第5章―4
いよいよ宴が始まろうとしていた。神々の嘲りが天から聞こえてくるようだった。
――何のために、神は人を作ったのか?
後のハルヒコが抱くことになる疑問だ。
「本陣の防衛は万全です。我ら親衛隊が、命に賭けても王子をお守りいたします」
そして小さな声で「もちろんシュウ君のことも任せてください」と、ウタルは約束した。
本陣には努めて平静を装ったクイールが、戦場には似つかわしくない装飾の凝らした椅子に腰掛けていた。喉が渇くのか、頻繁に口に水を運んでいた。
その傍らにはシュウとマグダルが控えていた。マグダルが気を効かしてか、シュウに何か話題を振ってくれている。そのおかげで、シュウはその会話に集中して戦場の緊張感を一時忘れることができているようだった。
「では、ハルヒコ殿とバルト殿には、クロスボウの弦を引くお手伝いをしてもらいましょう。矢はつがえなくて結構です。弦を引いたものを射手に渡してもらうだけで結構です」
本陣の前に配置された親衛隊の前方、橋の袂辺りに弓兵達が配されていた。
「私達に何か手伝うことがあれば、遠慮なく言ってください」
ハルヒコのその申し出への返答が、先のアイスの言葉であった。
素人のハルヒコを前線に立たすことなどありえない。魔法もトロールにはあまり効かないとの情報もある。かといって何もさせないのは、ハルヒコの立場を考えれば具合が悪いだろう。アイスはハルヒコの安全も考え、その仕事を任せたのだ。
大型のクロスボウの弦は硬い。とても素手では、両手をもってしても引くことはできない。てこの原理を利用した補助器具を使うことになるのだが、射手にその操作も兼任させるのは効率が悪い。そのため――状況にもよるが――兵に成り立ての新米がその役を担うことになっていた。
まず弦と矢溝に補助器具をはめ、クロスボウの尖った先端を地面に押し付ける。銃床を肩に押し当てるとクロスボウが固定されるので、補助器具のてこに余すことなく力を込め引き寄せることができる。それでもハルヒコにとっては目一杯に力を入れる必要があり、アイスが矢をつがえる必要はないと言ってくれた意味がよく分かった。
――うっかり引き金にさわってしまったら、弦に指を持っていかれるんだな……。
自分の指が吹き飛んでいく光景を想像するのは、あまり愉快なものではなかった。
辺りを見回すと、本陣に出向いた際に見かけた年端も行かぬ少年達が待機していることに気がついた。
――これが彼等の初陣か……。
ハルヒコは間違っても彼等が指を失わないようにと祈らずにはいられなかった。
橋の上からその袂、弓兵達が待機している場所からはトロールが現れた森の縁をよく望むことができた。おびき寄せたところに、まずクロスボウでの一撃をあびせる作戦であった。
――おびき寄せる? どうやって……?
「向こうの斜面に杭が打たれているのが見えますか? あそこにおびき寄せるための餌をつなげておきます」
つなげておくという言葉には嫌なニュアンスがあった。その杭の近くには、まだ火は起こされていなかったが、かがり火の台も据えられていた。
――まあ、そういうことなんだろうな……。
ハルヒコは手前に視線を移した。川を挟んだこちら側の斜面には、すでに十数名の兵士達が石垣を越えて下っていた。彼等は二名一組で、対トロール用の槍を携え待機しているようだった。
――思いのほか軽装なんだな……。
巨大な怪物に立ち向かっていくのだから、てっきり兵士達は重厚な鎧に身を包んでいるものとハルヒコは思い込んでいた。だが、彼等の装備は軽量な革鎧だったのだ。
――足場も悪い。それにあの槍は……。
何度も突き刺すものではないからかと、ハルヒコは誰に言われるでもなく一人納得した。兵士達は槍をトロールに深く突き立てた後、それを引き抜くことなく直ちにその場から離れなくてはならない。一撃離脱――反撃を喰らう前に。そのための機動性を重視した軽量な装備なのだろう。
――でも、あんな鎧でトロールに突っ込んでいかないといけないなんて……。
どれほどの恐怖だろうか。ハルヒコは自分があの場に立っている光景を想像した。
――きっと一歩も動けないだろうな……。
それが兵士の仕事だと言ってしまえばそれまでのことだが、ハルヒコは彼等の勇気に敬意を表せずにはいられなかった。
――自分にはできないことだ……。
世の中に仕事は数多くあれど、ハルヒコはそれらに貴賎をつけたことはない。どんな仕事や役割にもそれぞれ意味があり、それらが互いに絡みあい反応しあって社会が形成されている。職業に対して侮蔑意識を持つ、そんな狭量な人間ではなかったし、なりたいとも当然思わなかった。
ハルヒコがさらに視線を移すと、エオラ城へ向かう南北の街道も兵士達の姿で埋められていた。
――あんなところまで……。
にわかには、この布陣のもつ意味をハルヒコは理解できなかった。彼等が一斉に動き出せば狭い街道が一気に混み合い身動きが取れなくなるのは誰の目にも明らかだったし、前線の部隊と順次交代していくにしては、はたしてあんなところまで兵達を展開しておく必要があるのかと、ハルヒコはなかなか納得できずにもやもやとした。
