第3章―3
宿に着いたのは、まだ西の空がかすかに赤みをおび始めた頃だった。頭上の空は遠く青く、気づけば東の空に一番星が輝いていた。
――旅をするなら、こっちの世界の地図の方が理にかなっている気がするな。
正確ではないが、限られた情報を頭に入れ計画を立ててしまえば、後は不思議と何も悩むこともなく、不安も覚えず、純粋に旅を楽しむことができたのだ。
宿はハルヒコの家のように周囲を石塀で囲まれており、開かれた門を馬車は余裕をもって通過することができた。ハルヒコ達は敷地内に入り、玄関前に馬車を停めた。
「ちょっと待っててください。宿の人と話してきますから」
そう言うと、ハルヒコは馬車から降りた。地面に足をつけると、大地が揺れている変な感覚におそわれた。
――馬車に揺られすぎたか……。
これはこれでおもしろい浮遊感だな。
――子ども達も少しは気がまぎれてくれればいいんだけど……。
そんなことを考えていると、宿の扉が開いて、中からかっぷくのいい女性が姿を現した。
「お疲れさまでした。道中は何事もありませんでしたか?」
宿の女将はにこやかに旅の労をねぎらってくれた。
「ありがとうございます。道もよく整備されていたので、とても快適な旅でした。ずっと座っていたので、お尻が痛いくらいです」
女将はあらあらという感じで、馬車に乗っている三人にもお疲れさまと会釈した。
「今日はお世話になります。マグダル様が宿泊を手配してくれているそうなのですが――」
事前にマグダルにはこの旅のことを伝えている。その間、仕事を手伝うことができないと断りを入れるために。
ところが、マグダルがその話を聞くや否や、じゃあ宿を手配しておこうとか、リュッセルに着いたら町を案内させるよう段取りをつけておこうとか、有無を言わせずさまざまな手筈を整えていったのだ。ギルドとの薬草の売買についての交渉もその一環であった。
「ハルヒコはこのエオラだけを見て、ルアン国なんて大したことないと思っとるじゃろう。じゃが、リュッセルはのう、すごいんじゃぞ。さすが王都だけのことはある。きっとハルヒコも我が国を見直すこと間違いなしじゃ」
ハルヒコは、世話になっている――大恩ある――このルアン国に感謝こそすれ、大したことがないなどと一度も思ったことはない。勝手にそんなふうに思われては、心外どころの騒ぎではなかった。
ともかく、リュッセルにたどり着くまでに、どこかの町で一泊しなければならないのは間違いなかったし、そのときのマグダルはやけに嬉しそうだったので、ハルヒコには断る理由を見つけられなかったのである。
「宿泊費もマグダル様は負担してくれるとおっしゃっていましたが、それはこちらできっちりとお支払いします。よろしくお願いします」
ハルヒコがそう言うと、宿の女将は笑顔こそ崩さなかったが、歯切れの悪い口調で返答してきた。
「いえ、お代は本当に結構なんです。逆にお支払いいただくと、私どもがマグダル様に顔向けできなくなりますから。もうそれは本当に結構なんです。ですが……」
さすがに女将の様子がおかしいことに気がついて、ハルヒコは尋ねた。
「なにかご都合の悪いことでもありましたか?」
女将は一瞬ためらった後、おずおずと事情を切り出した。
「実は今しがた、ご夫婦のお客様がお見えになったところなのですが、あいにく当宿は満室でして――。今から別の町に行くにしても、もうすぐ日が暮れてしまいます。敷地内で野営していただくことも可能ですが……」
そこまで聞いて、ハルヒコの返事はもう決まっていた。
「ああ、そういうことなら――。どうぞ、その方達に部屋を譲ってあげてください。私達は元より軒下を借りて野宿するつもりでいましたので」
女将はそんなにもすぐに快諾されるとは思っていなかったので、了承を得られた後も取りつくろうように事情を説明していった。
「本当に申し訳ありません。普段ならお断りするところなんですが……ましてやマグダル様と関わりのある方達を……。ただ、事情をご説明させていただくと、実はそのご夫婦の奥様は妊娠されているのです。ですので、ご無理を言うようですが……」
「本当に私どもは大丈夫ですから。妊婦さんに野宿なんてさせられませんからね」
ハルヒコは女将を安心させるように笑った。
