第4章―5
ぱっと見、現場はよく見慣れた田舎の風景が広がる、どこにでも存在するありふれた場所であった。陽もまだ高く、降り注ぐ陽光が秋のにおいを運ぶ風とあいまって心地良かった。
こんな所で……と、ハルヒコは狐につまされた思いだった。
そこは街道沿いの、うっかりすると見落としてしまいそうな、深い森からこぼれ出た窮屈な草原だった。エオラの町から街道は南に向かって緩やかに下っている。その街道に沿うように、小さな川が少し外れて並走していた。東西に連なる北方の大山脈の麓、深い森からしみ出た雫が寄り集まり、澄んだ清流が森の縁に生み出されていたのだ。街道から川までは緩やかとは言い難い斜面になっており、街道と森が接近している――森の木々が一本一本、判別できてしまうような――ところには、例外なく街道脇に人の胸の高さほどある石垣が設けられていた。
――この石垣は、森の危険な生物を防ぐためと聞いていたが……。
羊が失われた現場は街道と森が接近しており――ハルヒコの村の辺りは大部分がそうであった――石垣は南側に見える橋の方までまっすぐに延びていた。その目と鼻の先にある橋を渡ってすぐ、街道は三差路に分かれ、それに応じるかのように川もまた三つ叉に裂かれていった。橋は東に向かって分岐した支流の上に掛かっていた。
「あの川を渡った向こう側です……」
ゴートが指差す方向を、ハルヒコは目を細めて注視した。
ハルヒコ達がいる街道からは、石垣を挟んで急な斜面が川に向かって下っている。その川は水面から顔をのぞかせた大きめの岩を飛び石として、対岸につたっていける程度の幅と深さを持っていた。川を渡ると緩やかな上り斜面となり、すぐ側まで迫る深い森まで豊かな緑をたたえた草原が延びていた。
「どこら辺ですか? よく分からないな……」
ハルヒコはもう一度ゴートの指先を確認して、その延長線上をたどるように視線を移していった。
「あそこです。あの森の縁のところです……」
そう言われても、やはりハルヒコには分からない。
「あの影がかかっている辺りですか?」
ハルヒコは森の縁に落ちている黒い影を目印にしようとした。しかし、ゴートの次の言葉に、ハルヒコは自分が大きな間違いを犯していることに気づかされる。
「村長……あれは影なんかじゃない……。あそこが……羊達が襲われた場所なんです!」
――影じゃない……? じゃあ、あれは……。
「あの黒いのは影なんかじゃない……。あれは……羊達の血です! 血が黒く地面にこびりついているんだ……」
ハルヒコの背筋にふたたび冷たいものが走った。
――あれが血だっていうのか……。
まるでペンキの缶をうっかり倒してしまったみたいに、辺り一面にその黒く変色した液体はぶちまけられていた。
――どうすれば、あんなふうになるんだ……。
「川を渡った後、どうしても急に用が足したくなって……。羊達をあの木のところにつないでいたんです……」
そのときのことを思い出そうとして、ゴートの顔は再び悲愴な表情へと変貌していった。
「川で小便してたら、後ろの森で小さく音がして……振り向いたら一匹見当たらなくなっていて……。つないでた紐が解けたのかと思って、とりあえず小便出しきったら探しにいこうって……そしたら……」
ゴートはまた小刻みに震えだした。
「今度は悲鳴が聞こえたんです……。とっさに振り返ったら、また一匹いなくなっていて……それに……」
ゴートの頭の中では、そのときの悪夢が繰り返されているのだろう。言葉に出してしまうと、今度こそ、その恐怖が自分を捕まえにやってくるような気がして、話すには大きな勇気が必要なようであった。
「残った羊の様子は尋常じゃなかった。必死の形相で断末魔のような叫び声を上げて……何かから逃げようと……。でも紐に引っ張られて……。そしたら……森から腕が……」
ハルヒコは自分の目の前に広がる光景の中で、今まさに、そのときの凄惨な状況が再現されていくような錯覚を覚えた。
