表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

目を覚まして

作者: 青咲りん

 日常が環状線を走ってくる。

 まるで、それが当たり前であるかのように、そいつはいつも私の前にやってくる。

 そして私も、いや、私たちは、いつもそれに疑問を抱くことなく、そいつの腹のなかに吸い込まれていくのだ。

 まるで、何かに支配された、虚ろな目の人形のように、私たちは誘われて、環状線を走る日常に足を踏み入れるのだ。


 ──気がつけば、私は駅のホームに立っていた。

 いつから立っていたのかはわからない。

 さっきまで自分が何をしていたのかもよくわからない。


 教室で居眠りをしていたのか、ベッドの上で朝を待っていたのか、それともお風呂の湯船に浸かって考え事でもしていたのか。


 今の私には、思い出せるものは何もなかった。

 しかし、いつもいつも、ある時点に来るたび、私は毎日ここに立って、あいつを待っているのだと。それだけはなんとなくだけどわかっていた。


 駅のホームにはたくさんの人が立っていた。

 黄色い帽子を被った小学生の男の子、杖をついた白毛の老婆、スーツ姿のサラリーマン、黒ずんで汚れた厚い服を身にまとう浮浪者も、犬も、猫も、人以外のものも、たくさん立っていた。

 みんな目が虚ろで、どこかおかしな気分がした。

 私はここから逃げ出したかった。

 怖かったのだ。

 何が怖いのかって?