「あの、ですが一部屋だけはご用意できるんです。もしよろしければ、二名様はお部屋をご利用いただければと……」
この提案に対してもハルヒコは即座に返答した。
「それでは子ども達二人をお願いします。私とそこのバルトは敷地内で野営させてもらいますから」
間髪入れずバルトの口から咎めるように声が飛んできた。
「村長、それはダメだ。野営は俺とシドがする。村長らが部屋を使わないといけねえ!」
ハルヒコはバルトに振り向いて言った。
「もう、これは決めたことだから。バルトさんも納得してください」
そのハルヒコの一声で、バルトはもうそれ以上食い下がろうとはしなかった。
「本当に申し訳ありません。馬車を誘導する者を呼んでまいります。それと、お食事は四名様全員の分をご用意できます。ぜひお召し上がりください」
ハルヒコは部屋がキャンセルされたことなどもう忘れて、この世界で初めて泊まる宿の食事がどんなものかと今から期待をふくらませていた。気のせいか、誰かのお腹の鳴る音が聞こえたような気がした。
「いやあ、大満足でしたね」
ハルヒコはバルトと共に天幕を張りながら、自然とその言葉が口をついて出てきた。
「確かに、ご馳走でしたね。ただ、あれはマグダル様の口利きもあったでしょうし、部屋のお詫びも含めてのものでしょう。私も宿に泊まることは何度もありましたが、あそこまでのもてなしは経験したことがありません。食事がふるまわれない宿も普通にありますし。いや、そっちの方が多いかもしれない」
「そういう宿の場合は、食事はどうするんですか?」
「町の食堂や酒場に行きます。宿に併設されていることも多いですね」
「そうですか。その土地の美味しいものを楽しめるんですね。落ち着いたら、家族で旅行にいくのもいいなあ」
バルトは苦笑しながら言った。
「村長の世界では、旅行は楽しむものなんですね。こちらの世界では、旅といえば仕事のためという感覚です。各地を渡り歩いて行商する者や、仕事を求めて国から国へと流れていく者。宝探しの冒険なんてことをしている呑気な連中も中にはいますがね」
――そんな冒険だけで生活できる人も実在するんだな……。
ファンタジーの世界なら、さまざまな冒険譚だけが多く語られ、まるでみんながみんな日々を冒険に費やしているように錯覚してしまう。しかし、いざこの異世界で生活してみると、とてもじゃないがそんな冒険とは無縁の日常が待っていた。というよりも、元いた世界と同様に、生きていくためには生活の基盤が当然のように必要だったのだ。
――どうしたって、家族がいるのに冒険なんてできるはずないよな。
宝や名声を得ることが目的ではない。家族がいる。妻と共に子ども達を育てていく。彼らと共に生きていく。それがハルヒコの――今の人生の大きな目標だった。
ハルヒコとバルトはロープの片方を宿の庭にある木にかけ、もう片方を馬車の荷台に結びつけた。馬車に馬はつながれていない。一日の労働をやりとげた馬達は、今ごろ宿の厩で疲れを癒しているはずだ。ハルヒコ達はロープに麻製の大きな布をかけ天幕を張った。続いて地面の上に乾性油を染み込ませた薄手の麻布を敷き、さらに天幕と同じ厚手の麻布をその上に広げた。これで野営の準備は整った。
「なんだか外で寝るのってわくわくしますね」
「ここは宿の敷地内だから、まあ安心して寝れますが、本当に外で――町から離れているような所で野営するときは、細心の注意をはらわないといけません。獣に襲われたり、強盗に襲われたり。よほど危険な場所では、見張りを立てることもあります」
――この世界で、家族でキャンプを楽しもうなんて無理みたいだな……。
考えたこともなかったが、元いた世界のように安全が保障され――それも幻想かもしれないが――ある程度の豊かさがあったからこそ、いろいろなことを楽しむ余地があったのだろう。そのどちらかが制限されてしまえば、失われてしまう娯楽がどれほどあることか。
――だからといって、楽しいことが何もなくなるわけじゃない。
自分達が置かれた境遇で――ささやかではあるかもしれないが――やれることを、楽しみを探していけばいい。
――それに、自分には家族がいる。それで充分だ。
子どもがいるだけで、こんなにも毎日が楽しくてしようがない。
「村長、灯りをもう一つ頼めますか?」
