第4章―2
「あら、あなた達。こんなに喋れるようになったのね。元気そうで何よりだわ」
断崖絶壁の岬が大きく突き出たこの地域一帯を人々はコメンコと呼んでいた。そして、そこにある唯一の村の名も、誰かに決められたわけでもなく、いつしかコメンコの村と呼ばれるようになっていた。
「その節は本当にお世話になりました。これは皆さんで召し上がってください」
ハルヒコはトウコが作ったビスケットを手渡した。受け取るときの女性の表情から、思っていた以上に喜ばれているのが分かり、ハルヒコはほっと胸を撫で下ろした。
「あなた達が現れたときは、それはもう村の人達みんなが驚いていたのよ」
「それは、そうでしょうね……」
――見慣れない服装で、聞いたこともない言葉を話す人間が突然現れたんだ。
そりゃびっくりするよな……。
それでも、村の人達はそんな怪しい者達のことを気にかけてくれたのだ。
「子ども達もそうだったけど、あなた達も本当に途方に暮れたような顔をしてたのよ。このルアン国の人間なら、何とかしてあげたいって思うのは当然のことよね」
女性はハルヒコ達をお茶に誘ってくれた。だが、今から岬の草原に向かうことを伝え、ハルヒコはつつしんでその誘いを辞謝した。
「だったら、帰るときにまた寄りなさいな。馬車の時間もまだまだ先でしょうし。ね、僕達も外でぼーっと待っていても退屈だものね」
女性は子ども達に笑顔を向けた。
ハルヒコは、帰りにまたご挨拶に伺いますと、その場を後にした。
岬の草原に向かうべく、乗り合い馬車が来た方向とは逆に村の通りを歩いていく。
――こんなに小さな村だったのかな……。
この世界に飛ばされたその日、村の様子なんて確認する余裕などハルヒコにあるはずがなかった。
コメンコの村はハルヒコ達の村とは異なり、数件の家が大きな通りをはさんで互いに寄り添うように一ヶ所に集まってできていた。
――もしかすると、あの日、心配して集まってきてくれたのは、この村に住む人たち全員だったのかもしれない……。
もう半年以上も前のことだ。あの日のことを詳細に思い出そうとしても、夢の中の出来事のように霞みがかって、ぼんやりとした光景がそれでも断片的にしか浮かんでこない。しかし、鮮明に覚えていることもある。それは村の人々の優しさであった。言葉は通じなかったが、彼らが心底、自分達家族のことを心配してくれている気持ちはひしひしと伝わってきていたのだ。だからこそ、あの日、自分も取り乱しそうになる不安を懸命に押し殺し、家族を安心させるために努めて平静を装えたのである。
ただ、いまだにどうしても分からないこともある。いや、分からないことは多々あるが、その中でももっとも根源的で本質的な問いかけ……。
どうして、我々はこの世界に来なければならなかったのか――。
どうして、それが私達家族でなければならなかったのか――。
その疑問に答えてくれる者など誰一人として現れなかった。答えは自分で見つけるのだと、暗にほのめかす事象さえつゆほども起こらなかった。
もしかすると、世界は答えなど用意していないのかもしれない。
ただ人であるがゆえに……生きていく理由を必要としているだけなのかもしれない。
岬といっても小さな半島と呼ぶのが正解であったろう。村から出ても、近くにちらとでも海が望める気配はない。むしろ遠くに見える小高い丘に向かって登っていかなければならなかった。
申し訳程度に踏み跡のついた草原の道をハルヒコ達は進んでいく。遠くに深い森がいくつか見えた。天気も良かった。
「ピクニックみたいだね」
シュウが何気なくそう言った。本当にそんな気分になっていたのだろう。
こんなふうに仕事以外の理由で村の外に出かける。そう言えば今までなかったなと、そのときになって初めてハルヒコは気がついた。
――そんなに余裕がなかったんだな……。
元の世界では子ども達が退屈していないかと、休日には遊びに出かける計画を苦慮していたというのに。
今までは時間的にも経済的にも、そして何より精神的にも、そんなことを考える余裕などなかった。何かに追われるように、目の前に現れる出来事に対処することで精一杯だった。しかし、今日この場を訪れようと思いついたのも、少しずつこちらでの生活にも慣れてきて、こちらの世界を楽しもうという気持ちが持てるようになってきたからかもしれない。
子ども達のはしゃぐ様子を見て、ハルヒコは嬉しさとともに、胸に小さな痛みを感じずにはいられなかった。
心地好い風にほおを撫でられ、ハルヒコは目を覚ました。
ぼんやりとした頭で、呑気な違和感を反芻しながら、
「風……」
と、その言葉を口にした。
とたんに、鼻腔に入り込んでくる濃密な草の湿った匂いに気がついた。ハルヒコの意識は一気に覚醒した。
――風を感じるわけがない……。草の匂いがするわけがない……。
吸い込んだ空気には、微かに土の匂いまで混じっていた。
――部屋の中にいたはずだ……。
重いまぶたを開けると、そよとした風に頭を揺らす草花の群れが目に飛び込んできた。
ハルヒコは一瞬思考が停止した。もしかすると、息をすることも忘れていたかもしれない。
そして、もう一度みずから確認するように繰り返した。
――リビングでテレビを観ていたはずだ……。
すかさず「誰と……?」と問いかける自分がいた。
――子ども達は……!
