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第5章―5

 突然、森が割れたかと思うと、そいつは姿を現した。草をかき分けるように、巨木を押しのけながら。

 一つ目の巨人――トロールであった。

 ――こういうのはサイクロプスって言うんじゃなかったか……。

 目の前に出現した巨人は口ほどもある大きな目を顔の中央に据え、それをギョロギョロとせわしなく動かしていた。体はぶよぶよとだらしなく、暗くて定かではなかったが、皮膚の色は緑がかって少しぬめっているようだった。口からは盛大によだれがこぼれ落ち、それを拭うような素振りさえ見せない。ぼろぼろになった何かの獣の皮を腰に巻きつけているだけで、他に身につけているものは何もない――裸足であった。

 こちらの世界の発音にならって、ハルヒコもその怪物をトロールと呼んでいた。だが、一つ目の巨人という特徴は、元の世界では架空の存在としてサイクロプスという名がつけられていた。ハルヒコは目の前に現れた、一つ目という特徴を持つ怪物に対する認識と名称の組み合わせを改めようと試みた。だが、違和感が拭えなかった。

 それは先に上げた特徴と共に、

 ――あまりにも知性が感じられない……。

 一挙手一投足、すべての動作に獣じみた幼稚さを想起させてしまう。その姿はハルヒコがどこかで抱いていたトロールのイメージにぴったりと当てはまっていたのだ。

 もはや、その怪物はトロール以外の何ものでもなかった。トロールという名称を差し置いて、他に名付けるべき、ふさわしい言葉はないように思われた。

 トロールはその大きな目を持っていながら、獣のようにクンクンと辺りの臭いを嗅いで探っているように見えた。

 ――なんて惨めな生き物なんだ……。

 ハルヒコのみならず、そこにいた誰もが――言葉にはならなくとも――そう思ったに違いない。頭ではなく魂そのものが感じる嫌悪感。

 アイスもまた固まったままであった。恐れというよりは忌避感と言った方が正しいだろう。ハルヒコと同じような気持ちを抱いている様子であった。

 あまりに哀れ――そして、こんな生き物が人と同じ世に存在するという事実それ自体が我慢ならない。

 誰一人として声を上げなかった。皆、見世物小屋で世にも珍しい生き物を見物しているみたいに寡黙であった。ただ一匹を除いては……。

 突如として悲痛な叫び声が上がった。その場を支配していた沈黙を非難するかのように――。

 羊であった。トロールの目と鼻の先、杭に繋がれ身動きがとれない。パニック状態で、自分の首が絞められるのもかまわず、トロールから逃れようと狂ったように飛び跳ねている。ロープはぴんと張っていた。

 トロールの顔がにやっと歪んだように見えた。

「アイス団長!」

 ハルヒコに声をかけられ、アイスははっと我に返った。そして躊躇なく、よく通る声で号令をかけた。

「矢を放て!」

 射手もまたよく訓練されていた。それまで各々が戸惑いを隠せないでいたところに――アイスの号令一下――兵達はただちに落ち着きを取り戻し、射手長の指示に耳を澄ませた。

「矢をつがえよ!」

 ハルヒコは練習した通りに、クロスボウを地面に突き立てた。銃床を肩に押し当てクロスボウを安定させると、取り付けていた補助器具をためらうことなく一気に引き上げた。

 ガキッと弦が固定される音がした。待ち構えていたように、射手がそれを受け取った。

 射手は芸術的とも言える滑らかな動作で、あの特殊な矢をクロスボウにつがえた。

 ハルヒコは辺りを見回した。すべての射手がトロールに狙いを定め、後は射手長の掛け声を待つばかりであった。不思議とそこに殺気めいた空気はなかった。兵士達はみな、淡々と自分に課せれた役割を――ただ確実に、冷静に――こなそうと努めているだけだった。

 そんなときだった。大地も震えるような咆哮が辺りに木霊したのは。

 知性もないような怪物が、持って生まれた本能だけで自分の危険を感じ取り、威嚇の叫び声を上げたのだ。

 その咆哮は、大地のみならず人の魂まで震え上がらせた。兵達に動揺が走った。

 普段なら――人間が相手なら――絶対にそんなことはありえなかったかもしれない。

「はなてっ!」

 錯乱した思考から回復する前に射手長はそう叫んでいた。動揺したままの兵士達を確認することもできずに……。

 戸惑いを隠せないまま、射手達は矢を放った。上官の命令は絶対だと、頭で考える間もなく体が先に動いてしまった。

 狙いを定めることもままならなかった。いくつかの矢はまったく見当違いの方向に飛んでいき、森の灌木や地面に虚しく突き刺さった。

 それでも――さすがというべきか――ほとんどの矢はトロールの厚い皮膚を貫いていたのだ。

 ――すごい! こんなにも距離があるっていうのに。

 ハルヒコが感嘆している横で、アイスは小さく舌打ちをした。

「まずいな……」

 次の瞬間、トロールはこの世の全てを呪うかのような怒号を喉の奥からしぼり出した。地獄の底で沸き立つ怨念がトロールを通してこの地上に噴き出しているかのようだった。

 咆哮は雷鳴のごとく残響をともなって周囲の空気を震わせた。だが、凍えるように震えたのは空気だけではなかった。兵士達の魂もまた、その咆哮によって激しく揺さぶられてしまっていたのだ。

 矢は確かに命中していた。だが、やはり兵士達の動揺の影響で、それらは当初意図した狙い――人の急所が集中する体の中心線――からは外れていたのだ。多くの矢はトロールの腕や太腿に針山のように突き刺さっていた。

