールは決して目を逸らさなかった。その曇りない瞳の奥に、彼の強い意志が垣間見えたような気がした。

 クイールは、シュウが来なければ一人で行く、などとは決して口にしなかった。そんな強迫めいたことを言うような卑屈な人間ではなかった。相手が友と呼べる存在ならなおさらだ。こちらが無理強いしたことに応えてくれるのが友情ではない。相手に理解してもらう――共感を得て、同じ道を歩いていってくれる――それが友情だ。

 ただまっすぐに問いかける。

 シュウには分かってほしい。シュウならきっと理解してくれる。そう信じている目だった。

 たとえシュウが怖じけづいて断ったとしても、クイールは決して非難するようなことはなかっただろう。それが分かるから辛かった。そして、何も言わず一人で行ってしまうことが分かっていたから、なお辛かった。

 ――ひとりでは行かせられない……。

 それが、シュウが自分で出した答えだった。誰かに強制されたわけではない。クイールと共にいくと自分で決断したのだ。

「僕に何かできるのかな……」

 クイールの表情がぱっと明るくなった。そしてすぐに、城で見せたあのすまなさそうな顔をした。

 だが今度は、謝るような言葉をクイールが口にすることはなかった。それは覚悟を決めたからだった。

 いったい何を覚悟したのか――。

 ――シュウを守ってみせる。シュウに危険が迫ったときは、命に代えても守ってみせる。

 自分で危険な場所に誘っていながらと思う者もいるだろう。だが、クイールはシュウに対するいかなる責任をも背負う覚悟をそのときに誓ったのだ。

 自分の思いに応えてくれたシュウに報いたいと強く思った。

「ありがとう」

 二人が本当の親友になった瞬間であった。

 この日から、やがて訪れる悲しい別れのそのときまで、彼らは血のつながりを超えた――魂のつながりで結ばれた――兄弟のように、激動の時代を共に歩いていくことになる。


「クイール様を探すのだ!」

 本陣の前が騒がしくなっていた。もちろんトロールと戦っている兵達に動揺が伝わらぬようにと、親衛隊の兵士達は声をひそめ、クイール達の捜索は秘密裏に進められていた。だが、事が事だけにみな冷静になれるはずもなく、ウタルでさえ、その表情には蒼白の色を隠せない有様だった。

 異常な事態が進行していることは、当然ハルヒコにも感じとることができた。親衛隊の兵士達は静かに――そして慌ただしく――誰もが緊張の面持ちで動き回っていたからだ。

 ウタルが橋の袂、ハルヒコとアイスの元に近づいてきた。

「何があったんですか?」

 ウタルはなかなか答えてくれなかった。一瞬、何かを切り出そうとしたが、言葉が喉につまったみたいに、出かかった思いを再び胸の奥に飲み込んだ。ウタルほどの男が、そんな困惑した様子を隠せずにいたのだ。ハルヒコは不気味な予感に体が震えた。

「クイール様がいらっしゃらない……」

 ウタルの今にも消えそうな声を聞いた途端、ハルヒコは走り出していた。

「ハルヒコ殿、すまない! 必ず、シュウ君を無事に見つけてみせる――」

 つまりは、そういう事なのだ。ウタルはハルヒコと約束したシュウの安全を守ることができなかった。それを伝えねばならなかった。だが、ハルヒコの気持ちを思うと、どうしても言葉にならなかったのだ。

 ハルヒコは本陣に向かって走った。

 ――シュウに万が一のことがあれば、それはすべて、俺の責任だ……。

 ウタルやアイスを責める気持ちなどなかった。そもそも他の誰かに責任をなすりつけることなど思いつきもしなかった。

 ――そんなことをしてどうなる?

 ――それで自分を慰められるのか?

 それよりも――と思う。

 ――動くんだ! 自分が動いて、なんとかするんだ!

「いらっしゃったぞ! 王子があそこに!」

 ハルヒコが本陣の手前まで来たとき、不意に後方から呼び止められるように、それは聞こえた。声をひそめることも忘れ、兵士は興奮して叫んでいた。

 ハルヒコは声がした方に駆けつけた。そこは橋の袂にほど近い街道脇で、足元は崖と呼んでも差し支えない急な斜面が川に向かって落ち込んでいた。

 兵士の一人が対岸を指差していた。

「向こうの森の中へ入っていかれた!」

「間違いないか?」

 ウタルが橋の上から叫んだ。そして、ハルヒコを見た。

「わたしが行く。ハルヒコ殿、シュウ君はわたしが必ず王子と一緒に連れ戻す」

 ウタルは駆け出した。橋の上を――トロールが暴れる前線に向かって。

 ハルヒコは対岸を見た。こちら側ほどではないものの、向こう側の斜面もかなり険しい。その斜面を上がったところに森が見えた。ハルヒコの村から眼下を流れる川まで続くあの森だ。

