第5章―6
窮鼠、猫を噛む――。
ことわざがある。弱い者も追いつめられれば必死になって反撃してくる――自明の理のようにも聞こえるが、人によっては、なされるがままの者もいなくはない。社会性を身につけ集団で暮らすようになり、安全という幻想のぬるま湯に浸っていると、いつかは皆そうなっていってしまうのかもしれない。要はあきらめてしまうのだ。
だが、野生の生き物はそうではない。自分が取って食われるのを、ただ黙って眺めていられるわけがない。
グフ……グフフフフ……!
片膝を突き、俯いていたトロールの肩が小刻みに揺れ始めた。それに合わせるように、トロールの腹の底から不気味な嘲笑がもれ聞こえてきた。地の底から這い出てきたかのような、おぞましい響き……。
それは突然起こった。
――爆発だ……。
ハルヒコの頭にとっさに浮かんだ言葉――説明はできないが、そのときは、そうとしか形容できなかったのである。
トロールは突然、石垣に向かって突進し始めた。誰かに向かって――そんな意図があるようには見えなかった。ただただ怒りを爆発させるためだけに。
前に立ちはだかる兵士達は携えていた槍を投げ捨て、とっさのところでその獰猛な巨体をかわすことぐらいしかできなかった。
それでもトロールが立ち止まり、逃れた兵士に追い討ちをかけることもできただろう。だが、トロールはそんな兵士達を歯牙にもかけず――あるいは頭に血が上って周りが見えていなかったのかもしれない――大地を足で踏み砕き、やみくもに突進し続けた。
川の水は切り裂かれ、足で踏み抜かれた川床は――文字通り火薬を仕込んだみたいに――爆発した。
川を渡った先には急な斜面が待ち構えていた。トロールは巨大な手で大地をつかみ、元から四足獣であったかのように、突進するスピードを緩めることなく斜面を駆け上がっていった。
「やめろ! 退避するのだ!」
ハルヒコの横で、アイスが大声で叫んだ。焦りの色がうかがえた。
ハルヒコはアイスの視線の先を追った。
トロールが突進する石垣の手前、一人の兵士が槍を手にして立ちふさがっている光景が目に飛び込んできた。
――自殺行為だ!
その兵士は槍の石突を石垣の根元に固定し、両手で柄を握りしめていた。決して体格のよい兵士ではなかったが、そうすることで金属の塊といってもいいその槍を一人で支えることができたのだ。彼は突進してくるトロールに槍の穂先を向けた。
――相手の勢いを利用しようとしているのか……。
それでも、それが自殺行為であることに変わりはない。
もはや、兵士が逃げるタイミングは完全に失われた。
――ぶつかる!
一瞬の出来事であった。だが、その光景はスローモーションのようにゆっくりと、そして鮮明に、ハルヒコの脳裏に刻みつれられていった。
兵士が構えていた槍に向かって、トロールはまっすぐにためらうことなく突き進んでいった。槍の鋭い穂先がトロールの肩口に食い込んだ。トロールは自らの重量と勢いによって、槍を肉体の奥深くまで受け入れていった――。
そうなるはずであった……。
確かに間違いなく槍は致命傷と呼べる一撃をトロールに与えていた。あとわずか一押しで、槍の穂先はトロールの大きく脈打つ心臓を貫いていただろう。だが、そうはならなかった。厚く強靭な筋肉の鎧によって、寸前のところで阻まれてしまったのだ。
トロールは痛みを感じていないかのように――いや、もしかすると痛みにさえ気づいていないのかもしれない――肩に槍を突き刺さしたまま、重機のごとく石垣に向かって突進し続けた。
次の瞬間、何が起こったか――。
曲がったのだ! 槍が!
