第3章―4
驚愕を覚えたのは、それが東西に連なる山脈ではなかったことだ。
はるか南方に霞んでそびえる――壁のように見えていたもの、それは本当に壁そのものだったのだ。
山脈と見紛う城壁……。それは首都リュッセルを南方の脅威より何百年にもわたり守ってきた『北方の大防壁』であった。
――ちょっとこれはすごいんじゃないか……。
リュッセルの町が近づくにつれ、その思いはますます強くなっていった。
ハルヒコがそのとき抱いた感想は――決して適切な表現とは言い難かったが――コンピュータグラフィックスで人の想像をはるかに越えた圧倒的な情景を映しだす、まるで映画やゲームの世界のような光景だなというものであった。
「パパさん。なんだか、あの壁の向こうから、巨人の手と顔が突然にょきっと出てきそうだね!」
ハルヒコはただ苦笑するしかなかった。
『北方の大防壁』にばかり気を取られていたが、リュッセルに近づくにつれ町の規模も予想をくつがえす大きさであることを知る。ハルヒコはあらためて自分が異世界に迷いこんだことを実感せざるをえなかった。
――エオラの町の比じゃないな……。
荷馬車は町の西に設けられた城壁の門をくぐった。大防壁に比べるべくもない通常の城壁であったが、それでも建物でいえば三階建てぐらいに相当する高さがある。堀の幅はちょうどハルヒコ達が乗っている荷馬車の全長ほどで、ちょっとした川のようでもあった。
「検問を受けなかったですね」
「こちら側の往来は比較的自由なようですね。町に入るだけだからでしょうか」
馬車がゆとりをもってすれ違える城壁の門は開け放たれ、衛兵も数名は立ってはいたが馬車や人の流れを止めるような素振りは見せなかった。
「すごいな。道路が全部、石で舗装されている……。あそこは何だろう。きれいな彫刻が彫ってある。何か特別な名所なのかな……」
町の中心へと進むにしたがい、民家とはあきらかに異なる建物が散見されるようになってきた。それらは見るからに堅牢な造りになっており、豪華なレリーフが随所に施されていた。おそらく国の施設なのだろう。だが、その周りに建っているただの民家でさえも、すべて石やレンガでできた二階建てで、村と比べること自体が間違っているとは知りつつも、ハルヒコはどこか悔しさを覚えずにはいられなかった。
「あれは一般の人が利用するただの集会所だと思います。これほど整備されて、町の美しさが維持されているのは、長い間、他国から侵略されることもなく、ずっと平和が続いているからでしょう」
昨日のバルトとの会話から垣間見える他国の実情を考えると、このルアンの国がいかに平穏で豊かであるかをあらためて思い知らされるのだった。
――王様や政治を行う人達が変わるだけで、こんなにも国は豊かにも貧しくにもなる。
それは、とても『危ういシステム』だなと、ハルヒコは思わずにはいられなかった。
馬車を進ませているうちに、周囲はだんだんと賑やかになっていった。人々の往来も増え、常に馬車とすれ違うようになった。気がつけば、馬車が四台は並んで行き来できる大通りをハルヒコ達は進んでいた。
行き交う荷馬車には身の危険を覚えるほどの荷が重ねて積まれていた。それに比べて……と、ハルヒコは後ろの荷台を振り返った。
――村を出発するときは、こんなにたくさんの荷物を積んで大丈夫だろうかって心配するぐらいだったのに……。
自分達の荷はたったこれだけか……。それに自分達の荷馬車のなんとみすぼらしいことか……。
リュッセルの整備された美しい街並みを見せつけられ、ハルヒコは何か打ちのめされた気分になっていた。落ち込まずにはいられなかった。
はあ……と小さなため息をつく。バルトが気にかけるように声をかけてきた。
「どうかしましたか、村長?」
ハルヒコは自嘲気味に口を開いた。
「村もずいぶん落ち着いてきて、他の村と比べてもそれなりに上手くやっているのかなって思ってたんですが……。勘違いしてました。このリュッセルの町を見たら、私達の村なんてまだまだですよね」
あきらかに比べるものが間違っているだろうと、バルトの表情は驚きを飛び越え、あきれているようであった。
「村長、そりゃ、このリュッセルの町を見て圧倒されるのは分かりますが……。見誤らないでください」
……見誤る?
「大事なのは、村のみんなが幸せに暮らせることでしょう。こんな町に住めたからって、それで誰もが幸せになれるっていうんですか?」
――豊かになれば、みんな幸せになれるんじゃないのか……。
「まだまだ足りないものがあるのは間違いないですが、そんなのはこれから少しずつ補っていけばいいんです。村長が来て、井戸も増えた、文字も計算も教えてもらえる、灯りや薬の心配もしないですむようになった。村長は、村のみんなの表情が変わったのを気づいてないんですか。みんな、よく笑うようになった。それが間違っているとは私には思えませんがね」
――やってることが間違っているとは思わない……。
でも、だとしたら、この焦る気持ちはいったい何だろう?