バルトはまだ灯のともっていないランプをハルヒコに手渡した。
「さっきの灯りと同じくらいの明るさでいいですか? 消えるまでの時間も」
「はい、それでお願いします。屋外なので、あまり明るい光はよくないですからね。遅くまで灯っていても、それはそれでまた具合が悪いですし」
ハルヒコは分かりましたと言うと、ささやくように呪文を唱えはじめた。
短い詠唱だった。最後に、
「ルーモ!」
やや遠慮気味に――前段階の事前詠唱よりは大きく――唱えると、ランプの中に暖かい光が灯り始めた。
「ありがとうございます。今頃、村では久しぶりに油に灯をともしている頃でしょうね。今日は残念ながら、村のみんなは夜更かしできそうにありませんな」
ハルヒコは村の自宅の光景を思い浮かべた。
――トウコはランプにちゃんと灯をつけられただろうか。
かまどに火をおこすことができただろうか。
久しぶりのことで、はたしてトウコが上手くやれているのか心配だった。
ここ最近は、かまどに火をつけるのはハルヒコかシュウの仕事だった。「フラーモ!」と唱えれば、種火を起こすことなど雑作もないことだったからである。
さらに二人は新しい魔法を修得していた。それが先ほどハルヒコが唱えた、光を生じさせる『ルーモ』という魔法だった。
マグダルから借りた魔導書は初歩的なものだったが、簡単な魔法もいくつかは載っていた。かけ出しの魔法使いが練習するにはもってこいのものばかりであった。ハルヒコとシュウは、その中からすでに『ルーモ』と『シュロシロ』という魔法を会得していたのだ。『シュロシロ』は、簡単に言えばさまざまなものに鍵をかける――固定する――魔法だった。箱に鍵をかける。扉に鍵をかける。そのような使い方が魔導書には紹介されていた。
――どんな理屈で鍵がかかるんだろう?
鍵の仕掛けなんてないはずなのに……。
魔法に理屈などあったものではない――超常の現象なのだから――と考えてしまえば、そこで話は終わってしまう。それ以上思考することを放棄してしまうことになる。だが、ハルヒコはそんな魔法にも説明がつく範囲で合理的な説明を求めた。
――鍵の仕組みがなくても――ということは、くっついているってことか?
ハルヒコはそう考えるや否や自宅の庭に飛び出し、目についた石を家庭菜園の作物にくっつけて呪文を唱えてみた。
――思った通りだ!
石はものの見事に枝に固定され、その重みで植物全体がだらしなく頭を垂れた。
探究欲にかられたハルヒコは、これまた目についたニワトリを捕まえ、その足を地面に押さえつけたまま呪文を唱えた。
――植物にも固定できたのなら、動物もその場にとどめておくことが可能なんじゃないか?
案の定、ニワトリの足は地面と一体化したかのように固定された。突然の束縛に怯えたニワトリは慌てふためき、そこかしこに羽を飛び散らかして叫び声をあげた。ハルヒコははっとなって、直ちにその呪文を解除した。
「ごめんな……」
謝罪など聞く耳も持たないていで、ニワトリは恨めしそうにハルヒコから飛び離れていった。遠くの物陰で小さな威嚇の叫び声が聞こえたような気がした。
――ひどいことしたな……。
我ながら後味の悪いことをしでかしたと、心底ハルヒコは落ち込んだ。だが、確信は得られた。
――間違いない……。
『シュロシロ』は鍵をかける魔法じゃない。物と物を固定する呪文なんだ。
そんなふうに、ハルヒコとシュウは修得した魔法を、自由な発想をもってさまざまな用途に活用できないかと試していった。そして、その過程で発見したことがある。魔法はその強度と持続時間をコントロールすることができたのだ。
『ルーモ』なら光量とその光が消えるまでの時間を、『シュロシロ』なら固定する強さとその持続時間を、ある程度のイメージをもって呪文を唱えることで調節することができたのだった。
シュウは『シュロシロ』をいたずらに使ったりもした。学校の教室でよくある黒板落としだ。黒板落としならドアのすき間に黒板をはさみ、その扉を開けた人間に白い粉の制裁が訪れる。『シュロシロ』を使えば、物を何かに固定しておくだけで、時限爆弾のようにそのいたずらは発動できる。いたずらが成功するかどうかは、その時間設定にキモがあった。
――これって、何かの仕掛けの起動に使えるんじゃないか?
