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第4章―7

 子ども達にとってみれば、キャンプ気分でわくわくするような体験だったかもしれない。

 村人達には城内の兵舎が避難場所としてあてがわれた。しかし、全員を収容できるだけの空き部屋はなく、ハルヒコは女性と子どもを優先的に屋内に割り当てた。残りの村人達は中庭に張った天蓋で一夜を過ごすことになった。

 今はその中庭で炊き出しが行われていた。兵士達が野外で炊事する際に用いる鍋などの調理器具を借り、村の女性達が夕食の準備をしていた。

 メニューはパンとスープ。パンは城の厨房でサムやマロニーが奮闘して焼いてくれた。その材料である小麦は城の備蓄庫から供出された。また、同じく城から提供された豆類でスープを作ることになったが、それだけでは味気ないと考えたハルヒコは、村から運んできたジャガイモと干し肉も追加することにした。

「避難初日で、みんなも不安に思っているでしょう。せめて食事くらい、今日は満足のいくものを出しましょう」

 ハルヒコはさらに町で子ども達にお菓子を買ってこようかと提案したが、いくらなんでも初日からそれはやり過ぎだろうと、バルトにもヤンガスにも反対された。

 ――確かに今は村から持ってきた食材があるからいいけど、足りなくなったら町で買い求めていかないといけないんだろうな……。

 どれほどの期間、この避難生活に耐えなくてはならないのか。村のお金はどれぐらいの間、みんなを支え続けることができるのだろうか。

 ――そして、みんなの心はどこまで耐えることができるんだろうか……。

 ハルヒコは炊き出しの列に並ぶ村人達の姿を、やるせない思いで見つめていた。

「今日は、これで何とかなりそうですね」

 一仕事ついたバルトが話しかけてきた。

「村長も、もう食事を取ってください。私がもらってきましょうか?」

「いえ、私も列に並びます。バルトさんもまだなら一緒に食べませんか」

 二人は列の最後尾についた。並んでいた村人達が「村長、どうぞお先に」と声をかけてくれたが、ハルヒコはそれを頑なに固辞した。ハルヒコはトウコ達にも、村人がどんなに勧めてきても必ず列に並ぶようにと言い含めていた。

 村人達はパンとスープを受け取ると、家族がいる者は家族で集まり、独り身の者は仲間同士で車座になって、談笑しながら食事を始めていた。

「思いのほか、みんな落ち着いているようですね。少し拍子抜けしました。みんな、もっと落ち込むのかなと思っていたから」

 バルトは皮肉を込めるつもりなど毛頭なかったにもかかわらず、知らず知らず悲痛な笑みを浮かべていた。

「彼等の大部分は、これが初めてのことではないですからね……」

 ハルヒコは、はっとした。彼等の多くは戦争や貧困、飢餓などで国や家を捨てることを余儀なくされた者達ばかりだ。このような状況は今までに幾度となく経験してきたのだろう。

「慣れてしまった……いや、違うな。あきらめている……。そう、もうあきらめてしまっているのかもしれません」

「あきらめる……」

 ハルヒコは胸が痛くなった。

 お腹いっぱいに食べられない。きれいな服を着ることができない。住む場所さえ見つけることができない。この世界はどこも貧しさであふれ返っている。

 ――でも、心まで負けてしまったらダメなんだ……。

 こんな状況に陥っていなくとも、村をいきなり裕福にすることはかなわない。それでも、みんなが自分に自信を持って、ささやかではあっても幸せを感じることのできる――今はまだ、どうすればいいのか見当もつかないが――そんな毎日を過ごせるようにしていかなくてはならない。

 ――自分にそれができるだろうか?

 自分には無理かもしれない……。

 ハルヒコは正直にそう思った。嘘偽りのない、自然とわき出た心の声だった。

 だが次の瞬間、自分の中で別の声が叫んでいた。

 ――できるかできないかは問題じゃない。

 やらないといけない。彼等がささやかでも幸せを感じられるように、少しでも自分に自信が持てるように。そして、生まれてきて良かったと信じられるように――。

 ――できる。きっと自分ならできる。

 自分の中に生じた迷いの声もまた真実だ。だが、それに負けまいと奮起する自分もまた偽りのない真実だ。相反する二つの声を持つのは、人であれば仕方のないことだとハルヒコは思った。

 どちらの声に耳を傾けるのか。どちらの声をより高らかに、この世界に向かってうたいあげるのか。

 要は、あきらめるのか、あきらめないのか――どちらを選ぶかだ。

 ――あきらめることなんてありえない。やってもみないで、負けを認めるようなこと……。

 ハルヒコは食事をとる村人達の姿を、ぐるりと見渡した。

 小さいながらも、まだ皆の表情には笑顔が残っている。

 ――この笑みを消してしまってはいけない。

 ろうそくに灯るたくさんの火が揺れている。そのどれもが、ささやかで弱々しい。だが、強い風に吹かれても、しぶとく芯に種を残し、消えることは決してない。それは人の心の強さだ。

