第3章―9
夜景というものは、どんな場所でも、どんな国でも、そして――どんな世界でもいいものだと、ハルヒコはのんきに思った。
城の高台にあるテラスからはリュッセルの町を一望できた。電気がまだ存在していないこの世界でも、リュッセルほどの大都市ともなると油を用いた街灯が大通りに灯され、弱い灯火とはいえ深い夜闇の底にいく筋もの光の回廊を浮かび上がらせていた。
ハルヒコはマグダルに誘われ、このテラスで久方ぶりの酒を楽しんでいた。バルトももちろん一緒である。おそらく、誘われなくても付いてきただろう。
この世界でも、当然、幾種類もの酒が飲まれていた。原料も製法もさまざま。産地もさまざま。気候、風土によって、好まれる味やアルコールの強さも異なっていた。
ルアン国でよく飲まれていたのはブドウ酒であった。正確には、ブドウによく似た果物から作られた酒である。リュッセル国で好まれていたのは『アブカイ』と呼ばれる酒で、酒というよりはジュースと呼ぶ方がふさわしい。アルコール度数も低く、そして甘い。水のように何杯でもガブガブと飲み干すことのできる酒であった。実際、水代わりに飲まれることも多く、うっかり大量のアブカイを胃に流し込んでしまうと、気づいたときにはもう足腰の立たない状態になっていた、というのもよく聞く話であった。
――つくづく、人のお酒への執着ってすごいよな。
ハルヒコはウイスキーやブランデーといった蒸留酒を製造しようかと考えたことがある。だが、蒸留酒はこの世界にすでに山のように存在していることを知り、人のアルコールに対するあくなき欲求――つまり、より酔っ払いたいという思い――の強さは、国境どころか世界の壁を越えて共通なんだなと痛感した覚えがある。もちろん度数を高めて長期の保存を可能にするという目的もあっただろうが、ハルヒコにはなんだかそれは後付けの理由のように思えて仕方なかった。
「シュウとシドはクイール王子に失礼をはたらいていないでしょうか?」
子ども達はクイール王子と一緒に、城の各所を探検しに出かけていた。マグダルは最初から城に泊める算段で、ハルヒコ達に部屋を用意してくれていたのだ。
「心配せんでもよい。王子は些細なことなど気にせんお方じゃ。お父上のクロム王に似て、他人のことを本当に気にかけてやれる優しさを持っとる」
ハルヒコは思い当たる節があった。
「それは分かります。私達が城で暮らしていたとき、いろいろと気にかけてくれていたようで。特にシュウはたいへんお世話になりました」
ハルヒコ達家族がまだこの世界の言葉もたどたどしい頃、シュウに友達ができた。意思疎通を上手くはかれないシュウを、その友達は理解できるまで根気よく付き合ってくれた。いろいろな言葉を教えてくれたのもその友達だった。
ハルヒコは最初、その子が城の使用人の子どもだと思っていた。清潔ではあったが華美な服装ではなかったし、なによりも誰とでもすぐに打ち解けることのできる親密さ、気軽さを自然と感じさせる子だった。それが、この国の次期国王の座を約束された、ただ一人の人物――クイール王子だったのだ。
マグダルからハルヒコ達を異世界から来た者達と聞いてはいただろう。それゆえ、興味を持って近づいてきたのかもしれない。だが、そんなきっかけを差し引いたとしても、クロム王と共にクイール王子はハルヒコの家族に少なからぬ心遣いをしてくれていたのである。
「今日は本当にクイール王子にはお世話になりました。あと、アイス団長にも突然のことでご迷惑をおかけしたかもしれませんね」
「わしも気が動転しておって思わずアイスを呼びつけたが、奴は不満などこぼしてはいなかったじゃろう。そういう奴じゃ。この国で信頼に足りる数少ない人間の一人じゃよ」
――数少ないか……。
ハルヒコは大防壁の上でアイスと交わした会話を思い出した。