がばっと上体を起こす。ハルヒコは焦点のまだ定まらない目で傍らを探った。
今となっては良かったと思うべきかどうか迷うところだが、ハルヒコのすぐ側にシュウとカナの姿はあった。小さな寝息をたてて二人は横たわっていた。
ハルヒコが今となってはと思ったのは、自分一人だけがこの世界に飛ばされていれば、少なくとも家族は元の世界でいつもの日常を過ごせていたかもしれないと想像したことがあったからだ。しかし、彼らの過ごす日常は父親のいなくなった世界となり、自分の日常は家族のいなくなった世界になっていただろう。仮にそうなっていたとしたら、自分一人では、この世界で生きていくことには耐えられなかっただろう。家族がいてくれたからこそ、ここまでやってこれたのだ。
ハルヒコはまずシュウの体を揺すった。二人とも穏やかな寝顔で、胸もしっかりと上下していた。しかし、意識が戻らなかったらという恐怖がハルヒコの焦燥をあおった。
「ん……」
朝になって無理やり起こされたときのように、眉間にしわを寄せてシュウがうなった。
ハルヒコはこのときに感じた気持ちを今も覚えている。状況も把握できず、自分自身も混乱していたにもかかわらず、湧き出てきたのはただ純粋に――嬉しい――という感情だったのだ。そう、子ども達が生まれてきてくれた瞬間に感じた、あの暖かくて優しい気持ちであった。
ハルヒコはシュウがしっかりと目を覚ます前に、カナの体も揺すった。こちらは寝相の悪さには折り紙付きのカナらしく、布団を蹴飛ばすみたいに足をジタバタさせて抵抗した。ハルヒコの顔に思わず笑みがこぼれていた。
――二人は大丈夫だ……。
子ども達の安否が確認できたところで、ハルヒコはあらためて今の状況を確認した。
――服は部屋着のままだ……。
ハルヒコは記憶をたぐり寄せようと、中身が溶けてしまったみたいに回転の鈍い頭を必死に働かせた。
――仕事から帰宅して……。
ただ、帰宅したのがついさっきのことなのか、それとも昨日や数日前のことなのか、確信が持てない。
――夕食をみんなで食べて……。
これもメニューを思い出すことはできなかった。
――そして、みんなでテレビを観ていた……。
記憶はそこで途切れていた。どんなに考えても、その続きを思い出すことも――それどころか想像することさえもできなかった。
ハルヒコは立ち上がって辺りをうかがった。見渡す限りの草原が広がっていた。草原の先は遠く闇の中へと溶けこみ、黒い穴がぽっかりと大口を開けているように見えた。
ハルヒコは空を見上げた。星がいくつも瞬いていた。もうすぐ夜が明けるのか、東の空がわずかに白み始めていた。
――ここは、どこだ……?