 子ども達に文字や計算を教えたり、祭りや村人の結婚式をとり行う広場がある。畑仕事の後に汗を流す、川岸の天然のプールがある。

 ハルヒコは直感していた。シュウが、クイールが、なぜその森に向かったのかを。

 そして、気づけば走っていた。

 川を渡り斜面を駆け上がったのでは間に合わない。シュウ達が向かったのは、森の縁――今まさにトロールと兵士達が命のやり取りを繰り広げている最前線のはずなのだ。

 ハルヒコは駆けた。橋の上をウタルを追いかけるようにして。

「ハルヒコ殿、行ってはいけない!」

 アイスが叫んだ。

 だが、その叫びはハルヒコには届かなかった。

 聞こえていなかったわけではない。間違いなく、その声はハルヒコの耳の奥を揺らしていた。だが、今のハルヒコには、入ってくるすべての音や声は無意味だったのだ。

 鼓膜を震わせた振動は雑音でしかなかった。聴覚が受け取った情報は脳に届くことはなく、当然処理されることもない。

 拒否していたのだ――これから自分がなすべきことに必要なもの以外すべてを。

 次の攻撃を橋上で待つ兵達の群れをかき分け、前線に近づいていく。眼前に暴れているトロールの姿がますます巨大に――そして暴虐に――ハルヒコの視界を埋めていく。その大きさは遠くで見ていたときの比ではない。暴走しているトラックに自ら立ち向かっていくようなものであった。

 振り回す巨木の棍棒が風を砕き、うなりを上げている。あの棍棒が振り下ろされる場所に立てば、いともたやすく命は打ち砕かれるだろう。死の匂いが濃い――あの場所は死神が大挙して舞い踊る『死地』なのだ。

 ――そんな場所に俺は自ら向かおうとしている……。

 ――自ら命を捨てるような危険を冒そうとしている……。

 そんなことを、ハルヒコは……

 考えもしなかった――。

 思いつきもしなかった――。

 ただひたすらに、そのときは子供たちのことだけを思い走っていたのだ。

 ――俺が守らないといけない。シュウもクイール王子も……。

 ハルヒコは橋を渡り、死神が手ぐすねして待ち構える前線に足を踏み入れた。

 立ちはだかるトロールがにやりと笑ったように見えた。まるで自分を待ってくれていたかのように。

 ――そんな特別扱いはしなくていい……。

 言葉にならない思いが脳裏をかすめた。

 ハルヒコはトロールにかまうつもりなど毛頭なかった。

 先を行ったウタルのように、橋を渡ってすぐ、シュウ達が潜んでいるはずの森の中へと飛び込むつもりでいた。

 だが、ハルヒコは立ち止まったのだ。深い苦悩と共に――逡巡して。

 この戦場には初陣の者が何名もいた。ハルヒコはすでにその者達を見知っていた。

 貴族の末弟――少年と呼ぶべき――シュウやクイールの歳にほど近い若い兵士達だ。

 その一人が、今まさにトロールの餌食になろうとしていた。振り上げられた棍棒が下される先に、その少年兵はいた。

 恐怖に絡めとられ、金縛りにあったみたいに身動きができない。何もできず何も考えられず――まるで死を受け入れたみたいに――彼の時間は止まり、ただ死が訪れるのを待っているかのようであった。

 英雄や勇者ならば、躊躇うことなくすぐにでもトロールの前に立ちはだかるであろう。少年を守る壁として。

 だが、ハルヒコは英雄でも勇者でもない。どこにでもいる、ただの父親だった。

 子どものことだけを思う、ありふれた父親……。

 だから、迷った――当然のことだ。

 自分の息子と目の前の少年の命を秤にかけた――仕方のないことだ。

 ――シュウを守ると誓ったんだろう!

 自分に力があれば助けるさ。

 力のある人間に任せればいいだろう。

 何を迷うことがある。

 だが、ハルヒコはシュウの父親――どこにでもいるありふれた父親――であると同時に、目の前の少年と同じ歳頃の子を持つ父親でもあった。

 ――見過ごせるわけがないだろう!

 自分の息子を失ったときのことを考えろ。

 目の前の少年を失ったときの、彼の父親の悲しみを考えろ。

 だから、立ち止まったのだ。

 トロールの前に立ちはだかった。

 何ができるというわけでもない。

 それでも、少年の盾となるべく、トロールの前に立ちはだかった。

『それでいいのか?』

 まるでそう問いかけるように、トロールはにやりと笑った。


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