第5章―1
事件が起こって三日になる。ハルヒコは畑で鍬を振るっていた。
「来年も豊作になればいいですね」
村人全員で作業にあたっていた。初夏に収穫する小麦は、前年の秋に――まさにこの時期に、種をまいていくのだ。
事件が解決したわけではない。また、村に戻れたわけでもない。
「トロールは光を嫌う。魔物は基本的に光が苦手なんじゃ。奴らにとっては我らの昼が夜のようなもので、羊を襲った奴は……そうじゃの、たまたま早く目が覚めてしまったんじゃろうな」
――たまたま森の縁の近くで……。そして、たまたま、そこに羊達がいた……。
ハルヒコは無理に自分を納得させるために、頭の中でマグダルの言葉にそう付け加えた。
「じゃから、昼間であれば村の畑で作業していてもまず大丈夫じゃろう。森に近づきさえしなければの。もちろん、兵達も警護につけよう」
そのような経緯で、ハルヒコ達は村に戻り畑仕事に勤しんでいたのである。もちろん夕方になれば、また城へと戻っていかなくてはならない。頃合いを見計らって、村人達を移送する迎えの馬車がやってくるだろう。
だが、いつまでもこんな生活を続けるわけにはいかない。森に出没する魔物を駆逐するか、それとも新たな土地を開拓していくか。それとも、それが現実的でなければ、畑はこのままに、村人達の住居だけを離れた安全な場所に移すという手も考えられた。
「嫌な気分ですな。昼間は畑を耕すためだけに村に戻り、夕方になると、暗くなる前に城に逃げ帰らないといけない」
まるで囚人だと言いたげに、その鬱憤を晴らすかのようにバルトは鍬を振るった。
「今は我慢しましょう。自分達が落ち着ける場所がないのは辛いですけど、いつまでもこの状況が続くわけがないと信じて……」
「リュッセルからの軍隊はまだ到着しないんですかね?」
事件が起こった日にリュッセルに向け早馬が走った。現場にいたハルヒコとグンターの前を足早に駆けていった使者達だ。
バルトとゴートの話を聞いたマグダルは、その魔物がトロールであると推測し、リュッセルの軍に向けて討伐の準備をするように指示を出していた。もちろん、グンターらの監視によって、その魔物がトロールだと確定した情報も追って伝えている。
「軍が動くっていうのは簡単なことではないんでしょうね。準備もあるし、ここまで何十人と引き連れてやって来ないといけないし」
ハルヒコは何十人と何気なく言った。それは深く考えて導き出した数ではない。ただ直感的に数人程度ではあの怪物には到底敵わないだろうし、だからといって百人も二百人もの兵士が一斉に立ち向かわなければならないほどの脅威とも思えなかったのだ。
――でも、それならエオラ城の兵だけでも何とかなったんじゃないのか……?
そんな疑問がなかったわけではない。
だが、間もなくハルヒコは思い知ることになる。自分の認識の足りなさを――魔物という忌むべき存在の圧倒的な脅威を。
「村長、お客さんだよ!」
街道沿いの畑で作業をしていた村人の一人が、ハルヒコの方に駆けてきながら大声で叫んだ。
ハルヒコは作業の手を止め、その客人が待つ場所に向かった。
――言ってる側から、リュッセルの軍隊が到着したんだろうか?
ハルヒコの予想は的中していた。だが、ただそれだけであった。
軍隊は確かに到着していた。ハルヒコの予想をはるかに超える、街道を視界の果てまで埋める総勢五百名余りの兵士達が……。
そして、思いもかけない人物がハルヒコを待っていた。
「ハルヒコ殿、ご無沙汰しております」
精悍な偉丈夫が、悲しくなるほど美しい騎馬の横に悠然と立っていた。
ハルヒコは知らず、その人の名を口にしていた。
「アイス団長……」
壮観であった。戦場とはこういうものなのかと、ハルヒコは当然初めて感じる印象――正しくは感慨と呼ぶべきかもしれない――を心に焼き付けられることとなった。
街道やそれに沿った空き地では、兵達が馬車から降ろした荷物をまるで最初から配置が決められていたかのように整然と地面に並べていた。みな黙々と、指示を待つこともなく働いていた。今自分が何をすべきかを理解している者達の動きであった。それだけの数の兵士がいながら、誰一人として彼等の動作には迷いというものが感じられなかった。
――これが軍隊か……。
この組織の存在理由である本来の目的を達成するために、ここまで統制がとれていなくてはならないのか。ハルヒコは感嘆とも皮肉ともつかない感情を抱かずにはいられなかった。
トロールが出没した現場の南、橋を渡ってすぐの街道脇に本陣が敷かれていた。そこから三差路に分かれた東西の街道を望むと、目に入ってくるもの全てが兵士達の姿で埋め尽くされていた。
「ハルヒコ殿、到着が遅くなって申し訳ない。恥ずかしながら準備に手間取っていたのです」
ハルヒコはアイスのその言葉を額面通りには受け取らなかった。
――つまり、この状況は普通ではないということか……。
一国の軍隊が通常の危機的状況に即応できないはずがない。そのトップがアイスという人物ならなおさらだ。彼に落ち度という言葉は似合わない。
「魔物を退治するために、特別な準備が必要だったんですね」
アイスはハルヒコなら何も言わずとも分かってくれるだろうと踏んでいた。驚く風もなく、話を続けた。
「その通りです。敵の規模が分からない現状では、冗長であっても余裕を持った人員と装備の用意が不可欠です。どんな状況に陥っても、臨機応変に対応できるようにね」
「それで、これだけの人数が必要だったんですね」
アイスは苦笑いを浮かべた。感情を隠すのが下手だった。
――実直な人なんだろうな……。
それとも、相手が自分だからだろうか。
――気を許してくれている?