「そう言えば、数年前にこの国にも戦争があったと聞きましたが……」
マグダルは長いため息をついた。溜まった鬱憤を呼気と共に吐き出しているかのようだった。
「アイスにも辛い思いをさせてしまった……」
マグダルのその言葉に、ハルヒコは思い当たる節があった。大防壁の上で、アイスが草原の彼方を見つめていたときの、あの何か憂えるような眼差し。
「奴はその戦争で多くの部下を失ったんじゃ……」
パズルのピースが残らずにはまったときのように、ハルヒコは綺麗にすべてが納得できたような気がした。
「アイスという男は、見た目によらず人一倍優しい男での。部下とその家族達のことをいつも気にかけておった。わしも奴の若い頃をよく知っとるが、本当にこやつに兵士が務まるのかと心配するくらい、心根の優しい奴じゃった。踏み潰した花のことにまで心を痛めとったのう」
大防壁の上で見せたアイスの笑顔をハルヒコは忘れられない。普段の姿はつくられたものだと、一瞬で見抜けてしまえるような、そんな笑顔だった。
ハルヒコの経験から言って、こんな表情ができる人間は他人への優しさにあふれている。自分のことを差し置いてでも、誰かの幸せを願ってしまう。
「戦場でも、自分の命を顧みず仲間を助けようとしておった。それに、やはり持って生まれた才能かのう――めきめきと剣技や弓の腕も上達し、我が国で武芸において奴に並ぶ者はいなくなった。ただ――それだけで今の騎士団の団長になれたわけではない。武芸より秀でたものを奴は持っておったのじゃ。リーダーとしての資質がの」
マグダルはそこで一息つくように、いったん言葉を休めた。ハルヒコもマグダルがそこで話を途切らせる気持ちが痛いほど分かった。
――こんなに不幸なことはない……。
優しい人間が、心を殺して、敵の命を奪ってこいと命令しなければならない。心を殺して、仲間に死んできてくれと号令をかけないといけない。
「アイスあっての騎士団ではあるが……。わしは今でも思うよ。あやつは武芸の道にではなく、学問の道に進むべきではなかったのかと」
――アイスさんなら、文官になっても活躍されるだろう。
いや、むしろアイスさんにとっては、そっちの方がいいのかもしれない……。
マグダルの後継者――その言葉が、ハルヒコの脳裏にアイスの姿と重なって浮かんだ。
「騎士団の長についてから、アイスは別人のように変わってしまった。感情を表に出さなくなった。自分の胸の内も他人に悟られぬようになっていった」
マグダルはもう一度繰り返した。
「奴は多くの部下を、あの戦争で失った……」
あらためてマグダルのその言葉を聞き、ハルヒコはそこに特別な事情が含まれていることに気がついた。
「その戦争で何かがあったのですか?」
マグダルは一瞬ためらった後、言葉を選ぶように口を開いた。
「ウラギオス国とは同盟関係であることはもう聞いておるな?」
「はい。大防壁の上で王子よりうかがいました」
「四年前、我が国とウラギオス国の軍隊で帝国の侵攻を打ち破った。だが、これは今に始まったことではない。百年以上前から、我が国とウラギオス国は協力し、帝国の侵略を阻止してきたのだ」
ハルヒコは、大防壁で感じた焦燥が、あらためて自分の胸の内に湧き出てくるのを感じた。
――この脅威は、今までも……。そして、これからも……。
続く――。
定期的に――と、誰かがハルヒコの耳元で囁いた。
「協力して帝国を阻むのは、ウラギオス国と我が国の双方に利があるからじゃ。帝国に近いウラギオス国にとっては、もちろん自国を守るための兵が増えることに異論はあるまい。我が国にとっても、直接攻め入られる前の段階で帝国を阻むことができるのじゃから、同盟を拒む理由など何もない。現に大防壁まで進行されたことなど今まで一度たりともないのじゃから」
――でも、四年前の戦争はいつもとは違った……?