「村長は負けず嫌いなんですよ」
ハルヒコは、はっとした。
バルトの指摘は正鵠を射ていた。
「バルトさんの言う通りです。自分でもなんで突然こんな気持ちになったんだろうって不思議だったんですが、それは村のためじゃなかったんですね……。ただ単に自分が負けているのが悔しかっただけっていう……」
――誰かのためにと言っておきながら……。
結局は自分のことしか考えていなかった。
危険だなと思った。そんなリーダーに付き合わされる人々のことを思うと。
「今できることをやっていきましょう、村長」
「そうですね。さっきすれ違った馬車の荷物も焦った原因かもしれません。僕達のこの荷物で、はたしてどれくらいのお金になるのかなって。みんなに期待させといて、これっぽっちかってなったら……」
肩を落とすハルヒコに、バルトは豪快に笑ってみせた。
「なに、元々はもらえるはずのないものだったんだ。酒の一杯でも飲めるような、そんな小遣いでも手に入れば、みな万々歳ですよ」
――そうであってくれたらいいが……。
すべてが納得できたわけではなかった。だが、少しは吹っ切れたように思えた。
――結果を無理強いしちゃいけない。
人にできることは、自分のやれることをただ精一杯に頑張ることだけだ。
――結果はその努力に自然とついてくる。
元の世界で、自分は子ども達にそう言ってきたのではなかったか――。
「バルトさん、どう思いますか?」
「いやあ、村長。私にも、正直よく分かりません」
立派な噴水を中央に配した広場には、近隣の村から押し寄せた馬車が所狭しと集まり、持ち寄った特産品をこれでもかと並べた市が立っていた。
ハルヒコ達は馬車を邪魔にならない広場の端に停め、行き交う人の群れを眺めながら、屋台で購入した遅い昼食をとっていた。
「相場ってものがよく分かりませんね。ヤンガスがいれば一発なんだが……。あいつ、馬車の長旅は腰にくるとか言って。大事なときに役に立たん奴だ」
「まあ、それは仕方がないでしょう。それよりも、どこもかしこも似たような値段で……。そんなもんなんでしょうかね?」
ハルヒコ達はタバコを扱っている店を片っ端から当たっていた。目についた所はもちろん、商店街を行き交う商人らに尋ねたりもして、高値で買い取ってくれるような店を探し回った。ここまでに交渉した店の数は八軒にのぼっていた。
結論から言うと、交渉の中身が良かったのか悪かったのか、ハルヒコにもバルトにも分からないのが実際のところであった。
「どこも同じような買値で。それでも、全部売れば、そんなに悪くないお金にはなるし……」
二人が疲れてきたのもあるが、だんだんともう最後に立ち寄った店で決めてもいいのではないかという雰囲気になりつつあった。
それに比べ、シュウとシドは元気なものだった。見るものすべてが新鮮といった感じで、二人の目には屈託のない好奇の色が輝いていた。
シュウとシドはもうとっくに昼食を食べ終わり、ただ座っていることに我慢の限界をむかえようとしていた。
「ねえ、パパさん。ちょっと広場を回ってきてもいい?」
初めて訪れた見知らぬ町だ。そこを子ども達だけで行かせることなど普通なら考えられない。シュウもシドもまだそう思わせる年齢であった。
「この広場だけだぞ。絶対に路地なんかに入り込まないように。約束できるか?」
「大丈夫。お店を見て回るだけだから」
バルトは元より心配などしてはいなかった。シドならそれなりの危険を回避できるだろうと信じていたからだ。
ハルヒコもバルトとは違う意味で、子ども達二人で行かせても大丈夫だろうと判断していた。
――シュウが普通の子どもなら行かせないだろうな……。
もしそうでなければ、自分もついていっただろう――ハルヒコ自身も少しは見物したいという気持ちがあったことは否めない。だが、今のシュウには魔法がある。よからぬ危険が迫ってきても、その不用意に手を出した相手はもはや火傷程度ではすまないだろう。
ただ、シュウがそんな状況に遭遇したときに、はたして呪文を唱えることができるだろうか……。
優しさゆえに――。
あるいは、恐怖ゆえに――。
――だけど、シドと一緒にいるんだ。
きっと女の子を守るため、そのときになれば勇気をふるうだろう。
子どもの安全に関わる判断を、そんなあいまいな考えで下していいものかどうか……。
だが、ハルヒコにはなぜか父親として確信めいたものがあった。
ハルヒコ達の了承を得ると、シュウとシドは賑わう市へと飛び出していった。
「子ども達だけで大丈夫ですよね……」
バルトはまたあきれ顔になった。
「村長、大丈夫だと思ったから、二人で行かせたんじゃないんですか」