そうだとしたら少し嬉しいが……。
――取るに足らない相手だと思われている可能性もなくはない……。
「大袈裟だと思われるでしょう。確かに必要以上の人員を引き連れてきました。マグダル様の指示にはありませんでしたが、兵達の訓練も兼ねて――。そう言われると不愉快に思われるかもしれませんが」
「そんな、とんでもない……」
――それだけの理由で、彼がもたもたするわけがない。
「ですが、巨大な魔物に対処する武器を運用するために、多くの兵が必要なのは間違いないのです。とても一人では扱えないものばかりですからね」
「その装備を用意するのにも時間がかかったということですか」
アイスは満足そうに頷いた。
「お見せしましょう」
アイスが本陣を離れて歩き出した。ハルヒコはその後をついていったが、作業をしている兵達からちらほらと投げかけられる、自分を値踏みするような視線がたまらなく居心地の悪いものに感じられた。
歩きながら、アイスは目についた部隊の役割を説明していってくれた。
「彼等は主に資材や兵糧の運搬、陣地の設営を行っています。食事の支度もあります。前線に立って戦うことはまずありませんが、彼等抜きでは我々は戦うことができません」
物資の輸送は戦争の要となる。過去、武器などの装備ばかりを重要視し、補給を軽んじた軍隊がどれほど煮湯を飲まされてきたことか。
――歴史に学ばない者は、千年の時、闇夜を歩く……。
「そして、彼等が後衛の部隊です。真っ先に前線に立つわけではありませんが、戦況に応じて前線部隊と交代したり、撤退の際には敵を足止めしたりと、八面六臂の活躍を期待される部隊です。ちょうど、魔物用の武器をチェックしているところのようですね」
ハルヒコは目を疑った。そこに並べられている異彩を放つ武器にではない。それらの武器を手入れする兵士達に、否応なく強烈な印象を刻みつけられたのだ
――子どもじゃないか……。
ハルヒコが見ているものが武器ではないことをアイスは悟った。
「彼等は貴族や騎士の家系に生まれた子弟です。これが初陣の者もいます」
「でも、彼等はまだ……」
ハルヒコは自分の息子を彼等の姿に重ねていた。実際にはもう少し年上かもしれない。ちょうどクイール王子と同じ歳頃のように見えた。
そのとき、ハルヒコの心を読んだかのように、アイスが口を開いた。
「ハルヒコ殿の言いたいことは分かります。ですが、この世界では彼等の歳になればもう子どもとしては扱われません。大人と同じようにとまでは言いませんが、立派に務めを果たさなくてはならないのです」
そして、続けて言った。まるでこの話題になるのを待ち構えていたようにとハルヒコには思えた。
「クイール王子もこの討伐で初めての戦に臨まれます」
ハルヒコの顔から血の気が引いていった。アイスがその後に続けて語るだろう言葉に――そもそも語られない可能性だってあったにもかかわらず――先取りするように、説明のつかない戦々恐々とした思いが込み上げてきたのだった。
その後、アイスの口からは何も語られなかった。幸いにも――と安心するには早計であった。なぜなら、この直後、別の人物からハルヒコが震え上がらずにはいられない提案を持ちかけられることになるのだから。
「おお、ハルヒコ殿もおられましたか」
その人物は、ハルヒコの背後より登場した。
「ああ、ウタル。遅かったな」
剣の達人にして、剛の者。ルアン国の親衛隊隊長。そして、クイール王子の剣術の師であると同時に、ハルヒコの息子――シュウが剣を学ぶ先生でもあった……。




