第5章―2
時間は少しさかのぼる。場所はエオラ城の中庭。二人の少年が剣を交えていた。
シュウとクイールであった。
城からそれほど離れていない村で魔物討伐の騒動がわき起こっていても、クイールに対する歴史と地政学の講義はいつも通りに行われていた。小さな村の事件など、国全体から見れば些細なことでしかなかったのだ。
シュウも城に残り、クイールの学友として一緒に学んでいた。村のことはもちろん気になったが、その程度の理由で王子との勉強を断ることは王族に対して礼を欠く行為になるのではないかと、父のハルヒコが判断したのだった。
ウタル隊長が魔物討伐で村に出向いていたため、講義後の剣術指南は見送られることになった。いつもなら嬉々として――表向きには出さないシュウにだけ見せる顔だ――そのような講義や鍛錬がなくなることを大歓迎していたクイールであったが、今日は不思議と神妙な面持ちでシュウに剣の練習に付き合ってほしいと誘ってきた。
さすがに王族と二人きりで、しかも剣を携えての練習は許されるはずもなく、衛兵の兵士長が立ち合うこととなった。
クイールは個々に練習するのではなく、実際に立ち合い、実戦に即して剣術の型を確認したいとシュウに申し出た。
一人で剣術の鍛錬をするときも自分の剣を用いる。剣の重量も自分のものとし、手足のように扱えるようにしなければならないからだ。ただし立ち合うときには、刃の部分に金属製のカバーを付ける。さらに実戦でも着用される革製の軽量な鎧を身につける必要もあった。
その日の練習は決して激しいものではなかったが、クイールは一つ一つの動作を――今一度その動きの意味と照らし合わせるように――丁寧に確認していった。そのような目的で言えば、練習相手としてシュウは最適であったかもしれない。猛々しさなど皆無――ただただ正確であろうとする動作は、剣術の型を再確認する相手にはもってこいだったからだ。だが、シュウのような先の読める動きしかできない者は、戦場では格好の餌食になってしまう……。
一通りの型を確認できたのか、クイールは納得したように剣を下ろした。ハアハアと肩で息をするシュウに「付き合ってくれて、ありがとう」と労るように声をかけた。
二人は頭部に着けていた革兜を脱いで、中庭の日陰に腰掛けた。たっぷりと汗を吸収した革兜はずっしりと重く、その強度をさらに増しているように感じられた。
「何かあったの?」
息もまだ整わぬうちにシュウが尋ねた。
クイールがずっとまとっていた、普段とは異なる雰囲気――違和感を、シュウは深く考えることなく口にしていた。
「今日、初陣なんだ……。シュウは、初陣って分かる?」
シュウは首を振った。
「初めて戦いに参加するんだ」
「戦争にいくってこと?」
「戦争ではないかな。シュウの村に魔物が出ただろう。それを退治するのを手伝いにいくんだ」
シュウは申し訳なさそうな顔になった。
「そんな顔しなくてもいいよ。これは王族の務めなんだから。それに……」
クイールは遠くを見つめるような目をした。
「たぶん遠くから眺めているだけだと思う」
これから先、例えどんな戦があろうとも、クイールが前線に立って戦うことはないだろう。自分に危害が及ばない安全な場所から、兵士達が命を賭して戦う死地を眺めていくことになる。
「それでも……」
表情を隠すように、クイールは俯いた。微かに肩が震えているようにシュウには見えた。
「怖いんだ……」
そのとき初めて、シュウはクイール王子のことを誤解していたのだと気がついた。
聡明で冷静。他者のために、自分の心を鼓舞して勇気を奮う。
――演じていたんだ……。
王族に生まれてしまったために、王族を演じなければならなかった。
――本当は僕と同じ、気弱な、ただの男の子のはずなのに……。
「その初陣を先に延ばすことはできないの?」
「できない!」
クイールは即答した。その声の響きがシュウにはやけに辛かった。
