第二部 第7章―4
朝の早い時間帯の出来事だ。薄闇と薄靄とに包まれた静寂の中で、マギアはまだまどろみの庭に沈んでいた。学院の教師アインの妻クラウスは、朝食の支度を手伝いに食堂のある本棟へと向かっていた。敷地内の少し奥まった職員宿舎から、まだ人の通わぬ道をランプを灯し急ぐ。
アインという教師はハルヒコに非協力的な教職員の派閥の一員で、ハルヒコが何か新しい取り組みを始めるときには、いつも先頭に立って何かしら難癖つけてくる厄介な人物であった。だが、その妻であるクラウスはというと、亭主とは対称的に非常によくできた女性で、学院の仕事も率先して手伝ってくれていたのだ。
靄がかかっているせいか、ランプの灯りはクラウスの足元しか照らさない。いつもならこの未舗装の道の先には、朝日に照らされるバラディンの町とその向こう側に広がる一面の麦畑を見渡すことができた。だが、今朝は自分の手を伸ばせる範囲の景色しかつかむことができない。つまづかぬよう、クラウスは慎重に足を運んでいった。
と、薄靄のベールの向こうに人影が揺れる。
――あら、理事長さんったら、もう畑を耕しているのかしら?
ハルヒコがマギアの敷地内に畑を作りはじめると、亭主のアインを筆頭に「しょせん田舎者だ。土をいじっていないと落ち着かないらしい」と、例のハルヒコに批判的な派閥が騒ぎ立てたのである。
『はいはい――』
クラウスはその悪態を右から左へと受け流した。自分の意見を言えば必ず角が立つ。
――学院の教師連中ときたら、自分を中心に世界が回っていると本当に信じているんだから……。
私がいなかったら、亭主のアインなんてゴミくずの山の中でのたれ死んでてもおかしくないのよ。私は、畑を作るのは悪い考えじゃないと思うけどな――。
「おはようございます」
クラウスは靄の向こうに浮かぶ人影に声をかけた。だが、返事は返ってこない。そのかわり、カチカチと何か硬いものを打ち鳴らす音がどこかからか聞こえてくる。
――何の音かしら?
そして、気づく。
――あら……もう一人いらっしゃる。理事長の奥さまかしら……?
不思議な感じがした。いつもなら、理事長の妻であるトウコは、今ごろ食堂で朝食の準備を手伝っているはずなのだ。
クラウスはおぼろげに見える二名の人影にさらに近づいていった。
しっかりと朝の挨拶をしなければ――。
クラウスが足を進めていくと、薄靄の向こうに、まず着衣が浮かびあがってきた。
――間違いない。理事長と奥様だ。
あの服を見たことがある――。
「おはようございます」
もう一度声をかけてみる。と、今度は気づいてもらえたのか、二つの影がこちらを振り向いた。だが、やはり返事はない。カチカチという硬質な音だけがどこかで鳴り響いている。
――?
本当にハルヒコとトウコではないのだろうか――そう訝しみながら、クラウスはもうその人影の正体を確かめずにはいられなかった。さらに近づいていく。すると、その二人は待ち構えていたように、頭にかぶっていた麦わら帽を手に取り、胸にあてたのだった。
――あら……?
違和感を感じる。
――理事長もそうだけど、奥様もいったいどうされたのかしら……?
靄に包まれた人影は、二人とも髪の毛がないようにクラウスには見えたのだ。
カチカチカチ……。
あの硬い音がまた聞こえる――。
カチカチカチ……。
――ああ……まただ……。
ここにきてクラウスはようやく確信したのだった。霞の向こうに揺れる目の前の二人は理事長たちなんかではない――!
そのとき、重しみたいに地面に乗っかっていた空気の塊がすべるように動きだした。さあっと、靄が引いていく。
次の瞬間――
「きゃあああ……!」
マギアの敷地が揺れた。心地よい夢の岸辺でまどろんでいた者たちは、一斉にその叫声に現実へとたたき起こされたのである。
腰が抜け、クラウスはその場にへなへなとへたり込んだ。下半身が自分のものじゃないみたいに、もう言うことを聞かない。ピンで刺されたように、クラウスはから一歩も動けなくなった。




