第3章―5
「他の店では、いかほどの買値を提示されましたか?」
ハルヒコとバルトは顔を見合わせた。どう答えるべきなのか、逡巡しているようだった。
二人がなかなか答えることができずにいると、ハサルは助け舟を出すかのように、紙切れにいくつかの数字を書きつらねていった。
「だいたい、これぐらいの金額ではありませんでしたか?」
ハルヒコとバルトはその紙切れをのぞき込むと、ふたたび顔を見合わせうなずいた。
ハサルは笑いながら言った。
「あなた方はたいへん正直者だ。だが、ときとして、正直すぎるのは愚かさと紙一重ではある」
「――なにをっ!」
その言葉を聞くや、バルトは今にも殴りかからんとする勢いで、ハサルを睨みつけた。
一方、ハルヒコはその横で感嘆の表情を浮かべていた。ハサルの挑発ともとれる今の言葉を聞いて、交渉をする相手はこの男をおいて他にないと確信した瞬間であった。
ハルヒコは気色ばむバルトの前に体を割りこませ、ハサルに面と向かって対峙した。
「まったく、おっしゃる通りです。でも、私達はすぐには変われません。ハサルさんはどうすればよいとお考えになりますか?」
ハサルはしばし考える様子を見せた。
「あなた方に交渉は向いていない。今からその交渉の術を学ぼうとしても、もう遅いでしょう。なにより人が良すぎる。ときには自分の心にも嘘をつけるように――冷徹になれないといけない」
「交渉に向いてないとなると――」
ハルヒコはハサルに続きをうながした。
「信頼のおける――信用に足りる相手を見つけることでしょうね」
ハサルはやや自嘲気味に笑った。
「それがあなたであるということですか?」
ハルヒコも、にやっと笑った。
「それを決めるのは私ではありません。自分は信頼できる人間だと、自分から名乗ってしまえるほど、私は愚かでもないし――恥知らずでもない」
「なるほど。それを決めるのは相手の側だということですね。逆に私達のことも、あなたに信用してもらわなければならない。互いに信じあえるようになるためには、いったい何をすればいいんでしょう?」
ハサルはハルヒコをじっと見た。
「あなたは何をすべきだと思いますか?」
ハサルは静かに問い返してきた。
ハルヒコはあごに手を当てながら、あれこれ考えているようだった。だが、突如はっと思い出したかのように口を開いた。
「ああ、そうだ。私達の名をまだお伝えしてなかったですね。こちらこそ、とんだ非礼をお詫びします。私の名はハルヒコと申します。こちらはバルト。後ろの二人は私の息子とバルトの連れで、シュウとシドと言います」
ハルヒコの背後にひかえていた三人の内、バルトだけはまだ怒気を浮かべたままであったが、子ども達は人懐っこい笑顔でお辞儀をした。
ハサルもにこやかに会釈を返した。
「先ほどの私達が何をしなければならないかというご質問への回答ですが――」
ハサルはハルヒコが次に語る言葉に注意を向けた。
「まずは、お互いのことを知ることから始めませんか?」
ハサルはなるほどと得心したようにうなずいた。
「それでは、立ち話も何ですので、お茶のご用意をいたしましょう」
もはや交渉などという段階は一足飛びに越えてしまった感があった。このとき、ハルヒコはすでに、あたかも知己の友人と語らうような気分になっていたのだ。
客人をもてなす部屋は、品のいい家具が配され、あまり華美ではない調度品がさりげなく飾られていた。一言で言うならば、嫌味のない――好感の持てる部屋であった。
バルトもひどく感心しているようだった。座った椅子の肘掛けを何度もさすり、ふうむと一人納得している。ハルヒコは思わず吹き出してしまいそうになるのを必死に堪えていた。
ハルヒコもバルトにならって肘掛けをさすってみた。滑るようになめらかな表面であることだけは理解できたが、いったいどこに、バルトがそれほど感心する理由があるのかは皆目、見当もつかなかった。特筆すべき何かを見出すことができないほどに――それはいたって自然に――肘掛けとしての機能を全うしていたのだ。
「バルトさん。この椅子はそんなに感心するような品なんですか。私には座り心地のいい普通の椅子のようにしか思えないんですが」
バルトははっとして照れ笑いを浮かべた。それほど夢中になっていたのだろう。
「お恥ずかしい。この椅子もそうですが、この部屋に置かれている家具の仕上げに感心していたのです。見た目は派手ではありませんが、これらはなかなかの品ですよ。使っている素材もそこいらで普通に手に入るようなものじゃない」
ハルヒコはそういうものなのかと、あらためて椅子に深く腰掛け、肘掛けに腕を乗せてみた。
――うーん……。普通だよな……。
「私にはやっぱりよく分からないですね。すごくゆったりと自然な感じで座れるのは分かるんですが」