城の中庭にはやわらかな秋の日差しが入り込んでいた。町の雑踏とはほど遠い、静謐な空気が支配していた。時間も止まってしまい、そこでは沈黙こそが正しきものであるように感じられた。
不意にクイールが口を開いた。その声には、沈黙を汚した罪深さが重なっているような響きがあった。
「……シュウに、こんなことを頼むのは間違っているのは分かっているんだ……。やっちゃいけないことだって……」
シュウは自分の名が突然クイールの口をついて出てきたことに動揺を隠せないでいた。クイールが次に発するであろう言葉に、シュウは身構えた。
「ついてきてほしいんだ……」
一瞬、シュウは頭の中が真っ白になった。
――僕が戦争に……。いや、戦争じゃないけど……。
人の命が失われるかもしれない危険な場所に、自ら足を踏み入れよと、耳元で誰かにささやかれているような気がした。
まだその場所に立ってもいないのに、シュウの体は芯から震えていた。
「いや、すまない。こんなことは言うべきじゃなかった。一国の王子がこんなことを言うなんて……。そんなこと、言っちゃダメなんだ……」
クイールは俯いた。恥ずべき自分の姿を誰にも見せたくないかのように。
「僕がいても何の役にも立てないよ……。魔法だって、まだ小さな炎しか出せないし……」
「そうじゃないんだ! そういうことじゃないんだ!」
クイールは俯いたまま小さく叫んだ。シュウはクイールの心の声を聞いたような気がした。
「シュウが隣にいてくれるだけで安心できるんだ。勇気がわき出るんだ。……信じられる友達がそこにいてくれるだけで……僕は……」
――望んでもいない役を、最後までやり遂げることができる……。
それは心の声にしてもあまりに小さく、シュウに届くことは叶わなかった。
――クイールを助けてあげたい……。だけど……。
戦場に行くのだ。人が死ぬかもしれない、自分が死ぬかもしれない、戦場へ――。
クイールは安全な場所から眺めているだけだと言った。でも、戦場に安全な場所なんて本当にあるんだろうか。
シュウは堂々巡りの思考の最中、不意にパパさんならどう言ってくれるのだろうかと、すがるような感情になぜか泣きそうになった。
声をかけられて、ハルヒコは振り返った。
そこにはウタルと共にマグダルが、そして……シュウとクイールが立っていた。
本当のことを言えば、ここでシュウに会いたくなかった。マグダルにも。
おそらく、これからここで迫られる、ハルヒコにはどうすることもできない――ちっぽけな個人という存在では抗うこともかなわない――選択という偽りの仮面を被った強要の予感に、心の底が打ち震えた。
――自分一人だけのことなら、何だって耐えることはできる。でも……。
「ちょうど、クイール王子の初陣の話をしていたところなのだ」
アイスがウタルに向かって――マグダルにも聞こえるように――声をかけた。
「アイス団長とウタル隊長はお知り合いなのですね」
小さな抵抗のように、ハルヒコは話題を遠ざけようとした。
「アイスとは――いや、アイス団長とは同期でな。初陣も同じ。腐れ縁というやつだ」
思わぬ縁があったものだ。普段なら、ハルヒコはさりげなく二人の関係を詮索したことだろう。だが今は、この場の話題がぶれなかったことに、ただただ口惜しさを覚えるしかなかった。
「ハルヒコ殿、折り入って話しがあるのです」
――聞かざるをえないんだろうな……。
もしこれが元の世界だったなら、仕事も何もかもかなぐり捨て、ただ家族だけを連れて逃げ出していたかもしれない。決して裕福にはなれなくても、何とか家族を養っていくことぐらいはできる――。
――ここが元の世界だったなら……。
だが、ここは異世界だった。ハルヒコのあずかり知らぬ理と慣習に支配された土地であった。逃げ場所など、最初からどこにもなかったのである。
「クイール王子が初陣との話はもう聞かれているとのことですが――」
「そのことなんですが、少し息子と二人で話しをさせてもらってもいいですか?」