小さな沈黙がまたもやその場に落ちた。マグダルはさらに慎重に言葉を選ぼうとしているようだった。
「その戦争からさかのぼること数年前、ウラギオス国にウラームス王が即位した。今もその治世は続いておる」
ハルヒコは、潤っているはずの口の中が、やけに乾いてきているような感覚におそわれた。唾液が粘っこくなり、上手く喉を流れていってくれないもどかしさを覚えた。
「アイスの部隊はウラギオス国の指揮下におかれた。それは今までになかったことじゃ。両国はあくまでも対等の立場。軍を動かすのも、互いの協議を経てその役割を決め、それぞれの国が自軍を動かしておった。それを――」
マグダルもアイスが見た同じ光景を見ているかのように、声は震え、もう言葉など選んではいなかった。
「あの王は……帝国の進軍が思いのほか早いなどとうそぶきおって、現場のアイスらを有無を言わせず自国の軍に組み入れていったのだ。その事実がわしの耳に届くには遅すぎたし、現場のアイスらにそれを拒むことなどできなかったのじゃ。両国の関係を壊してしまうような判断をまだ一兵卒であった奴らができるはずもなかろう。それまで両国にあった信頼関係を、あの王は逆手にとったのじゃ!」
もうその先は聞かずともハルヒコには分かった。それから何が起こったのかを。
マグダルと同じように、アイスの見た光景が目に浮かぶ。
無謀にも敵の主力に突撃させられていく兵士達。騎兵の利も活かせず、沼地に足を取られ、大地にはいつくばって空をあおぐ兵士達。アイスの目前で、部下達は華も誉れもなく無惨に散っていった。
「アイスはそのときのことを多くは語らん。だが……そこからかもしれん。誰かに言われるでもなく、自らの意思で軍の指揮をとる立場になろうと動き出したのは」
ハルヒコは、いたたまれない気持ちになった。
――それは、あの人にとっては、みずから地獄に足を踏み入れたようなものじゃないか……。
大防壁で見せたアイスのあの眼差しには、ハルヒコの想像を超えた悲しみと――そして自らの心を殺してまで誓った、並々ならぬ決意が込められていた。その事実を今さらながらに知ったハルヒコは、深く自身を恥いった。
――あの人は、家族や村の仲間達を助けたいと言った自分に――そんなささやかな思いしか抱けない自分に、敬意を表すると言ってくれた……。
どうしたら、あんなに人は強くなれるんだろう。
ハルヒコは答えの見つからない問いかけを、呪文を唱えるように、ただただ繰り返すばかりしかなかった。
「ハルヒコよ。そのハサルという者のことだが……」
ひとしきり重い沈鬱した空気が流れた後、その場の雰囲気を変えようと、マグダルが今日のハルヒコ達の取り引きはどうだったのかと尋ねてきた。
ハルヒコは隠すことなくハサルとの出会いとその人となりをマグダルに語った。
だが、ハサルの名を聞いた瞬間、マグダルが微かに眉をひそめたのをハルヒコは見逃さなかった。
次の瞬間、マグダルの口をついて出たのが、その言葉だったのだ。
「マグダル様から見て、ハサル殿はどのような方なのでしょうか?」
マグダルが語る前に、ハルヒコはそう尋ねていた。
「やり手じゃよ――並々ならぬな。父親もこの町の商工会で五人衆を務めておったが、息子のハサルも、今現在、その五人衆の座についておる」
聞くまでもなく、五人衆というのは商工会の重鎮達を指すのだろう。あの若さでと、ハルヒコは感心すると同時に、昼間の感極まった様子のハサルを思い返していた。
――気苦労も絶えないんだろう。
「若いのに大したもんですね。やっぱり、父親の座を継いだってことですか?」
バルトがハルヒコの思っていたことを代弁してくれた。
「いいや。ハサルは父親の座など継いではおらんよ。あやつは自分の力だけで、五人衆の座を手に入れたんじゃ。実力でな――」
だから空恐ろしいのじゃと、マグダルの声にならない叫びが聞こえたような気がした。
「五人衆になるためには、多くの推薦票が必要になる。奴は若い商人を中心に票を集めおった。彼らの『信頼』だけをもってしてな――」
ハルヒコは違和感を覚えた。それのどこに特筆すべき何かがあるのだろうかと。当然のことではないのかと、マグダルの抱いている危惧のようなものを訝しまずにはいられなかった。
「それはまた、とんでもないことですね……」
バルトがマグダルに同調した。ハルヒコは自分一人だけが取り残されていることを実感せざるをえなかった。だが、いったい何が間違っているというのだろう。
「すみません。私にはよく分からないのですが、ハサルさんの何がそんなにとんでもないことなんでしょうか?」
マグダルは、ハルヒコの浮かべた素直な疑問の表情をまじまじと見た。それから「ふむ」と納得したように髭をいじった。
「ハルヒコよ、こっちの世界ではの、票というものは金で買うものなんじゃよ。票を入れてもらう側も、票を入れる側も、それが当たり前のことだと思っておる。いや、思っておるというよりも、それが昔からの決まりだと信じておるのじゃ。だからこそ、信頼だけで五人衆の座についたハサルは……」