兵士が二人がかりでようやく持ち上げることのできる、重厚な金属の塊というべきあの槍が、針金のように折れ曲がっていったのだ。
トロールはついに斜面を上り切った。街道の石垣を足元に見下ろし、自分に槍を穿った兵の悲愴な表情を見下ろし、そして、戦慄に揺れる彼方まで広がる兵士達の群れを見下ろした。
満足そうであった。
トロールは再び自分の足元を見た。恐怖に凍りついた兵士がそこにいた。
トロールの顔が憤怒の形相に変わった。そして、右手に持っていた巨木の棍棒を、まるでゴルフクラブのように震える兵士に向かってスイングした。
爆発が再び起きた。
火薬が仕込まれているはずはない。しかし、そう形容する以外に、その場面を適切に表現できる言葉はなかったのだ。
棍棒に込められた暴力的なエネルギーを前にして、石垣は抵抗する間もなく吹き飛ばされていった。一人の力では持ち上げることもできないような巨石の群れが、バットで打たれたボールのように――いっそ清々しいくらいに――まっすぐと闇夜の空へと飲み込まれていった。
トロールの足元にいた兵士は――幸いにもというべきか――トロールの破滅的な直撃を受けることは免れた。だが、棍棒がかすめた兵士の腕は一瞬にしてずたずたに打ち砕かれ、決して華奢ではない兵士の体も破壊された石垣と共に街道の向かい側にある森の中へと吹き飛ばされていった。
「うろたえるな! 弓を放て! 槍部隊は次の攻撃に備えよ!」
檄が飛んだ。
兵士達が深く動揺に飲まれてしまう前に、アイスが叫んだのだ。
すぐに射手長の号令の下、クロスボウの矢は放たれた。このような緊迫した場面にもかかわらず、的を外した矢は一つとしてなかった。
――どうして、みんな、こんなにもすぐに立ち直れるんだ……。
何事もなかったかのように――。
――いや、それは嘘だ。みんな、恐怖に震えている。
逃げ出したい気持ちを抑えこんで、兵士達はここに留まっている。
しかし、ハルヒコには、それは勇気と呼べるものとは少し違うような気がしていた。
――責任……のようなものだろうか。
だとしたら馬鹿げてる――そう思う者もいるだろう。だが、ハルヒコはそうは思えなかった。むしろ痛いほど理解できた。
責任という言葉の中には、さまざまな思いが込められている。
もし自分が逃げ出せば、仲間の命が危険にさらされてしまう。
トロールをこのまま野放しにすれば、村人達の暮らしは立ち行かなくなってしまう。
仲間を見捨ててしまえば、臆病者のそしりは免れず、軍に自分の居場所はなくなってしまう。
仕事を失えば、家族を養うこともできなくなってしまう。
――命に代えられるものはない……。
しかし、それでも考えずにはいられないのだ。さまざまな思いと自分の命を秤にかけて。
――自分にも守るべきものがある……。
兵士達は果敢にトロールに立ち向かっていった。トロールが街道に上がってきたとしても、やるべきことに変わりはなかった。
槍を刺し、矢を射る――その繰り返しだった。
あきらかにトロールの動きは精彩を欠いてきていた。トロールに刺さった槍や矢からは大量の血がとめどなく噴き出し続け、今が夜でなければ、辺り一面に血の絨毯が敷かれていることに、みな戦慄を覚えたことだろう。にもかかわらず、いつまで経ってもトロールが大地にひれ伏すことはなかったのである。
――こんな怪物、勇者なら簡単に倒してたんじゃなかったか……。
ファンタジーの世界――ゲームや物語の中で……。
たった一人で、数名の仲間達だけで……。
――いとも、たやすく……。
それが、実際は軍隊が戦っている。何百名もの兵士が束になって立ち向かっている。武器も剣などではない。槍や矢といった効率一辺倒の無骨なものばかりだ。
「ハルヒコ殿、後方に退避してください」
アイスが近づいてきた。耳元で囁いた。
「大丈夫です。まだお手伝いできます」
アイスは微笑んだ。だが、その笑みは無理にひねり出したもののようにハルヒコには見えた。
「ここはもう前線です……」
目の前の橋を渡ったそのすぐ先でトロールは暴れている。間に兵士達の群れが挟まって、視覚的にも距離があるように感じられる。それだけではない。その兵士達が間にいるという事実が――こともあろうか――ハルヒコに安心感を覚えさせていたのだ。
――ぬるま湯につかりすぎていた……。
どこまでも甘い考えから抜け出せない。トロールがその気になれば、一瞬でハルヒコの目の前までやってくることができる。そういう距離であった。
ハルヒコを潰す……トロールにしてみれば造作もないことだった。
「王子達も本陣から退避させます」
アイスはそれ以上何も言わなかったが、シュウの安全も気にかけてくれていることは嫌というほど伝わってきた。
本陣の裏手には騎馬が待機していた。騎手もアイス騎士団の精鋭達が控えている。万が一の事態が起きたときは、一命を賭してクイール王子を駐屯地まで送り届ける手はずとなっていた。
アイスは本陣の警護についていたウタルに合図を送った。ウタルも状況を見て、その合図を待ち構えていたようだった。
「本陣から退避いたします」
ウタルが本陣のクイールの元に駆けつけた。だが、そこには……。
――!
クイールとシュウの姿はなかったのである。
マグダルが何処からか戻ってきた。
「クイール王子はどうしたのだ?」
「分かりません。マグダル様もご存じないのですか?」
「わしは避難の指示をしにいっておった。それでも、ほんのわずかな時間じゃぞ」
ウタルとマグダルは辺りを見回した。
「クイール王子をお探しするのだ!」
ウタルは麾下の親衛隊に命令し、自らも本陣を飛び出していった。
本陣での慌てぶりは、その様子を見ていたハルヒコにも伝わってきた。
――何が起こっているんだ……。
そのときは想像もつかなかった。ハルヒコの身にこれから起こる出来事――自身が黒の魔導士としての伝説――その第一幕になることなど……。