アイスもウタルも得心した様子で、ただ「本陣の方でお待ちします」とだけ答えた。
「シュウ、少し話しがあるんだ」
ハルヒコがそう促すと、シュウの傍らに立っていたクイールが悲嘆にくれた表情でわずかに俯いた。もしかすると頭を下げたい思いだったのかもしれない。だが、衆目の中、王族がそんなことをしていいはずがない。
――どうして、世界はこんなにも複雑なんだろう……。
子どもは子どもらしく、まっすぐに――。大人だって、しがらみにとらわれることなく、皆がそれぞれの素直な思いで生きていく。――ただそれだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろうか。
――元の世界でも、それは変わらないか……。
ハルヒコとシュウはウタル達から離れ、川を見下ろせる街道脇の斜面に腰を下ろした。
――ああ、ここからなら、みんながよく水浴びをするあの場所がよく見えるんだ。
こんなにも事件が起こった現場から近かったのかと、何気ない日常の隣に潜んでいる脅威を否が応でも意識せずにはいられなかった。
――大事なことを話そうとしているのに……。
今考えなくてもいいことを、こんなふうに意識してしまう。
――逃げているのかもしれない……。
辛い選択から自分は目を逸らしている。ハルヒコは自責の念にかられた。
「シュウ、パパさんが話したいことって分かるかな……」
「分かるよ……。ここで、クイール王子と一緒にいるかどうかってことでしょ」
いつまでも幼いと思っていたシュウが、考えるべきことはしっかりと自分で考えていることに、ハルヒコは嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。
「怖くないか? シュウが嫌だったら、パパさん、何としてでもこの件は断ってみせるよ」
我ながら捉えどころのない物言いだとハルヒコは思った。言葉を発している側から、さまざまな感情や思いがそれぞれの顔を覗かせ、強く自分を主張してくる。だが、その根底にあるのはたったの二つ――思いと想いであった。
思いは打算と言い換えてもよかっただろう。簡単に言ってしまえば、王族の頼みは断れない――。この世界の大きな権力に抗えば、家族が路頭に迷うことだって充分にありえるのだ。
――断っても、マグダル様がそこまで厳しい処分を下すとは思えないが……。
それはハルヒコのあまい期待でしかない。常に最悪の事態を想定して動かなければ、待ち受けているのは、突如として訪れる取り返しのつかない破滅かもしれないのだ。
そして、もう一つの想いは――親なら当然抱く子どもへの情愛――親心であった。
いったい、子どもの命を危険にさらすことを良しとする親が、果たしてこの世界にいるだろうか。子どもが苦しんでいる姿を見て、胸を痛めない親がいるだろうか。
――いるかもしれないな……。
否定はできない。元の世界でも、いともたやすく子どもの命が奪われていた。目を疑うような凄惨なニュースが毎日のようにテレビから垂れ流され、人々の感覚はいつしか麻痺してしまっていた。
――自分は違う……。
そう信じていた。
だが、そう信じていた自分が、今は打算と情愛を秤にかけようとしている。
――秤にかけようとしている時点で、自分はもう失格だ……。
どんなに取り繕おうとしても、どんなに理由を重ねても、ハルヒコは自分を認めることなどできなかった。
「クイールが一緒にいてほしいって言ったんだ」
なかなか次の言葉を切り出せないハルヒコを想ってか、それともずっと自分の中で考え続けていたのか、止まってしまった時間を進めるようにシュウが口を開いた。
「本当に申し訳なさそうにクイールは言ったんだ。こんなことを言うべきじゃないって……」
そのとき、ハルヒコは――それは仕方がなかったとはいえ――シュウのことだけしか考えられていなかった自分の狭い視野に、今さらながらのように気がついた。
