第4章―4
穏やかな、調和のとれた日常が過ぎていった。新たな村人を受け入れ、農地を拡大し、村の開拓も順調に進んでいった。皆の暮らしにも余裕ができてきたせいか、ハルヒコが文字や計算を教える森の学校にも参加者が増えた。ハルヒコとシュウの魔法も、わずかではあるが着実に進歩していっているのが実感できた。
夏が終わろうとしていた。空の色や風の匂いにも、秋の色が少しずつ入り込んできていた。
――上手くいっている。何もかも……。
村長の職を拝任したときには不安でいっぱいだった。経験もなかったし、この世界のこともまだまだ分からないことばかりだったからだ。だが蓋を開けてみれば、村には能力のある人材が数多くいて、彼等はみな信頼できる人物だった。謙虚に教えをこい真摯に相談すれば、村人達は協力を惜しまなかった。
すべてが順調に進んでいるからといって、ハルヒコは決して手を抜くようなことはしなかった。常に慎重に、そして最善の選択をするように努めた。自分自身が先頭に立って頑張る姿を見せなければ、やがて村人達の心が離れていってしまうことをよく知っていたからだ。
村の内部には日常の些細な問題がたまに持ち上がるぐらいで、決して慢心していたわけではないが、ハルヒコは上手くいっているとささやかな自負を抱いていた。
そう、村の中には問題は見当たらなかったのだ。村の中には……。
――物事が順調に進んでいるときほど、気をつけないといけない……。
安心しているときほど、狙ったかのように何か想定外の出来事が待ち受けているものだ。
確かに、このとき、村の内部には何一つ問題など見つからなかった。だが、招かれざる客は――前触れもなく――突然、外からやって来た。まったくの予期せぬところから。
バンバンバン――!
ハルヒコの家族はテーブルの椅子に腰掛け、本を読んだり縫い物をしたりと、思い思いの時間を過ごしていた。
そこに玄関の扉が突如破られそうな勢いで叩かれた。ハルヒコも思わず本を床に落としてしまったし、カナなどは状況を確認する前にハルヒコの胸に飛び込み、ギュッと体に抱きついて顔を埋めたぐらいだ。
――いざというとき、これでは魔法は使えないな……。
ハルヒコはもう一人の魔法の使い手であるシュウの姿を探した。本人には伝えていなかったが、万が一のときにはハルヒコはシュウのことを頼りにしていたのだ。
だが部屋を見渡しても、シュウの姿はどこにも見当たらなかった。
「いたたた……」
テーブルの下から声が聞こえた。
シュウは驚きのあまり椅子ごと倒れてしまっていた。
――頼りにできるのは、もう少し先か……。
ハルヒコはカナをなだめながらトウコに預けた。それから、ゆっくりと玄関の扉に近づいていった。
バンバンバン――!
もう一度、ハルヒコの目の前で扉が叩かれた。
――何か、よほど切羽詰まったことでも起きているのか……?
扉を開けると、そこには二人の男が立っていた。
「バルトさん……。それにゴートさん……」
ハルヒコが絶句しそうになったのは、二人の様子があまりにも尋常ではなかったからだ。あの落ち着いた普段のバルトからは想像もできないほど、その顔からは焦りの色がうかがえた。もう一人のゴートにいたっては、玉のような汗を噴き出し、その顔は死人のように蒼白だった。よく観察すれば、小刻みに震えていることが分かっただろう。
「どうされ……」
「村長、一大事だ!」
バルトは声の大きさを調節することも忘れ叫んだ。
トウコに抱かれていたカナはビクッと再び驚き、トウコの胸に顔を押し当てた。トウコはバルトに対してあからさまな嫌悪の表情を向けた。
だが、バルトはそんなことにはお構いなしに、もう一度「一大事なんだ!」と叫んだ。
「ともかく、ちょっと落ち着きましょう。シュウ、二人に水を――」
シュウは慌ててコップに水をくみ、それを二人に渡していった。二人は水を口に含むと、まるで自分達はこれほどまでに喉が渇いていたのかと、今初めて気づいたみたいに、受け取った水を一気に飲み干した。それで幾分は落ち着きを取り戻したかのように見えた。
「何があったんですか?」
ハルヒコが尋ねた。だが、焦っている割には、二人はなかなか返答しようとしない。何を話せばいいのか、その言葉を見つけられないでいるようであった。
ハルヒコはゴートを見た。彼は少し前にこの村の住人になった新参者だ。家畜の飼育経験があり、村で飼っている羊の世話をしてもらっている。その彼が、今にも死にそうな顔で震えている。
――これは仕事を失敗したとか、そういうことじゃなさそうだな……。
「ゴート……。すまない……やっぱり俺にはどう伝えればいいのか分からない……」
バルトはゴートに相談され、代わりに説明をするつもりでいたのだろう。だが、その内容は本人でなくては上手く伝わらない類いのものらしい。
――やっぱり、仕事のこととは関係なさそうだ……。
ハルヒコがそんなことを考えていると、ゴートが突然地面に手をついて叫んだ。
「村長! 申し訳ありません! 羊達が……羊達を……。俺は……俺は……失ってしまいました……」
――あれ……?