シュウのいたずらを見て、ハルヒコは思った。重りにひもをつけ呪文で固定しておく。時間がきて呪文が解除されたら重りが落ち、ひもを引っ張る。そのひもの先に何かしらの仕掛けがあって、それが発動する。
――おもしろいな……。
たった一つの魔法で、ここまでいろいろな可能性を考えることができる。
ハルヒコは、そのうち二つの魔法を連動して使えるかどうかも試してみようと考えていた。
「しかし、村長とシュウちゃんのおかげで、ずいぶんと村のみんなも助かっていると思いますよ。灯りに使う油は値がはりますからね」
バルトに話しかけられ、ハルヒコの思考は宿の庭に引き戻された。ずいぶんと長い間、考え事をしていたような気がした。しかし、バルトの様子から、彼に違和感を感じさせないくらいには短い時間だったようだ。
「私とシュウの魔法の練習にもなりますからね」
ハルヒコとシュウは、夕方になると村人達が持ってきたランプに『ルーモ』を唱えて灯をともしていった。最初の頃はただ呪文を唱えて、その明るさや消えるまでの時間はまちまちであった。だが、慣れてくるにしたがい、明るさの好みや、どれくらいの時間、灯をともしておきたいかというリクエストを聞くまでになったのだ。
『家庭のランプだけじゃなく、村の道にも灯をともすっていうのはどうかな。みんなが、夜歩くときも安心だし――』
ハルヒコはバルトにそんな提案をしたことがあった。それは名案だと賛同されるものとばかり思っていたが、バルトから返ってきたのは『それはあまり感心しませんな』という否定の言葉だった。
『夜に煌々と光がある場所には、良からぬものが近づいてきます。それに、夜はそんなに出歩くものじゃない』
『良からぬもの』とバルトは言った。それは獣や盗賊といった類のものだとハルヒコは思っていた。だが、後になって後悔することになる。なぜ、その『良からぬもの』について、このとき、もっと詳しくバルトに詰め寄らなかったのだろうと――。
だが、未来のことなど分かるはずもない。
ハルヒコとバルトは村の将来について夢を語り合い、その夜はふけていった。
宿の部屋は、村の一般的な家屋のような、飾り気のない無味乾燥なつくりとはかけ離れていた。窓枠といった些末なところにも手を抜くことなく、目につく所にはすべて装飾が施されていた。ベッドにいたっては、くすみ一つない白い清潔なシーツに、豪華な刺繍の入った掛け布団、そして、なんと天蓋までもが付いていたのだ。
シュウは思わずベッドに飛び込んだ。どこまでも沈んでいってしまうのではないかと、一瞬焦ったぐらいだ。ふかふかのベッドの寝心地は、元いた世界でも経験したことのないものだった。
――さすがに王様達が利用する宿は違うなあ。
この部屋もマグダルの取り計らいだった。普段は貴族しか泊まることの許されない部屋だ。ハルヒコは宿泊代を支払うと言っていたが、本当に請求されれば、おそらく目が飛び出るような数字を聞くはめになっただろう。
この部屋以外にも、もちろん一般人も宿泊できるような普通の部屋――といってもそこら辺の安宿とは比べるべくもない――もあったが、そもそもこの宿は王族が王都リュッセルと本来なら別荘地であるエオラを往来する際に投宿するための国営の施設であった。それをマグダルが利用しないときに遊ばせておくのはもったいないと、そして、この付近に宿が少なかったことも一つの要因として、庶民も利用できるようにしたのである。
噂では、王族に危険が及ぶような事態が起こったときのために、避難通路が宿のどこかに隠されていると、まことしやかにささやかれていた。
「やっぱり、ランプの灯はこういう赤っぽい色の方が落ち着くね」
シュウは久しぶりに火の入ったランプを眺めながら言った。
いつものように自分でランプに魔法の明かりをつけるつもりでいた。ところが、食事が終わって部屋に戻ると、すでにいくつものランプが灯されていたのだ。
「私は白い灯りも嫌いじゃないわよ」
そう言われても、シュウはどこか複雑な表情を浮かべるだけであった。
「村で灯りをつけるときは、やっぱりみんな、パパさんの方に多く並ぶんだよね。自分でも白い灯りはまぶしいなって感じるぐらいだから」
「同じ魔法なんでしょ? それなのにお父さんとシュウとで色が違うのってなんだか不思議ね」
炎の魔法『フラーモ』もそうであったが、シュウとハルヒコが同じ光の魔法『ルーモ』を唱えても、発現する現象が――この場合は光の色が――異なっていた。ハルヒコは赤っぽい暖かい色の光になったのに対して、シュウの方は白い光――よくよく観察すれば青白いことに気づくだろう――が現れたのだ。
シュウがどんなにイメージを変えようとしても、炎も光もその青白い色相を変えることはなかったのである。
「でも、シュウの白い光を浴びていたら風邪の治りが早くなったって、みんな噂してるわよ」