「運良く紐が解けて、羊は逃げようとしたんだ……。でもその腕は、逃すまいと素早く伸びて……。羊をつかんだ……。とても大きな手だった。羊を一握りにできるくらいに……。そして、握り潰した……。勢い余って力を入れすぎたみたいに……。果物を絞るみたいに……」
ゴートが語るのは、そこまでが限界だった。
彼は逃げた。羊がどうなってしまったのか、確認する余裕など当然なかった。その腕が背後からまた伸びてきて、自分が捕らえられてしまうのではないかと思ったからだ。
ゴートが何度も足を滑らせ、転倒しながら斜面を駆け上がったとき、背後からこの世のものとは思えぬ絶叫がこだました。羊達が息絶えた瞬間だった。
それでもゴートは振り向かなかった。自分の胸の高さほどある石垣を、なりふり構わずよじ登った。はたから見れば、どんなにあさましい姿だったろう。
石垣を乗り越えた。街道の地面に倒れ落ちた。目を落とした先にあった自分の手は傷だらけになっていた。石垣の鋭い角で切れ、至るところから血が滲み出ていた。
ゴートは息も整わないうちに、恐る恐る石垣から頭を出し森の方をうかがった。逃げているとき、背後から何かが追いかけてくるような気配はしなかったが、もしかするとそいつは――羊を捕らえた巨大な手の持ち主は――石垣の方に、自分の方に向かってきているかもしれなかったからだ。
だが、ゴートがのぞいた石垣の向こう側は、何事もなかったかのように静まり返っていた。いつもの日常――川、草原、深い森――それらが陽光に照らされ、ただ穏やかに広がっているだけであった。
語り終え、ゴートは頭を抱えて地面にへたり込んだ。しかし、その場にいたハルヒコにもバルトにも、そんな彼を気遣う余裕など今はなかった。
――よりにもよって……。
どうして、ここなんだろう? どうして、こんなに村に近い場所で……。
――ついてない……。
素直にそう思った。だが、その言葉を思い浮かべた瞬間、
――そうじゃないだろう!
ハルヒコは自身を叱りつけていた。
ついてない……ではない。今考えるべきことは、そんなことじゃない!
――どうするべきか……。
それ以外に何があるというのか――。
――しばらく様子を見る?
そんなのは愚の骨頂以外のなにものでもない。
――そいつは、なぜゴートを追いかけてこなかった? なぜ、森から出てこない?
ハルヒコは、ともかく現在の状況を把握しようと努めた。
――陽も高い。空も晴れている。
森の中とは比較にならないぐらい外は明るい。そいつは、もしかして光に弱いのだろうか? だが、それはあくまでも推測でしかない。怪物というイメージに、判断が引っ張られているというのもある。
――だが、今はその仮定にすがるしかない……。
そうだとして、村人達が夜を家で過ごすことは、はたして安全なんだろうか。今夜はみんな村に留まり、なんとか一晩をしのぐことは可能なんだろうか。
――無理だ……。
あまりにもリスクが高すぎる。そいつは巨大な腕を持っていた。羊を一握りに潰すことができた。おそらく化け物の体躯は想像を絶する巨体で、圧倒的な怪力を振るうだろう。村の家屋など、襲われればひとたまりもない。
――避難しなければならない……。
だが、どこへ……?
ハルヒコは考えがまだまとまらないうちに、バルトに指示を出した。
「バルトさん。すみませんが、急ぎ村に戻って、男衆をできるだけここに呼んできてください」
バルトは何名ぐらい必要かと尋ねた。
「急を要します。目についた村人達に声をかけてきてください。時間との勝負になります」
バルトは分かったと一声出すと、直ちに村へと駆け出した。
ハルヒコとゴートの二人だけがその場に残された。だが、ハルヒコにはゴートに構ってやれる時間はなかった。
――避難する……どこへ……?
すぐに思いついたのは、ここから歩いて一時間ほどの場所にある兵士達の駐屯所だった。村人達全員が野営できるぐらいのスペースはあるだろうし、堅牢な壁で守られている。だが、そこへの避難を断られたら、どうする?