――用兵のことはやっぱり分からないな……。
そういうことはプロに任せておけばいいと、ハルヒコの心の声がささやいた。同時に、
――プロって何だよ……。
と、別の声が文句を垂れていた。
自分はいつの間にか戦争のプロ達と行動を共にしている。命のやり取りが特別でもない世界に、自分達は暮らしている。
――どうして、こうなった……。
幾度も繰り返した問い掛けだ。
だが、誰も答えてくれる者などいない。問いはいつも無言のうちに、虚空へとかき消えていくばかりだった。
「いよいよですかな――」
空の色を仰ぎ見て、アイスは本陣の方に振り向いた。
クイールは顔を下げていた。視線を合わすことが叶わなかったアイスは、代わりにウタルに目配せをした。
ウタルはそっとクイールに近づき、耳元で何か囁いた。
はっとしたようにクイールはアイスを見た。その目はまだ戸惑いを拭い去ってはいなかった。
だが、誰もクイールを促すようなことはしなかった。アイスもウタルもただ黙って――目で何かを訴えるようなこともせず――この国の次期国王が下知を下すのを待っていた。
そして、ハルヒコは目撃することになる――少年が王となったその瞬間を。
クイールは何一つ覚悟などできていなかった。怪物の討伐も――村人達を気の毒に思ってはいたが――自らが率先して企図したはずもない。それどころか有無を言わせず戦場に放り込まれてしまった。
――多くの兵士が負傷することになるかもしれない。死ぬ者もいるかもしれない……。
自分がこれから下す一言で――と目に見えぬ重圧がクイールの心を押し潰しそうになっていた。
辺りを見回す。皆の視線が自分に集まっている。彼等の目を意識せずにはいられない。だが、誰の目も何も語ってはくれない。
クイールは傍らのシュウを見た。シュウは緊張を誤魔化すように小さく微笑んだ。友達が側にいてくれるだけで、こんなにも安心できるものかとクイールは思った。同時に申し訳なさも込み上げてきた。
――僕が巻き込んでしまったんだ……。
それに多くの兵士達も……。自らが望んだわけではないけども……。
――責任がある。
僕には彼等をこんな戦場に連れてきた責任を負わなくてはならないんだ。
――誰でもない。僕自身が……。
それが王というものだろう?
だから、自分が下さなくてはならないのだ。押し潰されそうな重圧を一身に受けてもなお余りある、人の命運を左右する冷酷な命令を。
クイールの顔つきが変わった。
ハルヒコはもちろん、アイスもウタルも、そしてマグダルもクイールの変化に気がついた。マグダルは我が子を見るような優しい眼差しで、満足そうに微笑んだ。
ただ一人、シュウだけが困惑していた。
――目の前にいるのは、いったい誰なんだろう……?
シュウの前にクイールの姿をした誰かが立っていた。だが、シュウにはそれがどうしても彼のよく知るクイールとは思えなかったのである。
誰もいないところでは兄弟のようにふざけ合った少年――その彼はもうどこにもいなかった。覚悟の果て、彼は青年となり――王となったのだ。
クイールはウタルに凛とした声で命じた。
「討伐を開始せよ――」
ハルヒコは思う、後になって……。
彼がただの少年であったら、どんなに幸せであったろうかと。シュウの良き友として、カナの良き夫として……。
運命に翻弄され、束の間の玉座にも安寧はもたらされず――不遇の王はこうして誕生したのだった。
「羊を杭につなげよ!」
アイスがよく通る明瞭な声で命令を下した。
トロールが現れた森の縁――そこから少し離れた緩やかな斜面に杭は打たれていた。兵士が二人、生きたままの羊を連れて近づいていった。一人は羊の首に巻かれたロープを杭に結びつけ、もう一人は側に置かれた篝火台に火を入れた。
作業を終え兵士達が引き返してきた頃には、篝火は誘うようにゆらゆらとその炎を天に向かって躍らせていた。
――あとは待つだけか……。
トロールを迎え撃つ準備はできた。だが、だからといって、相手がこちらに都合を合わせてくれるとはかぎらない。そんな義理は向こうにはないのだ。
「ここからは根気比べになります。朝まで気を緩める時間はありません。今夜、現れてくれればいいですが――。明日になるか、明後日になるか……。兵達の士気を維持するのも、また訓練なのですよ」
アイスの心配は杞憂に終わった。
「今夜中に現れるとしたら――」
アイスは続けてこう言った。
「そいつは、よほど腹を空かせているのでしょうね……」
――どうやら、そうらしい……。
アイスが言い終わらないうちに、すでにハルヒコはそう感じていた。
ズシンズシンと、自分の腹にまで響くような振動が地面を伝って近づいてくる。
「腹を空かせてると、どうなりますか……?」
アイスは苦虫を噛みつぶしたように笑ってみせた。
「……凶暴、でしょうね……」
知らず、ハルヒコの顔にも乾いた笑みが浮かんでいた。