やっぱり仕事のことかと、ハルヒコは少し拍子抜けした。同時に、ここまで青ざめた表情で思いつめる必要はないのにな、とも思った。
――失敗は誰にでもあることだし、その失敗から何を学ぶかが大事なんだ……。
羊を失ったのは確かに村にとっては手痛い事故だ。試みにと家畜を飼い始めたばかりの出来事でショックも大きい。
「ちょっ……、そこまで頭を下げなくても……。大丈夫、失敗は誰にでもあることじゃないですか。ゴートさん、ほら立ってください」
だが、ゴートは立とうとしなかった。立てなかったのである。
「羊の一匹ぐらい……。いや、そういう言い方はよくないか。でも、生き物を飼っていれば、こういうこともありますよ。今度から気をつけましょう」
「すみません……。村長、本当にすみません……。俺は……羊を……羊をすべて……失ってしまった……」
――えー……。
それは、さすがにハルヒコにとっても想像を越える被害であった。羊は三匹いた。それを一気に失ってしまうとは、いったいゴートは何をしでかしてしまったというのだろうか。
「そ、そうですか……。ま、まあ、それでも仕方がないこともありますよ。いったい、何をしてしまったんです……?」
「村長。違うんだ……。そういうことじゃねえんだ……」
それまで黙っていたバルトが口をはさんだ。
その瞬間、ハルヒコは自分自身がとんだ思い違いをしていることに気がついた。
バルトはそうではないと言った――。
二人の顔は死にそうに青ざめていた――。
そして、ゴートは何と言ったか……。
ハルヒコも、急激に自分が置かれている事態を理解して、二人と同じく顔から血の気が失せていった。背筋に冷たいものが走った。
ゴートは、こう言ったのだ……。
「失ってしまった」と……。
盗まれたでもなく、死なせてしまったでもない。
――失ってしまったとは、どういう意味だ……。
ハルヒコが詳しい状況を尋ねようとしたとき、ゴートが震える声をしぼり出した。自分をつかんで離さない恐怖に、かろうじて抗うかのように。
「森から腕が……。腕が伸びてきて……」
もはやハルヒコの想定した事態の範疇からは逸脱していた。思ってもみない言葉がゴートの口から発せられたのだ。
――森から腕……? 伸びてきた……?
「あの石垣の向こうに行っちゃいけないことは分かってたんだ……。でも、あっちには羊達のご馳走が山のようにあって……」
突然、ゴートは吐きそうに嗚咽し始めた。息がつまって、しぼり出す空気は上手く声にならない。それでも、ゴートは伝えなくてはと、どれほど惨めな声だろうとも、一言ずつ言葉を並べていった。
「腕が……。大きな腕が伸びてきて……。羊達を……森の中に……」
――大きな腕……?
「それは……」
ハルヒコが詳細を聞こうとした。だが、その前にゴートが叫んだ。明確な意思をもって、はっきりとその言葉を皆の意識に刻みつけるように。
「あれは怪物だった! 山のように大きな化け物だった! そいつが……そいつが……」
その場にいた誰もが、耳をふさぐことができたらと祈った。
「俺達の羊を……握り潰して……。森に……」
この世界の脅威は、はるか南方の異国にあるのではなかった。ありふれた日常のすぐ隣に、それは虎視眈々と目を光らせていたのである。