バルトの言う通りだった。父親としての確信めいたものが――と言っておきながら、次の瞬間にはもう気持ちが揺らいでしまっている。
――仕方がないよな。
父親といったって、その父親という役割を何度も経験しているわけじゃないんだから。
誰もが初めて父親や母親になるのだ。子どもがこんな状況におちいったらどうすればいいのか――初めて遭遇するその事態で下す判断に、何が正解で何が間違っているかなんて分かるはずがない。
――信じよう……。
親にできることは、何かを無理強いするのではなく、ただ見守っていくことだけだ。
――いつでも手を差しのべることができるようにしながら……。
「そうですね。シュウとシドの二人なら大丈夫でしょう」
気持ちに整理をつけ、ハルヒコは話題を元に戻した。
「ここまで交渉した店で私がなんとなく踏みきれないでいるのは、せっかく分けて収穫したタバコの葉を、どの店も区別しないで一緒くたに同じ金額で買い取るって言ってきたことなんですよね」
「確かにヤンガスは上葉の方が高値で買い取ってもらえると言ってましたね」
「これだけ回って、どこも同じように言ってくるということは、そういうものなのかなと思ったりもしますし……」
「お店で聞けばよかったですね。もう一度、回ってみますか?」
またあれだけの店を回り、クセのある店主らと渡り合わなければならないのか。ハルヒコは想像するだけでうんざりとした。
気分転換に広場を見物にでもいこうかとハルヒコが思い始めたとき、シュウとシドが息せき切って戻ってきた。二人とも笑顔を浮かべていた。
「パパさん。広場の反対側に、朝から回っているようなお店があったよ」
ハルヒコは、買い取ってもらう条件が同じなら、もうその店でもいいかと一瞬あきらめそうになった。
「それで、その人は分けて収穫しろと言ったんですか?」
シュウに案内してもらい広場をぐるっと回ると、確かにそこに店はあった。
店構えは今までに訪れた店と大差なかったが、店主はハルヒコよりも若く、どこか頼りなさげな――言葉を選ばなければ、いかにも『優男』といった印象をぬぐえなかった。
――大丈夫かなあ……。
人は第一印象が肝心というが、ハルヒコは自分がそんな見た目だけで人を判断するような人間ではないと自負していた。自負していたのだが……。
「パパさん、なんか、すごくチャラそうなお兄ちゃんだね」
シュウが小声で、かつ元の世界の言葉で話しかけてきた。聞こえていたとしても意味は通じないはずだ。それなのに、その若い店主はシュウの発した言葉が気になったのか、やり取りをしていた会話を一瞬止め、シュウとハルヒコの親子を値踏みするような目でうかがった。
「村の農業に詳しい者が、そういう指示を出してくれたんです。信頼のおける人間なので、言っていることは間違ってないと思うのですが……」
若い店主は村で栽培したタバコの葉を手に取り、葉の表や裏を何度も見返した。日の光に透かして、納得するようにうなずいたりもした。ときおり、その葉を手で揉んで鼻に近づけ、香りを確認しているような……。
――そんな振りをしているようにしか見えないんだが……。
悪いとは思ったが、ハルヒコにはそのチャラい兄ちゃんが、どこまで本気でタバコの葉を品定めしているのか――品定めすることができるのかを疑わしく思った。
やがて上葉も下葉も同じように時間をかけ丁寧に確認し終わると、その店主はやわらかな笑顔を浮かべた。
「よい指導者をお持ちだ。この地域で手に入る、最高級の部類に匹敵する出来です。しかも、下葉の品質もきわめて優れているときている」
若い店主は姿勢を正すと、さっきまでの柔和な表情から一変し真剣な顔つきになった。そこには、さっきまでのチャラそうな優男の姿は影をひそめ、貴族と見間違われてもおかしくない自信と落ちつきに満ちた男性が立っていた。物腰は穏やかそうなのに、その目の奥には鋭い光がたたえられている。そう言えば、さっきまでの優男を演じていたときでさえも、男の目はこんなふうに鋭いままだったなとハルヒコは思い返していた。
「ここまで名前を名乗らなかった非礼をお詫びいたします。私の名はハサル。このリュッセルの町で仲買を生業とする、しがない一商人です」
これがハルヒコとハサルとの出会いであった。作物を売りにきた村人とそれを買う仲買人――最初の出会いは、ただそれだけの関係だった。しかし、これより先、彼とは長い年月を付きあっていくことになる。そして、村人と商人という最初の関係も徐々に変容していくのである。
数年後、このルアン国がたどる大きな歴史のうねりの中心に立つ――立たざるをえなかった――五人が一堂に会した瞬間でもあった。
望むも、望まざるとも……。
ハルヒコのみならず、シュウも、そして、シドさえも……。