――恐ろしいのじゃ……。
と、またもマグダルの声にならない叫び――いや、呻きが聞こえてくるようだった。
――ただものではないとは感じていたが……。
そう思ったとき、ハルヒコは、はたと気づいたことがあった。
――そうか。ハサルさんとは、何か気が合うところがあるように感じていたけど……。
それは自分と同じように物事を考えている――元いた世界の人達と同じような感覚を持っている人だったからなんだと、ハルヒコはひどく腑に落ちた気がした。
「ハルヒコよ。ハサルとは、取り引きのこと以外にどんな話をしたのだ?」
「そうですね……。元いた世界のことを話したりしました。ハサルさんもすごく興味深く聞いてくれていました」
「私も聞いていて、おもしろかったですね。前から、村長には元いた世界のことをいろいろと聞かせてはもらっていましたが、初めて聞く内容もあって――。住む世界が違えば、こんなにも考え方や生き方が違うのかと、驚くことばかりでした」
バルトはほんのりと赤みがかった顔で、上機嫌にそう合いの手を入れてきた。
「そうか……」
一方、マグダルは神妙な面持ちで何かを考えているようだった。
ハルヒコはハサルとの出会いを僥倖のように感じていた。だから、マグダルも同じように、この偶然の巡り合わせを一緒になって喜んでくれるものと勝手に思い込んでいた。マグダルもハサルのことをやり手だと言っていたではないか。これほどまでにマグダルが気掛かりを覚える理由を、ハルヒコは検討もつかなかったのである。
「ハルヒコよ……」
マグダルが重い口を開いた。
「頼みがあるのじゃ……。願わくば、そのハサルとは……」
マグダルは息苦しそうに、一つ一つの言葉を選び、しぼり出しているかのようであった。
「もちろん、取り引きを続けていくのは一向に構わん。商売をする相手としては、ハサルをおいて他にはおらんじゃろう……」
マグダルも実力者としてのハサルを認めている。
「だが、そこまでじゃ……。そこより先は……」
ハルヒコはようやく気づいた。人の自由と幸せを何より大事に考えるマグダルが、ハルヒコに命じているのだ。
――自分の心を押し殺して……。
「頼むから……」
マグダルはもう一度、その言葉を繰り返した。
「ハサルとは、それより先、もっと深くは関わらないでほしいんじゃ……」
マグダルの表情は辛そうだった。
「わしには、この国を守る義務がある……」
ハルヒコがこの世界の言葉をようやく喋れるようになった頃、マグダルに元いた世界のことを説明したことがある。マグダルはまるで子どものように、時間を忘れるほどに夢中になって話を聞いてくれた。
そして、こう言ったのだ。
『まるで桃源郷のような世界じゃな』と。
ハサルもまた、ハルヒコとの会話の断片から同じように感じてくれたのかもしれない。
マグダルとハサルは似ている。
古いものに固執せず、新しき理想を追い求めていこうとする姿。
だが、二人の決定的な違いは、自分達が置かれているその立場にあった。
古い因習などに囚われず――しかし、その古きものを守っていかなければならない、心の矛盾に束縛された、強大な権力者。
カビの生えた過去を戸惑いもなく一刀両断に切り捨て――新しき理想の世界に邁進する、夢大き若き実力者。
二人が見ている夢の先は同じであるかもしれない。だが、やがて、その二人が衝突することも避けようのない必然に思われた。
――マグダル様は、私達を守ろうとしている。
おそらく、ハサルは革新的な者として国から目をつけられているのだろう。
――革新的というのは、見方を変えれば危険だということだ。
「分かりました。お心遣い、感謝します……」
その言葉を聞いて、マグダルは心底ほっとしたように、笑顔をようやく取り戻していた。
「すまんのう……。本当にすまんのう……」
――マグダル様は、どうしてここまで自分達のことを心配してくださるのだろう?
まるで……。
ハルヒコは、その続きを言葉にすることをためらった。勝手な思い込みかもしれない。
――でも、もしそう思ってくれているとしたら……。
嬉しいなと思った。素直にそう思った。
元の世界にいたときから、それはハルヒコが心のどこかで渇望していたもの――叶うはずのない望みでもあったからだ。
だが、一方でそれは傲慢な思いのようにも感じていた。だから、言葉で表すことがハルヒコには許せなかったのである。
元より、ハルヒコには政治的な思惑があるわけではない。この世界のみならず、元の世界でも、意識して政治に積極的に関わっていくようなことはしなかった。
――自分には、過ぎた代物だ。扱うには、荷が重すぎる。
目の前にある小さな課題をこつこつと改善していく――それが、今の自分のなすべきことだ。あらためて、ハルヒコはそう決意した。
だが、世界は、たった一人の小さな思いなど気にかけるはずもない。
歴史が大きく揺れ動く前夜は――そうと気づかれることなく、粛々とその色を濃くしていったのである……。