そんな噂をシュウは初めて聞いた。ハルヒコから何も言われていないということは、父親の耳にもまだその噂は届いてないということだろう。そんな噂を聞いたら、父親は嬉々として、自分を実験台として真偽を追求するに違いない。
「それが本当なら少しは役に立てるかもしれないね」
「今でも充分、役に立ってるって。気づいてないの? 私は白い光の方が好きだな。だから、いつもシュウの方にランプを持っていってるのよ」
シドに励まされると、それだけでシュウは嬉しくなってしまう。
「でも、本当にシュウのお父さんがこの部屋を使わなくてよかったのかな? こんな立派なところなんて、私にはもったいない気がするよ。なんかさ、全然落ち着かない」
シドは自嘲気味にはにかんだ。
「きっと、それは本当にいいんだよ。パパさんがそう言ったなら、もうそれは決めたことで、よほどのことがない限り、それを変えることはないと思う」
「見た目はそうでもないけど、親方に似て頑固なのね」
シュウは少し考える様子を見せた。
「頑固というのとはちょっと違うような気がする。話もちゃんと聞いてくれるし。それならこうしようって、違う考えを出してきてくれることもある。どうしても意見を変えられないときは、納得するまで説明してくれるしね」
「そこは親方とはずいぶん違うのね。親方が決めたことには、文句を言わず従わないといけないもの」
シドはけらけらと笑って言った。そのおかげで、口にした内容のわりに悲壮感は感じられなかった。バルトへの信頼あってのことだろう。
「パパさんはさ。いつも自分のことを後回しにしている感じがするんだ……。僕やカナやママさんのために。今は村の人達のために無理してるように思うときがある」
「そうかしら。私には村長はすごく楽しそうにしているように見えるけど。親方だって、村長が村に来てから、笑うことが多くなった気がするわ」
――パパさんが喜ぶことって何だろ……。
「ねえ、明日の朝も早いんでしょ。もう休みましょうよ」
シドにうながされ、シュウはベッドに入った。シドも隣のベッドに横になった。
枕元にあったランプを消すと、窓からの月明かりで部屋の中が幻のように浮かびあがった。
――今頃、村のみんなはどうしているだろう……。
灯る時間を余した魔法の光は、呪文を唱えた魔導師にしか消すことはできない。そんなとき、村人達はランプに布をかぶせて光をさえぎったり弱めたりする。人は本能的に闇を恐れるのか、多くの村人達はいつも朝まで光を灯してくれるように依頼してきた。
シュウは、トウコやカナの待つ村に思いをはせた。なかなか寝つけなかった。
「ねえ、シド。まだ起きてる?」
街道をいく馬車の上で、ハルヒコとバルトが交わしていた会話が気になった。
――話していたときのバルトさんは苦しそうだった。
いや、あれは悲しそうだったのかもしれない……。
シドも慣れないベッドのせいか、まだ眠れないでいた。
「……なに?」
シドが答えても、シュウはなかなか返事を返してこなかった。
「昼間の話なんだけど……」
シドは「ああ……」とつぶやいた。
「知らなかった……。てっきり、バルトさんとシドは親戚か何かかなって思ってた」
しばらくの間があって、シドが口を開いた。
「私ももうあまり思い出せないんだ。すごく小さい頃だったから。お母さん……かどうかも今となっては分からないけど、私はもうその人の顔を思い出すことができない……」
シュウは胸がつまる思いだった。気を抜けば、目から涙がこぼれてしまいそうだった。
――家族がいるのが当たり前のことだと、僕は勘違いをしていた……。
「親方は私を拾ってくれた恩人。大工の仕事を手伝わせるのは、私にその技術を教えるためなのよ。たとえ家を失っても、国が滅んでも、身につけた技術を失うことはない、奪われることはない――。親方はいつもそう言うの」
――パパさんも似たようなことを言っていた……。
どんなに高級で誰かに自慢できる物でも、それはいつかは失われる。でも、自分の中につちかった知識や知恵は、自分がこの世に生きている限り失うことはない。
――パパさんは、贅沢はしなかったけど、本だけは次から次に買っていたっけ。
「シドにとって、バルトさんはお父さんみたいなものなんだね」
話の流れから思いついた何気ないシュウの言葉。だが、シドからの返事はなかった。
まずい質問をしてしまったのかもしれない。このまま何も返事をもらえないのだろうか。シュウが浅はかな言葉を口にしてしまったと後悔しそうになったとき――シドは小さくつぶやいた。
「親方は決して自分のことを、父さんとは呼ばせなかった……」
窓から忍び込んだ月明かりは、部屋を幻のように浮かびあがらせている。
――ああ、この世界はやっぱり……夢の……幻の世界なんだ……。
シュウはあらためて、そしてなぜか、そのことをひどく納得せずにはいられなかった。




