目を覚まして
日常が環状線を走ってくる。
まるで、それが当たり前であるかのように、そいつはいつも私の前にやってくる。
そして私も、いや、私たちは、いつもそれに疑問を抱くことなく、そいつの腹のなかに吸い込まれていくのだ。
まるで、何かに支配された、虚ろな目の人形のように、私たちは誘われて、環状線を走る日常に足を踏み入れるのだ。
──気がつけば、私は駅のホームに立っていた。
いつから立っていたのかはわからない。
さっきまで自分が何をしていたのかもよくわからない。
教室で居眠りをしていたのか、ベッドの上で朝を待っていたのか、それともお風呂の湯船に浸かって考え事でもしていたのか。
今の私には、思い出せるものは何もなかった。
しかし、いつもいつも、ある時点に来るたび、私は毎日ここに立って、あいつを待っているのだと。それだけはなんとなくだけどわかっていた。
駅のホームにはたくさんの人が立っていた。
黄色い帽子を被った小学生の男の子、杖をついた白毛の老婆、スーツ姿のサラリーマン、黒ずんで汚れた厚い服を身にまとう浮浪者も、犬も、猫も、人以外のものも、たくさん立っていた。
みんな目が虚ろで、どこかおかしな気分がした。
私はここから逃げ出したかった。
怖かったのだ。
何が怖いのかって?
それはもちろん、ここにいる人たちもそうだけど、またここにやってくる、あの日常という周回列車に呑み込まれるのがだ。
私は霧に包まれた駅のホームを逆方向に歩いた。
それが正しい方向なのか、全く不正解なのかはどうでもよかった。
とにかくこの場所を抜け出したかった。
プラットホームの柱には、数字ばかりが羅列している。
2017と14分の7、2017と13分の7、2017と12分の7……どれもこれも、みんな分数だった。
どれだけ走っても、下へも上へも行ける階段は見つからない。
それどころか駅の名前が書かれた表札だって見つからなかった。
やがて私は全く同じところに戻ってきて、一つあることがわかった。
このプラットホームには終わりがないんだ。
私は、環状線を走る線路に目を向けた。
ホームに誰かのアナウンスが聞こえて、私は頭痛に苛まれた。
耳を塞いで抗った。
プラットホームの線路側では、普通列車を示したランプを点灯させて、奴が口を開いていた。
霧が一層濃くなる。
この霧を吸っちゃダメだ。
なんとなく、私は直感でそれを理解した。
黒いプリーツスカートのポケットから、薄い緑色のハンカチを取り出して、鼻と口を覆った。
危機感が少し和らいだ気がした。
気がつけば、プラットホームには誰一人残っていなかった。
──空白。
誰も居なくなったホームで、私はふっと全身の力が抜けるのを感じた。
私は日常から外れたのだ。
いや、このホームに立っているあいだは、きっとまたあいつがやってくるに違いない。
なら、もっと、もっと遠くへ。
あいつの足が届かない、この霧の向こうへ逃げなければ。
私はスカートのポケットにハンカチを押し戻すと、線路の向こうの霧の壁を睨みつけた。
プラットホームの中で逃げるのはもうおしまいだ。
私は今からここを離れて、霧の外へ向かう。
右足を前に出した。
ふと、左足の足首に違和感が走った。
まるで何かに掴まれているような、縫い付けられているような、そんな違和感だ。
思わず私は振り返った。
振り返ってはいけない気がしたけど、どうにも気になって仕方がなかった。
「……ッ!?」
振り返ったそこには、「恐怖」の文字で埋め尽くされた人間の手が、いくつも私の足首を捕まえていた。
手は、腕は、みんなコンクリートのプラットホームの地面から、まるで植物のように生えて、蔦のように絡まって、私を捕まえていた。
私は、前に踏み出すことができなかった。
また、少し霧が強くなる。