――たった一つの希望にすがるのは危険だ。
駐屯所への避難がかなわなかったときの策を、さらに幾つかひねり出しておかなくてはならない。
――村人達が避難するためには、何を準備するべきか……。
とりあえず今夜、村人達の食事や寝床をどうするか。その先に待っている彼らの生活も気にはなるが、まずは今目の前にある当面の課題だけを考えるのが先決だ。
ハルヒコが、喫緊に対応しなくてはならないことを頭の中である程度まとめられた頃、街道の先にバルトと村の男衆の姿が現れた。駆けてくる彼等の後方には、息せき切って何とか置いていかれないようにと走るヤンガスの姿も見えた。
――さあ、ここからは少しも時間を無駄にはできない。
「村長、とりあえず集められるだけ集めてはきたが……」
これからどうすると、バルトの表情は問いかけていた。
「まず、村人達を避難させるという方針で、これから行動していきます。異論は聞き入れません。すみやかに指示にしたがってください」
以前、タバコを売った代金を村人達に分配したとき、子ども達の取り分に関しての提案を頑として引かなかったハルヒコである。そのときの姿を皆が覚えていたのか、異論をとなえる者は誰一人としていなかった。
――こうなってしまっては、村長はてこでも動かない……。
あきらめというわけではない。村人達はハルヒコの人となりをそのように理解していたということだ。
「そこの二人には、今から駐屯所まで走ってもらいます」
村の成人の中でも特に元気な若者にハルヒコは声をかけた。
まず、手短にそこにいる全員に自分達が現在置かれている危機的な状況を説明した。それから、若者二人に駐屯所の兵士にその緊急を要する状況を知らせることと、村人達を駐屯所に避難させてほしい旨を伝えるようにと指示を出した。
「城にも同じ報告をするとも伝えておいてください。悪いけど、さっそく出発してくれますか」
存分にここで起こった事件を聞かされ震えあがった後である。二人は事の重大性を充分に理解し、お互いに顔を見合わせると、直ちに街道を橋の方に向かって走り出した。橋を渡ると三差路を右に折れ、あっという間に姿は見えなくなった。
「次にバルトさん。ゴートさんと一緒に城に向かってもらえませんか」
「それは全然構わないが、ゴートは大丈夫だろうか……」
ゴートもハルヒコの言葉を聞いて、不安そうな顔を向けてきた。
「ゴートさんが疲れているのは分かってます。でも、そのときの状況をマグダル様に正確に伝えてほしいのです。もしマグダル様が不在なら、ウタル隊長でも構いません」
ハルヒコは駐屯所に向かわせた若者達に指示した同じ内容をバルト達に託した。
「時間がありません。日が沈むまでには避難を完了させたい。大変でしょうが、今すぐに馬車で出発してください」
バルトは分かったと、ゴートに手を貸して引き起こした。そして、背を軽く叩いて「行こう」とうながした。
二人の背中を見送ると、ハルヒコは残った村人達に指示を出した。
「みんなには、今から村に戻って、村の全員に避難の準備をするように伝えてほしい。二三日分の着替えや寝るときに使う毛布。保存食もできるだけ持ち出してほしい。村には誰もいなくなるから、貴重品も置いていってはいけない。それから、火の始末も忘れないようにと」
ハルヒコは他に何か準備しておくものはないだろうかと、みんなに意見を求めた。誰からも声は上がらなかった。
「それでは行ってください。私はここで待機しています。何かあれば知らせてください」
そう言うと、皆一斉に村へと駆け出していった。
「ヤンガスさん!」
村に戻ろうとするヤンガスを、ハルヒコは呼び止めた。
「すみませんが、私の家族にも避難の準備のこと、しっかりと伝えておいてください。それと、後で金庫に入っている村のお金も取り出そうと思ってますので、鍵も用意しておいてください」
ヤンガスは任せておけと、また息を荒げながら、村に向かってどすどすと走っていった。
ハルヒコは一人残された。
これから、はたしてどのようになっていくのだろうか。自分や家族、村人達の未来は見えない。
だが、だからといって立ち止まるわけにはいかない。
予期せぬ困難にぶつかって、手も足も出ないと最初から勝負を投げ出してしまう。ただ不貞腐れて、何もしないうちに負けを認めてしまう。
――そんなのは悔しいじゃないか!
ハルヒコは負けず嫌いだった。特に不条理なことを平気でするような人間に対しては嫌悪さえ抱いていた。
考えてみれば、これだって不条理なことには変わりない。
だんだんと腹が立ってきた。
森から突如わき出た怪物に対してではない。こんなにも皆が過不足のない毎日を過ごしているところに、不意にその安寧とした日常を打ち砕くような仕打ちをしむけた何か――それは世界と言ってもいいかもしれない――に怒りを覚えたのである。
ハルヒコは森を睨んだ。果てしなく広がるこの世界を睨んだ。
――負けてたまるか……。
いつか、こんな世界ぶっ飛ばしてやる――ハルヒコは胸に誓った。