「その自然というのが普通ではないんですよ。表面の仕上げも素晴らしいですが、肘を下ろしたときに何の違和感もない。どこにも力を入れないで、安心して体を預けられる。この自然であるということがどれほど難しいことか。この部屋の家具はすべて、使用する者のことを第一に考えて作られています」
ハルヒコはもう一度部屋を見渡した。バルトが感嘆している家具の造りがどうとかいうのはやはり理解できなかったが、この部屋を見れば、この家の主人の人となりをうかがい知れるような気がした。
「くつろいでくれていますか?」
ハサルは飲み物を載せたお盆を手にして部屋に戻ってきた。そして、柔らかい物腰で自らテーブルの上にカップを置き、豊かに香り立つ紅茶を注いでいった。
――主人みずから、お茶を準備してくれるのか。
最初この店を見たとき、他の店舗と大差ない外観で、何かを期待することもなく、それゆえ肩肘張らずに自然と足を踏み入れることができた。そして、頼りなさそうな若い店主ゆえに、話しかけることになんの躊躇いも覚えなかった。
――それは、みんなを騙すためなんだろう。
大いに侮ってもらおうと、したたかさを隠し持って……。
この部屋と今のハサルの所作を見れば分かる。上辺など気にしない。どうとでも思うがいい。そんな声が聞こえてきそうだ。彼は本質を大切にしている。その価値観と思想をもって、自分自身を厳しく律している。そして、相手にもそれを要求している――。
「パパさん。すごくいい香りの紅茶だね」
「わたし、赤いお茶なんて初めて飲むわ」
庶民にとってお茶といえば、野に生えているアクリアのような香草を湯に浸したハーブティーが一般的だった。こちらの世界にも紅茶はあったが、まだまだ高価で貴族階級が嗜むような代物だったのだ。
「この茶葉も一級品の物です。リュッセルの町で取り扱っているのは私の店だけです」
ハルヒコは紅茶を一口すすった。元の世界のものとは微妙に違っていたが、懐かしい香りと味が口の中いっぱいに広がっていった。
「紅茶なんて、こっちの世界に来て初めて飲むね」
「ああ、本当に懐かしいよなあ」
ハサルは二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
「こんな貴重な品をありがとうございます。でも、私達なんかに振る舞ってもよいような品なんですか?」
「振る舞うべき方達だから振る舞っているのです。そんなにご自分達を卑下なさらないでください。特にハルヒコ殿は、そこまで謙虚さを演じると、いささか――こう言ってはなんですが、嫌味を感じさせるきらいがありますね」
ハルヒコは、ああそうかもしれないなと、素直にその言葉を受け取った。
「おっしゃる通りかもしれません。ただ、こちらの国に来てまだ一年も経っていないので、不慣れな土地で生活していくために、努めてそのように振る舞っていたのかもしれません。演じていると言われれば、確かにそうかもしれませんね」
「ハルヒコ殿。もしかして、あなたは――」
自分でも思ってもみなかった言葉が、ハサルの口をついて出た。平静を装ってはいたものの、ある噂のことを思い出して――そして確信に至って――尋ねずにはいられなくなったのだ。我ながら、まだまだ甘いなと苦笑しつつも。
「あなたは、もしやマグダル様が保護されたという、異世界から来られた方々なのですか?」
ハルヒコはバルトと顔を見合わせた。正直に話すべきかと目で問いかけてみたものの、バルトはさあと首を傾げるばかりだった。
――別に村のみんなや城の人達も知ってることだし……。
マグダル様もこのことを黙っておくべきだとはおっしゃってなかった。
「どこからその話が伝わったのかは知りませんが、確かに私とそこにいる息子のシュウは違う世界から来ました。そんなに噂になっているんですか?」
「いえいえ。一般の人々にはまったくといっていいほど広まっておりません。これは私の情報網に入ってきた確証のない――ただの噂だったのです」
ハサルは子どものように目をキラキラと輝かせ、隠すことなく好奇の眼差しをハルヒコ達に向けていた。
――ころころと表情が変わる人だ。
だが、今、目の前にいるハサルこそが、彼の本当の姿であるようにハルヒコには思われた。何かを演じているふうでもなく、先ほどまで背負っていた気負いのようなものを、今はみじんも感じさせていない。
「ぜひ、ハルヒコ殿が暮らしていた世界のお話を聞かせてください。ああ、そうだ。お菓子も準備しなくては――」
お菓子という言葉を耳にして、シュウとシドは顔の筋肉が緩んでいくのを我慢できなかった。
「とてもおもしろいお話を、ありがとうございました」