 それはもちろん、ここにいる人たちもそうだけど、またここにやってくる、あの日常という周回列車に呑み込まれるのがだ。


 私は霧に包まれた駅のホームを逆方向に歩いた。

 それが正しい方向なのか、全く不正解なのかはどうでもよかった。

 とにかくこの場所を抜け出したかった。


 プラットホームの柱には、数字ばかりが羅列している。

 2017と14分の7、2017と13分の7、2017と12分の7……どれもこれも、みんな分数だった。


 どれだけ走っても、下へも上へも行ける階段は見つからない。

 それどころか駅の名前が書かれた表札だって見つからなかった。


 やがて私は全く同じところに戻ってきて、一つあることがわかった。

 このプラットホームには終わりがないんだ。


 私は、環状線を走る線路に目を向けた。

 ホームに誰かのアナウンスが聞こえて、私は頭痛に苛まれた。

 耳を塞いで抗った。

 プラットホームの線路側では、普通列車を示したランプを点灯させて、奴が口を開いていた。

 霧が一層濃くなる。


 この霧を吸っちゃダメだ。


 なんとなく、私は直感でそれを理解した。

 黒いプリーツスカートのポケットから、薄い緑色のハンカチを取り出して、鼻と口を覆った。

 危機感が少し和らいだ気がした。

 気がつけば、プラットホームには誰一人残っていなかった。


 ──空白。


 誰も居なくなったホームで、私はふっと全身の力が抜けるのを感じた。

 私は日常から外れたのだ。

 いや、このホームに立っているあいだは、きっとまたあいつがやってくるに違いない。

 なら、もっと、もっと遠くへ。

 あいつの足が届かない、この霧の向こうへ逃げなければ。


 私はスカートのポケットにハンカチを押し戻すと、線路の向こうの霧の壁を睨みつけた。


 プラットホームの中で逃げるのはもうおしまいだ。

 私は今からここを離れて、霧の外へ向かう。


 右足を前に出した。

 ふと、左足の足首に違和感が走った。

 まるで何かに掴まれているような、縫い付けられているような、そんな違和感だ。


 思わず私は振り返った。

 振り返ってはいけない気がしたけど、どうにも気になって仕方がなかった。


「……ッ!?」


 振り返ったそこには、「恐怖」の文字で埋め尽くされた人間の手が、いくつも私の足首を捕まえていた。

 手は、腕は、みんなコンクリートのプラットホームの地面から、まるで植物のように生えて、蔦のように絡まって、私を捕まえていた。


 私は、前に踏み出すことができなかった。


 また、少し霧が強くなる。

 プラットホームに人が溢れ、また日常が周回を始めた。


 あいつが顔を出すころ、恐怖の手は姿を消していた。


 肩が少し、軽かった。


 ──閑話休題。


 気がつけば、私の周りに喧騒が戻っていた、

 休み時間にはしゃぐ同級生の声が鼓膜に届く。

 それが安心に変わって、私の心を満たしていく。


 いつもの日常が、目の前にあった。

 私はそれに安心していた。

 けれど心の何処かで、私はここにいるべきじゃない気がして、心がモヤモヤして、気持ち悪かった。


 人の顔は見たくなかった。

 だから、下を向いて歩いた。

 緑色の廊下だけが視界を覆った。

 垂れた黒い前髪が、視界の上でユラユラ揺れる。


 私は早足にトイレを目指した。


 別に、おしっこに行くわけじゃない。

 ただ少し、自分の顔を洗いたかった。


 ──。。。。


 足早に駆け込んで、洗面台に両手をついた。

 蛇口を捻って水を出した。

 水しぶきが跳ねて、黒いセーラー服に飛び散るけど、特に気にせずその水を掬って、自分の顔を濡らしてやった。


 私はそのまま鏡を見た。


 水に濡れて水滴が滴り落ちる、目の上で切りそろえられた黒髪。

 髪型はいわゆる姫カットで、アーモンド型の鋭い目つきによく似合っていた。

 射干玉色の瞳を飾る目尻は少し赤くなっていて、それが泣き腫らした痕なのかはよく覚えていない。

 多分、メイクだった気がする。


 鼻筋はすっと通っている。

 全体的に整った顔立ちで、日本人らしい可愛さと美しさ、鋭さ、冷たさが兼ね備えられている。

 いたって普通の顔だった。


 目玉が三つあるわけでもなく、眉毛が三本でも、両津勘吉のように繋がっているでもない。

 団子鼻じゃないし、ニキビだって見当たらない、つるっとした肌。


 薄い唇も、キュッと引きつって恐ろしげだけど、割れているでも、異常にプルンとしているわけでも、カサついているわけでもなかった。


 例えるなら、ぷっくりしていない日本人形の顔だ。

 一重ではなく二重まぶたであるという違いもあるけれど、概ね、印象はそんな感じだった。


 ……ふと、自分の肩のあたりが気になった。

 黒い、ロングストレートの髪が流れたセーラー服の左肩のあたり。

 そこに目を向けてみると、一つ、小さな手が乗せられているのに気がついた。


 私の目が見開いたのを、鏡越しに視界の端で捉えた。


 心臓がばくばくとなるのが聞こえた。


 その手は、あの日私が線路を越えようとしたときの恐怖だった。


 たとえ日常から目が覚めても、覚まそうとしても、あの恐怖が日常に縫い付けるのだ。


 それがわかって、それが嫌で、嫌悪感で胸がいっぱいになって、私は個室に駆け込んだ。


 口から、「現実」と書かれている唾液に濡れた紙が、とめどなく吐き出されていた。


 ──場面転換。


 世界はすっかり暗くなっていた。

 暗雲が立ち込めて、「道標」と張り紙された街灯だけが、チカチカと夜道を照らしていた。


 私は道標を歩いた。


 黒いアスファルトの道を、茶色のローファーでカツカツと音を鳴らす。

 その音は快活というわけでもなく、別に暗いというわけでもない。

 ただ淡々と、家路に沿って、回っているだけ。


 ……ふと、橋の上に連なる街灯が、一箇所だけ光を消しているのが見えた。


 きっとこれは、「道標」を外れた子なんだと、なんとなくそんなふうに思った。

 そんなふうに思うと、少し羨ましかった。


 街灯には、張り紙がなかった。


「……あ」


 小さな声が、唇の隙間から漏れた。


 気がついたのだ、たった今。

 この道を外れた道標のお陰で。


 なんだ簡単なことじゃないか。

 どうして今まで気がつかなかったのか。


 私はおかしくなって、笑って、夜の街に自分の鳴き声を響かせた。

 車一つ走らない鉄橋の上で、くるくると回りながら笑い声を響かせた。

 手に持った学生カバンを振り回して、笑いながら、思いっきり川に投げ捨てた。


「そうだ、そうだよ!