当然のように湧きあがる疑問。だが一方で、それはひどく間の抜けたもののようにも感じられた。
ハルヒコの隣で、寝過ごしてしまったときのようにシュウが勢いよく起き上がり、焦点の定まらない目をぱちくりさせ、キョロキョロと辺りを見回した。
「パパさん。ここ、どこ……?」
それにつられるように、カナも「ん……」と目を覚ました。
ハルヒコはしゃがんで二人に声をかけた。
「二人とも大丈夫? どこか痛いところとかない?」
シュウは腕を曲げたり伸ばしたりして「大丈夫みたい」と答えた。一方、カナは大きなあくびを一つ返してきただけだった。
「よかった……。本当によかった……」
ハルヒコは二人の頭をくしゃくしゃとなでた。
子ども達が目を覚ましてくれたおかげで、不思議とハルヒコはいつもの落ち着きを取り戻すことができた。自分がしっかりしなければと、家族を持ってから、いつしか自然にそなわった心持ちだ。
「パパさんも、ここがどこだか分からないんだ……。でも、大丈夫!」
シュウはハルヒコの顔を見つめた。
「パパさんがいれば大丈夫。今までだって、そうだったろう?」
ハルヒコは笑顔をつくった。シュウからの返事はなかった。
――少しでも安心させることができただろうか……。
「カナは大丈夫?」
シュウがそう言うと、もそもそとカナも起き上がってきた。
「あれー。ママはー?」
周りの状況が見えていないのか、カナは普段通りの朝を迎えたみたいに口を開いた。
その素直な疑問は、誰もがすぐに抱くものだろう。ハルヒコもその不安を胸に押し込んで、まずは子ども達の安否を確認していたのだ。
不安と焦りはもちろんある。だが、子ども達を前にして、それを悟らせるわけにはいかない。
「シュウもカナも、それにパパだってここにいるんだよ。ママさんもいるに決まってるじゃないか。二人とも大丈夫なら、ママを探しにいこうか?」
シュウは言葉にはしなかったが、その表情には心配の色が見え隠れしていた。一方、カナは「冒険だね」と、あいかわらずの空気を読まない発言をして、逆にハルヒコを安心させてくれた。
「じゃあ、少し高い方に行ってみようか」
三人はその場に立った。そして、三人同時にあることに気がついた。
「靴下のままだね。僕達、靴をはいてないんだ……」
シュウも何かを思い出そうと考えているようだった。
「家の中でテレビを観てたんだから、靴をはいていないのは当たり前でしょ。シュウちゃん、何言ってんの」
状況を理解して話しているとしたら、カナはとんでもない大物だろう。今まで真の姿をひた隠しにして、このような困難な状況に出くわすのを待っていた――。
――そんなわけないか……。
思いついたことをよく考えもせず発言してしまう、空気を読まない――読めない、ただの女の子だ。だが、カナの言葉は、無意識のうちに何かと都合のいい解釈にすがろうとしているハルヒコに、自分達が今置かれている現実を直視させてくれた。
――そう、みんな家の中にいたんだ。
それが今、こんな見たこともない草原に……外に放り出されている……。
第三者が関わっている? 何かの陰謀? まさか、非人道的な社会実験? 様々な仮定が――いや、突飛な空想と呼ぶべきかもしれない――が、取りとめもなくハルヒコの脳裏を飛び交う。
「二人とも足もとに気をつけて。パパの後ろをついてくるんだよ」
幸いにも草原に生えていた草は絨毯のような役割をはたしてくれた。ハルヒコ達は足裏に痛みを覚えるようなことはなかった。
ハルヒコ達は倒れていた場所から緩やかな斜面を上がっていった。斜面の先は闇夜に吸い込まれ、うかがい知ることはかなわない。先頭を行くハルヒコも、子ども達には勇んで進でいるように見せて、その実、一歩を踏み出すたびに得体の知れない恐怖と戦っていたのだ。
――高い所に上がれば、トウコを見つけることができるんだろうか?
早く見つけてあげたいと当然のように思った。同時に、こんな状況にトウコが陥っていないことも心の中で祈っていた。子ども達のことを考えると、トウコがいてくれた方が心強いと思わずにはいられなかったが。
「パパさん!」
シュウが叫んだ。ママだとは言わなかった。ハルヒコが振り返ると、ハルヒコ達が倒れていた場所から少し離れた斜面に、白い何かが草原のすき間に見え隠れしていた。傾斜の強い斜面で、ハルヒコ達が目覚めた所からは死角になって見えなかったのである。
ハルヒコの心臓が早鐘のように打った。それがトウコなのか。トウコだとしたら無事なのか。それとも、それは得体の知れない何かなのではないのか。
「パパさんが見てくるから、二人とも少しここで待っててくれるかい」
「えー、わたしも行くー」
シュウもすぐに駆け出していきたい表情をしていたが、ハルヒコはカナを頼むと言って一人その白いものへとゆっくり近づいていった。
ハルヒコが接近していくごとに、白いものの全容が明らかになっていった。まず最初にそれが布のようなものであることが分かり、次いでそれはどうやら服の形をしていることがはっきりと見てとれた。ここまでくればもう疑いの余地はなかった。その服はハルヒコもよく知っているものだったのだ。
ハルヒコは倒れているトウコの元へ急いだ。
――子ども達は無事だったけど……。
嫌な想像が頭をよぎった。