 ――これでは矢の効果も期待できない。ただ、あいつを怒らせただけだ……。

 アイスの考えはすぐに的中した。

 怒り狂ったトロールは、その鬱憤を晴らすかのように、手に持った棍棒――森の巨木そのものと言ってもいい――を目の前の地面に振り下ろした。その衝撃は地震のように大地を揺らし、振動はハルヒコの足元にまで及んだ。そして――。

 最初の犠牲者が出た。

 トロールは棍棒を引き上げると、その先端を確認し満足そうに、にやっと顔を歪めた。棍棒の先には潰された何かが付着していた。液体が滴っていた。

 トロールの怒りのはけ口となった――生け贄となったのは、杭に結ばれ逃れることも助けを求めることもできなかった憐れな羊であった。トロールをおびき寄せるという当初の目的がかなったとはいえ、この死はあまりにも命の尊厳を欠いたもののようにハルヒコには思えた。

「気持ちを切りかえよ!」

 アイスの檄が飛んだ。

「槍隊を進めよ! 弓射部隊は矢をつがえよ!」

 その一声で兵士達の動揺は潮が引くように静まっていた。

 ――よほどの信頼がなければ、こうはいかない。

 ハルヒコは自身も弦を引きながら、そう思った。

 二人一組で特殊な構造の槍――大型モンスターに対抗するための――を握りしめ、槍部隊はためらうことなくトロールに向かって突進していった。

 それに呼応するかのように、トロールもまたゆったりとした動作で前進し始めた。

 川を先に渡ったのは槍部隊の方だった。誰一人として足を緩めるような気配はなかった。

 ――これは勇気と呼べるのか?

 ハルヒコの心の声が無意識にそう叫んでいた。

「彼らにとって、一番槍は誉れなのです」

 アイスの言葉を聞いても、ハルヒコにはすぐさま納得できるものではなかった。

 ――命の価値観が違いすぎる……。

 トロールが棍棒をゆっくりと振り上げた。それが振り下ろされる場所には、無残な――残骸としか言いようのない――死が待ち受けているだろう。それでも――。

 兵士達は突き進んでいく。

 知性の欠片もないように感じていたトロールが、余裕の表情で薄笑みを浮かべていた。知性はあるのだろう――我々、人とは相容れない理の世界で。

 突進する槍隊の中から、一組の兵士達が勢いよく飛び出した。彼等が一番槍を穿つことに疑いはなかった。だが、それはもっとも危険なタイミングで、冥府と隣り合わせの死地に自ら足を踏み入れるということだ。

 だが、彼等の足が止まることはなかった。その姿のどこにも、躊躇という言葉を想起させる隙さえなかったのである。

 ジャグッ――!

 弾力のあるものを突き刺したときのような、潰したときのような、そんな嫌な音が聞こえてきた。

 槍はトロールのでっぷりとした腹に深々と突き刺さっていた。

 トロールは子供のように痛みに泣き喚きながら、その痛みをもたらした相手に向かって容赦なく棍棒を振り下ろした。

 大地が再び揺れた。

 だが、そこに兵士達の姿はなかった。槍をトロールに突き刺すや、彼等は棍棒の軌道を予測して、体を転がし素早くその場から離れていったのだ。

 見事だったのはその一撃だけでない。トロールが棍棒を振り下ろし、その動作が止まってしまったところに、二組目の槍が横腹を抉った。トロールは苦悶の表情を浮かべるや、棍棒を横に薙ぎ払った。だが、やはりそこからはもうすでに兵達の姿は消えていた。彼等もまた地面に滑るように転がり退避していたのだ。

 その繰り返しであった。あれほど脅威に感じていた巨大なトロールが手玉に取られていた。まるで蜂の大群に襲われ、ただ闇雲に腕を振り回し抵抗する子どものようにさえ見えた。それほど兵達の連携は見事だったのだ。

 そして、ついにハルヒコは目の当たりにする――あの特殊な槍や矢の構造の意味を。

 槍や矢は金属の筒状になっていた。そして、その先端、獲物に突き刺さるところには小さな穴が無数に開いていた。

 ――なんて残酷なんだ……。

 ハルヒコはそう言ったのではなかったか。

 まさにその通りの光景が、目の前で繰り広げられることになる。

 トロールに突き刺さった槍の端――石突から何か液体のようなものが勢いよくこぼれ落ちていた。トロールが激しく棍棒を振り回す度に、その液体は噴水のように噴き出した。

 トロールの血であった。

「ああやって体液を抜いて弱らせていくのです。大型の怪物を狩るときの常套手段ですよ」

 尋ねてもいないのに、アイスはハルヒコに説明した。まるで頭の中を覗いて、ハルヒコの考えていることを肯定するかのように。

 ――目的のためとはいえ……。

 よくもこんな方法を思いつくものだ。そして――。

 ――こんなにも人は残酷になれる……。

「はなてっ!」

 弓隊の第二射が放たれた。

 今度は狙いを外す者はいなかった。矢は胸や腹に吸い込まれるようにまっすぐ飛んでいき、タイミングを計ったみたいに同時にトロールの体に無数の針山を築いていった。

 続いて槍隊の第二陣が突進していき――弓隊の第三射が放たれた――。

 だが、トロールはその動きが緩慢になってきたものの、まだ棍棒を振るうことを止めようとはしない。

 兵士達は最初に抱いていた恐れはどこへやら、だんだんとその醜い怪物に苛立ちを募らせ始めていた。

 ――なぜ倒れない!

 ――早く倒れてしまえ!

 この世に存在していいはずがない。我々と同じ世界にいていいはずがないと。

 そのとき、どこからか歓声がわき上がった。

 トロールが片膝を突いたのだ。

 ようやく、この先の見えなかった戦いに――憐れな生き物の討伐に、終止符が打たれる。

 皆がそう思った。

 だがそれは、これから始まる本当の悪夢の前触れだったのだ。


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