「こちらこそ、ためになる話をいろいろ聞かせてもらって――。このリュッセルの町のことや商工会の仕組みなんかがよく理解できました」
ハルヒコは、自分達が暮らしていた世界の話、そしてこの世界に来てからの話をした。一方、ハサルは、親からこの家業を引き継いだばかりであること、そしてその家業をもっと磐石なものとしていくことが今の目標であることを熱く語った。
ハサルは言った。『こんなところでは終わらせませんよ』と。
時間が経つのも忘れ話し続けてきたが、最初に音を上げたのはシュウとシドだった。とろんとした目で、大きなあくびを遠慮なくしてみせたのだった。
「もっと、お話をしていたいのですが、長くお引きとめするのも申し訳ありません。そろそろ本題に入りましょう」
直ちにハルヒコの顔も緊張した面持ちへと戻っていった。ここまでいい雰囲気でお互いの身上を語り合うことができた。正直、彼とは馬が合うとハルヒコは感じている。だが、商売のことに関しては、たとえ友人のような関係だからといって甘えは許されない。ハルヒコのような素人でさえ、そう考えているのだ。やり手の商売人なら、なおさら割り切った交渉を持ちかけてくるに違いない。
ハルヒコはハサルが提示してくる厳しい条件を覚悟した。だが、ここまでに交渉した店と同じような額を提示されれば、ハルヒコはすぐにでもハサルと取引きをしようと心に決めていた。
――長く付き合うのに、この人は間違いなくメリットのある方だ。
「時間も押していますので、駆け引きなしで結論を述べさせてもらいます」
その言葉にシュウやシドの眠気も吹き飛んだようだった。ハルヒコとバルトは緊張の面持ちで次の言葉を待った。
「他の店が提示した買値の三割増しで、すべて買い取らせてもらいます」
ハルヒコとバルトは呆気に取られたように、ぽかんとした表情を浮かべた。ハサルは二人の反応を見て満足そうに、にやっと笑った。だが、ハルヒコが思わず口にした次の言葉には、バルトのみならずハサルでさえ思わず絶句せずにはいられなかった。
「いくらなんでも、その値段は高すぎるのでは……。もう少し安くても、こちらは大丈夫ですよ――」
バルトは信じられないといった表情でハルヒコに何かを言おうとしたが、その前に部屋に響き渡るハサルの笑い声にさえぎられた。
「はっはっは! ハルヒコ殿。こちらとしてはありがたい申し出ですが――お断りします。先ほど提示した額で不服なら、取引きはなしということにしてください」
「いや、こちらとしてもすごくありがたい――ありがたすぎるお話なので、本当にいいのかなと心配してしまって……。ハサルさんは本当にそれで大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。それだけの価値があのタバコの葉にあったということです。価値に見合った対価をお支払いするのは当然のことでしょう」
ハルヒコは、この言葉をヤンガスが聞いたらどんなに喜ぶだろうかと想像した。と同時に、親しくなったからといって、ハサルという男がこんなに甘い条件を提示するはずがないとも思った。
「ハサルさん。見当違いなら申し訳ありませんが、取引きの条件はきっとそれだけではないですよね。私達には隠さず、すべて話してくれると信じてますが……」
ハサルはまたハルヒコを軽く値踏みするような目をした。ふうむと考えをめぐらしているようだった。
「ご明察の通りです。条件はまだあります」
金額はもう確定している。ハサルの方から、もうこれ以上ないくらいの条件が提示されたばかりだ。
「条件はあと二つあります。一つ目は、次年度以降も継続して私どもと取り引きをしてもらうということです」
これも願ったり叶ったりの条件だった。ハルヒコはちらっとバルトをうかがってから答えた。
「それはぜひ、こちらからもお願いします。むしろ、ありがたいお話で感謝したいくらいです」
ハサルは苦笑しながら言った。
「ハルヒコ殿は、やはり商売には向いてませんね。こんなにあっさりと相手の提示した条件を飲み込むなんて。どんなにいい条件を提示されても、少なくとも表情には出さずに、少し間を置いて相手にも気をもませなければいけない」
ハルヒコはシュウに振り向いて尋ねた。
「パパさん、嬉しそうな顔してた?」
「今も、すっごくにやにやしてるよ」
ハルヒコは今の自分の表情を確かめるように、顔を隅々まで手でまさぐった。
「私はもうあなた方を友人だと思っている。その友人が、商売にうとくて誰かに騙されるようなことにはなってほしくない。だから、商売のことは――私を信じて任せてもらえませんか」