 ハルヒコは思った。自分の中にも火は灯っている。その火が燃え尽きるまで、自分の心が折れることはないだろう。

 それは、祈りとも願いともつかぬ、ささやかな灯火ではあったが。


「皆の様子はどうかの?」

 食事が終わる頃を見計らって、マグダルが兵舎を訪ねてきた。

「マグダル様、この度はこのようなお心遣い、本当にありがとうございます」

「感謝されることなど何一つない。これは国がするべき当然のことじゃからの。それよりも皆の心労はいかほどか……それを思うと胸が痛む」

 ハルヒコは、先ほどバルトがもらした言葉を聞いてよりずっと、村人達のこれからについてさまざまに考えを巡らしていた。その中で思い至った幾つかの疑問を、時期尚早なのは重々承知の上でマグダルに投げかけた。

「いろいろな策を講じてからの話にはなると思いますが、村に帰れなくなったときのことです……。新たな開拓地を用意していただくことは可能なのでしょうか?」

「ずいぶんと先の話じゃのう」

「どんな場所でも、また一から畑でも家でもつくってみせますぜ」

 傍らで聞いていたバルトが、後押しをするように口をはさんだ。思わず声を出してしまったという様子であった。

 マグダルはちらりとバルトを見て、苦笑いを浮かべた。

「まったく……。この村の連中は性急な奴ばかりじゃの。だが、安心せい。すべての打つ手がなくなった場合の話じゃが、当然、別の土地を開拓していくということも考えられるじゃろうな」

 ハルヒコは暗闇の中に小さな光を見出せたように思えた。

 客観的に考えれば、何もない土地をまた長い年月をかけて開拓していくのだ。それを喜ぶ人間などいるはずがない。だが、ハルヒコには――そして、おそらくは多くの村人達にとっても――帰れる場所ができることにどれほどの安心感、幸せを抱くことができるだろう。

 まだ何一つ解決していない――スタートに立ったのかさえ疑わしい――にもかかわらず、ハルヒコはその小さな口約束の保険に救われたような気持ちになった。

 自然とハルヒコもバルトも笑みがこぼれていたのだろう。マグダルが再び苦笑した。

「本当に気の早い奴らじゃな。ともかく、今はその怪物の正体をつかむことが先決じゃ。兵達には早速今晩から森を監視するように言っておる。まあ、大体の正体は推測できるがの……」

 ハルヒコは耳を疑った。

 ――正体は分かっている……?

 それはつまり以前にも同じようなことがあったということだろうか。

「マグダル様、それはいったい……」

 マグダルはさも当たり前のように言ってのけた。

「何を言っておる。ハルヒコもよく知っておろう。あれほど――穴が開くほど読んでおったではないか」

 ――読んでいた? 何を? 自分はいったい何を読んでいた……?

 あきらかに考えあぐねているハルヒコを見て、マグダルは助け舟を出した。

「こちらの世界に来てすぐの頃、そなた達家族は皆、必死になって読んでいたではないか。文字を覚えるために――」

 その言葉を聞いて、ハルヒコは一つだけ思い当たる節があった。

 ――だが、それは……。

「絵本じゃよ。何冊も城の書庫から借りて読んでいたではないか」

 あまりにも予想外のことで、ハルヒコはしばらく頭をはたらかせることができなかった。

「そうじゃな。確かにそなたらの世界では、絵本は子ども向けに書かれたものかもしれん。まあ、こっちの世界も子ども向けということには変わりない。じゃが――」

 ハルヒコはマグダルの話しを聞きながらも、自分達家族が読んだ絵本の内容を思い出していた。

 ――勇者がいた。冒険があった……。

 そして、世界は闇に包まれ、魔物達が地上を闊歩していた。

 人々は勇者と共に闘い、やがて闇に光がさした。

 どの絵本も、勇者が冒険をし、最後には世界を救う英雄譚であった。

「こちらの世界の絵本は史実に基づいて書かれたものばかりじゃ。かなり脚色はされてはおるが、まったくのおとぎ話というわけではない」

 ハルヒコの世界では、剣と魔法と冒険の居場所はファンタジーの中にしかない。だから、こちらの絵本に書かれていることも当然、空想の産物にすぎないと思い込んでいた。いや、思い込むことさえなかったかもしれない。絵本とは、ハルヒコにとってはそういうものだったのだ。

 ――だとしたら……。

 いるのだろう、闇の勢力が。人と敵対する悪意の塊――魔物と呼ばれる者達が……。

「はるか昔、人と魔物との大きな戦争があった。世界のすみずみまで闇と混沌が忍びこみ、人々は追い詰められておった」

 ――それを勇者達が撃ち破り、世界に光と秩序を取り戻した。

「だが、魔物達がすべて駆逐されたわけではない。魔物達がはるか南方、世界の果てにある奴らの根城『イディアラント』に撤退する際、世界の各地に奴らの仲間が取り残されていったのじゃ」