ハルヒコが駆けつけると、トウコはうつ伏せの状態で横たわっていた。息をしているのか、判断ができない。ハルヒコは慌ててトウコの首の後ろに手を回し、上体を抱え起こした。
――よかった……。
手に暖かさが伝わってきた。胸がかすかに上下しているのも見てとれた。耳を澄ますと、すうすうと息をしている音も伝わってきていた。
――よかった……。本当によかった……。
そのときになって初めて、ハルヒコは自分の心臓が張り裂けるような痛みで鼓動していることに気がついた。
――大丈夫……。もう、大丈夫だ……。
「みんな、ママさんは大丈夫……」
ハルヒコが子ども達に呼びかけようと振り向いた、そのとき――
「うわっ……!」
ハルヒコの背後には、すでにシュウとカナが立っていた。音もなく、二人は忍び寄ってきていたのだ。
「ママさんは大丈夫なの?」
「ママー。起きてー」
――待つようにって、言ったのに……。
子ども達が万が一にも危険な目にあわないようにとの思いでそう指示したのだが……。今さら、そんなことを注意したところで何の意味もないなと、ハルヒコは喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。
「あっ! ママさん……」
そんなことを思っている内に、トウコの意識が戻ってきた。
「ん……」
眉をひそめ、小さなうめきを一つあげた。
「トウコ、大丈夫か?」
トウコはうっすらと目を開け、ハルヒコ達を眺めた。そして、辺りを見回した。
「ここはどこ……? いったい、どうなったの……?」
トウコが話せることが分かり、とたんにハルヒコは安堵感でぐったりとしてしまった。ずっと気が張りつめていたのだろう。
「分からない……。子ども達と一緒に、この場所に倒れていたんだ。トウコは何か覚えていない?」
トウコは懸命に記憶をたぐっているようだった。だが、やがて首を振り、何も思い出せないと答えた。
「わたし達、テレビを観てたのよ」
カナが言った。
「そう、リビングでね。そこまでは覚えているんだけど……。その先のことがまったく思い出せないんだ。トウコはどこにいたか、思い出せる?」
トウコは少し考えて言った。
「玄関にいたと思う。片付けをしてたの……」
ハルヒコは自分達が倒れていたところに顔を向けた。リビングと玄関――最後にいたと思われる場所の違いが、この草原でのハルヒコとトウコが倒れていた場所の違いとして現れていたのだろうか。
「ママも靴をはいてないね」
カナの指摘に、トウコは自分の足を確認し、それからハルヒコ達の足元を眺めた。
「本当ね……。みんな、一緒ね……」
「やっぱり、みんな家にいたんだよ……。それが、何でこんなところに……」
話しながら、ハルヒコはズボンのポケットに手が触れて、はっと思いついた。
「みんな、ポケットの中に何か入ってない?」
ハルヒコも自分が着ている部屋着のポケットに手を突っ込んで、中を探った。
「何も入ってないよ」
「わたしもないよー」
何か役に立つものがないかという淡い期待は、あっさりと裏切られた。ハルヒコのポケットにも――もしかすると自宅から運んできたかもしれないわずかな空気をつかむばかりで――中には何も入ってはいなかった。
――家からここに来たとしたら、そりゃ何も入っているわけないか……。
ハルヒコはポケットの中でつかんだ空気でさえ、何か特別な貴重なもののように思えた。
「私もないかな……」
トウコもポケットを探って、そう言った。
「そうか……」
ハルヒコは辺りをもう一度見回した。
――さて、これからどうすべきだろうか……。
家族達は当然のように不安を抱えている。しかし、幸いにも今はみんな落ち着いている。こんな場面では一番にヒステリックになりそうなトウコでさえ、あまりにも常軌を逸したこの状況のせいか、声の一つも発せずにいる。
――あまり、この場から動くべきではないが……。
ハルヒコがそう考えたのには訳があった。とても説得力のある理由ではなかったが、それはハルヒコが昔観た一本の映画の内容があまりにも印象に残っていたからだ。
見ず知らずの男女達が、気がつけば見たこともない部屋に集められていた。部屋には四方の壁と床、そして天井にまで扉がついていて、それぞれが同じく六つの扉を持つ別の部屋へとつながっていた。つまりは複数の部屋で構成された迷路に閉じ込められていたというストーリーだ。
結論から言うと、ハルヒコがその映画から受け取った教訓は――もちろん深く考えさせられる感銘もあったが、それとは別に自戒としての文字通りの教訓は――物事の始まる場所は、その物語が終わる場所でもあるということであった。
考えてみてほしい。誰が好き好んで、危険な迷路を乗り越え、スタート地点まで登場人物を運ぼうというのか。始まりの場所は、その誰かにとって簡単にたどり着ける場所でなくてはならない。自らが危険を冒してまで実行しなければならない理由が、そこにあるというのだろうか。
ハルヒコの行動を押しとどめようとするその思いはとても強いものがあった。だが、ここで何もせず、ただいたずらに時間が過ぎていくことを待つのが正解だともやはり思えなかった。
ともかく、この斜面を上って見晴らしのきく場所に行ってみようとハルヒコは思った。
「みんな、とりあえず、あの高い所まで行ってみようか」
そう言うと、ハルヒコはトウコを引き起こした。