ハルヒコは、変な話、ハサルを信じて騙されるのなら、それも悪くないかなと思った。人を疑うより、人を信じる方がいい――。それは見方によっては気が楽だということでもあるが……。ハサルに騙されるのなら、それは見抜けなかった自分の責任だ。自分の責任なら自身で償っていくことができる。それがハルヒコの考え方だった。
「もちろん、取り引きごとに他の店で買値を確かめてもらって結構です。そちらの方が高い金額を提示されたなら、こちらもその都度考慮させていただきます。それと……」
ハサルにしては珍しく、何かを言い淀んでいるような歯切れの悪い様子だった。
「誤解してほしくないのですが……。ハルヒコ殿がマグダル様と懇意であるから、との理由で好意を示しているわけではないということを――。私はそのような権威にかしずく人間ではありません。あなた方の人となりを見て、そして持ち込まれた確かな品を見て、私はあなた方を信用することに決めたのです」
それまで黙っていたバルトが唐突に口を開いた。
「村長。俺はこのハサルさんを信じていいと思いますぜ。こんな男気のある人間はそうそういやしねえ」
――バルトさん……。
あなたも私と同じで、きっと騙されやすい人なんだろうな……。
「ハサルさん。そこまで言っていただけると本望です。この申し出、ありがたく受けさせてもらいます」
ハサルはにこやかに笑った。
「こちらこそ――と言いたいところですが、ハルヒコ殿、決断がまだまだ早すぎます。私はもう一つ条件があると言いましたよね」
ハルヒコは、あっという顔をして照れ笑いを浮かべた。
「逆にこちらから尋ねてみたいのですが、二つ目の条件というのは何だと思いますか?」
ハサルにとってはお遊びのような質問だったのだろうが、負けず嫌いのハルヒコのことである――言い当ててやろうと真剣に考えを巡らしている様子がありありと見てとれた。
――もう、そんなに時間はないんだがな……。
いつものように何かを考え始めると時間が止まってしまうハルヒコを、バルトは呆れるように眺めていた。
――ハサルさんはさっきまでの会話の中で何を語っていただろうか……。
ヒントを探るように記憶の糸をたぐり寄せる。ハサルはいったい何を繰り返し強調していただろうか。
『私は一級品にしか興味はありません。安物を取り扱って、その場しのぎの小銭を稼ぐような人間にはなりたくない』
ハルヒコは自分がハサルの立場にいるなら、どんなことを望むのか――どんなことをしたいと考えるのか、想像を膨らませた。
「まったく見当違いかもしれませんが、私がハサルさんなら――」
ハサルだけでなく周りのみんなも、いったいどんな答えが出てくるのかと、期待に満ちた表情でハルヒコの次の言葉を待ち構えた。
「タバコのような商品価値の高い他の作物を提案して、村で栽培してもらいます。ヤンガスという適任者もいますしね」
ハサルは満足そうに手を叩いた。自分の目に間違いはなかったと、確信めいた眼差しを嬉しそうにハルヒコに向けていた。
「まったくその通りです。私が提示しようとしていた条件と寸分の違いもありません」
そのとき、なぜかハサルは感極まったように言葉をつまらせた。微かに目を潤ませているようにさえ見えた。
「付け加えて説明させてください」
ハサルは続けた。
「この世界で土地は王族や貴族のものです。もし私がそのような作物の栽培を持ちかけるなら地方領主ということになるでしょう。しかし、彼らにはそこで採れる品などに興味はありません。彼らに関心があるのは見返りだけです。金銭だけが彼らの矜持を満足させる」
ハサルはなぜこんなに苦しそうにしているのかと、ハルヒコもつられるように胸が締めつけられた。
「彼らはその先を決して見ることはない……盲目です。もっと広い視野で世界を眺めることもできるだろうに……」
言葉には表さなかったが、ここまでに口惜しい経験を何度もしてきたのだろう。その数々が今のハサルの脳裏をよぎっているのかもしれない――そういう沈黙がしばし部屋に訪れた。
「そこにあなた方が現れた」
すがるような表情だった。それが仮面を外したハサルの本当の顔かと、ハルヒコは共感を覚えずにはいられなかった。
「やがて、ハルヒコ殿は貴族階級に列されることになるかもしれない。それでも、あなたならきっとその柔軟な価値観を持ち続けてくれるに違いない。他者を思いやる心を失ったりしない。……そう信じたい」
ここにいたって、ようやくハルヒコは納得できた。ハサルのこと、そして彼と自分達との関係のことを。
「ハサルさん。あなたのことをようやく理解できたような気がします。あなたが本当に求めているのは――」
ハサルは不安と期待が入り混じった表情で、ハルヒコの次の言葉を待った。
「求めているのは――人、なのですね。あなたは人と人の繋がりを大切にする。なによりも、人そのものを大切にする――」
ハサルは救われたように微笑んだ。