 マグダルは話の途中にもかかわらず「イディアラントだと。皮肉な名前じゃの」と小さく悪態をついた。

「だから、森から現れたその怪物も、おそらくは魔物どもの末裔――取り残され、忘れ去られていった種族の末裔であろう」

「マグダル様には、もうその怪物の正体が分かっておいでなのですか?」

「推測にしかすぎんがの」

 マグダルはハルヒコをちらと見た。

「ハルヒコよ、大体の見当はつかんか? 本に書かれていた魔物どもの中で、山のように巨大な体を持ち、恐ろしい豪腕を振るう――」

 ハルヒコは手繰り寄せられる限りの記憶の断片を集め、脳が熱をおびて暴走するほどにその中を探った。そして、たった一つだけ――その特徴があまりにも特異であったがゆえ他に合致のしようがなかった――怪物の姿を脳裏に思い浮かべた。

「そいつは、巨大な一つ目を持っていますか?」

 マグダルは黙ってうなずいた。

「そうじゃ。その怪物の名は――」

 そのときバチッと焚き火が爆ぜ、盛大に放たれた火の粉が宙を焦がした。その幾つかは天に吸い込まれるように掻き消え、まるで深い森の闇の中へと誘われていったかのような錯覚をハルヒコは覚えた。


 グンターとその直近の部下であるタハは、漆黒に塗り込まれたキャンバスを、会話もなくただ眺めていた。いや、眺めていたという言い方には語弊があるかもしれない。彼等は目を皿のようにして、どんな変化も見逃すまいと夜の森を注視していたのだ。

 こちらの世界の夜は深い。ランプも灯さず月も陰れば、自分の手のひらを目の前にかざしたとしても、その輪郭さえ判断することは難しいだろう。足元など言うに及ばない。本来の闇夜とはそういうものなのだ。

 だが幸いというべきか、今夜は満月だった。月の光で自分の影が地面に落ちるほどに、世界は優しく静かな明るさに抱かれていた。だからこそ、背景の夜空よりも黒く広がる眼前の森が、ただそこにあるだけで奇妙な恐ろしさを吐き出し続けているように思えてならなかった。

 ――穴がぽっかりと空いているみたいだ。

 タハは「地獄への……」と胸の内で付け加えた。

「グンター隊長、さすがに昨日の今日では、怪物も現れはしませんかね」

 グンターは森に目を向けたまま答えた。

「そうかもしれんし、そうではないかもしれん。分かるはずもない、化け物の頭の中のことなど……」

 ――それでも、もし現れたとしたら……。

 よほどの強欲な腹の持ち主か、よほど馬鹿な頭の持ち主なのだろうとグンターは思った。そのとき――

 ――ん……?

「グンター隊長……。今、何か感じませんでしたか……。地震……?」

 タハも確認を求めるように――もしかすると同意を求めて――先ほどとは打って変わり、蚊の鳴くような声でグンターに問いかけてきた。声を上げてはいけないと、直感が無意識に警告していたのかもしれない。

 疑いの余地はなかった。大地が怯えて震えている。その振動はより強くはっきりとした形となって二人に伝わってきた。

 グンターとタハはもはや声を交わすこともできず、森を――月夜を背景に従えた暗闇のキャンバスを凝視し続けていた。

 ――え……?

 タハが得も言われぬ違和感に囚われた。自分の頭がおかしくなったような感覚にさえなった。

 ――月だ……。

 暗闇のキャンバスに――深い森の縁に――その真円の満月は浮かんでいた。

「月だ……」

 タハは思わずそうこぼしていた。

「静かに!」

 声を落とし、グンターはタハを戒めた。

「タハ、動くなよ。奴に気づかれる……」

 それが月でないことは明らかだった。なぜなら、本物の満月は、自分達の背後で、慈愛に満ちた光で世界を照らしていたのだから。

 それは目であった。満月と見紛う真円の巨大な一つ目。あろうことか、それが事件の起きたまさに同じ場所に――森の縁に現れたのだ。

 グンターとタハは微動だにできなかった。目が合っているとしか思えなかった。まるで観察するように、そいつは自分達を見つめているとしか思えなかった。

 ごくりと喉がなった。唾が苦かった。

 二人にとって幸運だったのは、今宵が満月であったこと――その巨大な目は、満月の静かな光でさえも目が眩むような眩しさを覚えていたのだ。そして、動かなかったこと――月の光に紛れ、二人の姿は世界の背景の一部と化して見えていた。

 どれくらいそのままの時間が過ぎただろう。いつの間にか、その目は消えていた。そのことに気づけないほど、二人は疲弊していたのだ。だが、それでも二人は動かなかった。声を出せなかった。

 少しでも動けば、口を開けば、そいつが森から飛び出してくるように思えたからだ。

 二人は気が果てるまでそうしていた。ずるずると体が地面に砕け落ちていくまで。

 石垣に二人はもたれかかり、嫌な冷たい汗をふき出しながら息を切らしていた。そう、二人は動かなかったにもかかわらず、息を切らしていたのだ。呼吸をするのを忘れていたみたいに。

 凍りついた沈黙が世界を支配していた。

 グンターが誰に言うでもなく呟いた。

「トロールだ……」


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