 簡単なことじゃないか!

 どうしてそれがわからなかったんだ!」


 肩が重い。

 のしかかってるのは恐怖や不安だ。

 だけど、そんなものは目が覚める前からずっと背負ってきたものだった。

 ただそれを自覚しただけだった。


 今ではその重さも軽い羽のようだ。

 まるで翼が生えた気分だった。

 どこにでも飛べる気がした。


 それでもこの翼を広げるには、このセーラー服は窮屈だった。


 私はセーラー服のリボンをむしり取った。

 むしり取って、川に投げ捨てた。

 胸元のファスナーを引っ張った。

 黒いセーラー服を脱ぎ捨てて、ブラジャーだけになった上半身を晒した。

 スカートも捨てた。

 下着はどうしようか迷ったけど、やっぱりこのままでも窮屈だった。

 靴も、靴下も、ブラジャーも、ショーツも脱ぎ捨てて、川の中へ放り投げる。


 それらは綺麗な放物線を描いて、ジャブンと大きな水柱をあげた。


 私は私を、全てのしがらみから解放した。


 背中に、大きな、とても大きな翼が生えた気がした。


 ──閑話休題。


 気がつくと、私はあのプラットホームに立っていた。


 誰もいないプラットホーム。

 いつもは白い霧で満たされているのに、今日は夜空の中に星が浮かんで見えていた。


 まるで世界が祝福しているように感じた。


 自然と私の顔が笑顔に変わるのを口元に感じる。


 ……今なら、飛べそうな気がする。


 私は背中の翼をはためかせた。

 黒い翼だ。

 夜空を纏うような、綺麗なカラスの羽だ。


 数歩下がって助走をつける。

 風がお腹を突き抜けて、まるで一体になったかのような心地よさが私の心を支配していた。


 さあ、飛ぼう!今すぐに!


 私はホームの白線を超えて、大きく大きく跳び上がった。

 翼をはためかせて、地上の空気を押し付けた。

 浮力と揚力が私の翼を助けて、あの夜空の向こうへ、霧の壁の向こうへと連れて行ってくれる。


 翼の動かし方は、自然とわかっていた。

 この気持ちが続く限り、私は永遠に空を飛び続ける。


 あの霧の牢獄から解き放たれて、私は自由に、天に、空に舞うのだ!


 あぁ、何て最高な気分なんだろう!


 私は星明かりに向かって口を開いて、叫んだ。


「ハレルーヤー!」


 私の声は、日常には聞こえない。

 少し寂しくはあるけど、でも私はこの道を歩むと、空を飛ぶと決めたから。


 空中でくるりと身を翻す。


 最後にあの退屈な日常を笑ってやろうと目を輝かせて見下ろした。


 しかしそこには、あの環状線は存在なんてしていなかった。

 まるで元から、そんなものなんてこの世にはなかったみたいに、忽然と姿を消していた。


 私は、それがなぜか当然のことと理解していた。


 つまり、あれは幻だったんだってこと。


 私はこの17年間、ずっと幻に囚われていたんだってこと。


 だって、世界はこんなにも広い。

 あのプラットホームだけが現実だなんて、そんなおかしな話、今となっては信じることなんてできなかった。


 私は、少し小馬鹿にしたように鼻で笑うと、あっかんべーをして、再び夜空の世界へと翼をはためかせるのだった。


 ── ──────


『──えー、続いてのニュースです。

 本日未明、◾︎◾︎県◾︎◾︎市の◾︎◾︎川で、女子高生と思われる水死体が発見されました。

 えー、付近に共に流れ着いたと見られる学生証の写真から、この女性は◾︎◾︎高校に通う◾︎◾︎◾︎◾︎さん17歳で──』


 目を凝らして。

 よく世界を見渡して。

 あなたは夢を見ているの。

 ずっと、終わらない夢を。

 頭の中の濃霧に洗脳されて、あなたは終わらない現実を見続ける。


 さあ、目を覚まして。

 霧の壁を突き破って。


 現実を、幻を突き破りましょう。

 あなたの、その黒い翼で。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