――王子だって迷っている。恐れている……。
シュウより歳上だといっても、まだ中学生になるかどうかという年齢だ。少年から青年へと成長していく段階で、世界と対話して自分という人間を見つけていかなければならない。迷いや恐れなど当たり前のことだ。それでも人は、世界に自分の姿を穿つため、前へ前へと進み続けなければならない。
――しかも青年にではなく、いきなり大人になることを王子は要求されている。
もし彼がハルヒコの息子だったなら――王族の息子を持つことなどありえないし、想像もつかないが――自分はいったいどうするだろうか。
――戦場になど絶対に行かせない。でも、それが避けることのできないことなら……。
親がするべきことはただ一つだろう。
「僕はクイールと一緒にいてやりたい。怖いけど、クイールだって怖がっている。そんなときに一緒にいてあげるのが友達でしょう……」
シュウはクイールのことを友達だと言った。自らも恐ろしいという気持ちを認めながらも、それでもなお友達のために一緒にいてやりたいと決断した。誰に言われるでもなく、自ら勇気を振りしぼって――。
――いい友達を持ったな……。
ハルヒコの気持ちは固まった。
「分かった……。戦場といっても、おそらく一番安全な場所にいるんだ。それでも、絶対に大丈夫だなんて、パパさんには言ってやれない。だから……」
シュウはハルヒコの――父親の発する次の言葉を待った。
「だから、パパさんも行くよ。一緒に行って、シュウのこと絶対に守ってみせる。クイール王子だって一緒に守ってやる」
自分の力などたかが知れている。小さな炎の魔法を出すことぐらいしか今はできない。
それでも――。
と、ハルヒコは思う。
それぐらいのことしかできないから、やらない――のではない。
――それぐらいのことしかできなくても、きっと自分にはやれることがあるはずだ。
どんな危険が降りかかろうとも、シュウを守ってみせる。クイール王子も守ってみせる。
――最悪、自分の命を投げ打てば……。
二人を逃す時間ぐらいは作れるだろう。
ハルヒコはそう覚悟していた。
恥じらうように天に朱がかかる頃、街道には迎えの馬車が列をなして並んでいた。
座席の埋まった先頭の馬車が出発しようとしていた。ハルヒコは最後尾の馬車の乗降口で、トウコに重い口を開いた。
「そういうことなら俺も残るぜ。村長、シュウちゃんのこと一緒に護りましょうや」
「わしも残るぞ。わしもシュウちゃんを護ってみせるぞい」
「やめろやめろ。足手まといになるだけだ」
傍らにいたバルトとヤンガスが息巻いた。
だがトウコはただ黙ったまま、伏し目がちに視線を合わせようとはしなかった。
「シュウちゃんが残るなら、わたしも残るよー」
「カナはママさんと一緒にいてあげてね」
「えー」
ハルヒコは微笑んだ。
「わたしがいた方が絶対役に立つのにー」
カナはふくれっ面になりながらも素直に馬車の中へ引っ込んだ。
あいかわらず言葉を発しないトウコにハルヒコは声をかけた。
「ここでは言いにくいこともあると思うから、あっちで話さないか」
ハルヒコにうながされ、二人は少し離れた家屋の物陰へと姿を消していった。
それから少なからぬ時間が過ぎた。
討論の声が聞こえてくることもなく、馬車が最後の一台になろうとする頃、トウコがただ一人帰ってきた。バルトとヤンガスに目も合わせず馬車に乗車すると、ただ黙ったままカナの隣に腰を下ろした。
「こっちは俺に任せて、ヤンガスはあっちについててやんな。シドのことも頼むぜ」
ヤンガスは不満をもらすこともなく馬車に乗り込んだ。
「ママ、大丈夫?」
俯いたままのトウコを心配して、カナが背中をさすった。少しでも自分の温かさを分けてあげようとしているかのようだった。
やがて馬車が出発しようとしたとき、街道にハルヒコの姿が見えた。
悲しそうな顔で馬車を見送るハルヒコに、カナは笑顔で手を振った。