プラットホームに人が溢れ、また日常が周回を始めた。
あいつが顔を出すころ、恐怖の手は姿を消していた。
肩が少し、軽かった。
──閑話休題。
気がつけば、私の周りに喧騒が戻っていた、
休み時間にはしゃぐ同級生の声が鼓膜に届く。
それが安心に変わって、私の心を満たしていく。
いつもの日常が、目の前にあった。
私はそれに安心していた。
けれど心の何処かで、私はここにいるべきじゃない気がして、心がモヤモヤして、気持ち悪かった。
人の顔は見たくなかった。
だから、下を向いて歩いた。
緑色の廊下だけが視界を覆った。
垂れた黒い前髪が、視界の上でユラユラ揺れる。
私は早足にトイレを目指した。
別に、おしっこに行くわけじゃない。
ただ少し、自分の顔を洗いたかった。
──。。。。
足早に駆け込んで、洗面台に両手をついた。
蛇口を捻って水を出した。
水しぶきが跳ねて、黒いセーラー服に飛び散るけど、特に気にせずその水を掬って、自分の顔を濡らしてやった。
私はそのまま鏡を見た。
水に濡れて水滴が滴り落ちる、目の上で切りそろえられた黒髪。
髪型はいわゆる姫カットで、アーモンド型の鋭い目つきによく似合っていた。
射干玉色の瞳を飾る目尻は少し赤くなっていて、それが泣き腫らした痕なのかはよく覚えていない。
多分、メイクだった気がする。
鼻筋はすっと通っている。
全体的に整った顔立ちで、日本人らしい可愛さと美しさ、鋭さ、冷たさが兼ね備えられている。
いたって普通の顔だった。
目玉が三つあるわけでもなく、眉毛が三本でも、両津勘吉のように繋がっているでもない。
団子鼻じゃないし、ニキビだって見当たらない、つるっとした肌。
薄い唇も、キュッと引きつって恐ろしげだけど、割れているでも、異常にプルンとしているわけでも、カサついているわけでもなかった。
例えるなら、ぷっくりしていない日本人形の顔だ。
一重ではなく二重まぶたであるという違いもあるけれど、概ね、印象はそんな感じだった。
……ふと、自分の肩のあたりが気になった。
黒い、ロングストレートの髪が流れたセーラー服の左肩のあたり。
そこに目を向けてみると、一つ、小さな手が乗せられているのに気がついた。
私の目が見開いたのを、鏡越しに視界の端で捉えた。
心臓がばくばくとなるのが聞こえた。
その手は、あの日私が線路を越えようとしたときの恐怖だった。
たとえ日常から目が覚めても、覚まそうとしても、あの恐怖が日常に縫い付けるのだ。
それがわかって、それが嫌で、嫌悪感で胸がいっぱいになって、私は個室に駆け込んだ。
口から、「現実」と書かれている唾液に濡れた紙が、とめどなく吐き出されていた。
──場面転換。
世界はすっかり暗くなっていた。
暗雲が立ち込めて、「道標」と張り紙された街灯だけが、チカチカと夜道を照らしていた。
私は道標を歩いた。
黒いアスファルトの道を、茶色のローファーでカツカツと音を鳴らす。
その音は快活というわけでもなく、別に暗いというわけでもない。
ただ淡々と、家路に沿って、回っているだけ。
……ふと、橋の上に連なる街灯が、一箇所だけ光を消しているのが見えた。
きっとこれは、「道標」を外れた子なんだと、なんとなくそんなふうに思った。
そんなふうに思うと、少し羨ましかった。
街灯には、張り紙がなかった。
「……あ」
小さな声が、唇の隙間から漏れた。
気がついたのだ、たった今。
この道を外れた道標のお陰で。
なんだ簡単なことじゃないか。
どうして今まで気がつかなかったのか。
私はおかしくなって、笑って、夜の街に自分の鳴き声を響かせた。
車一つ走らない鉄橋の上で、くるくると回りながら笑い声を響かせた。
手に持った学生カバンを振り回して、笑いながら、思いっきり川に投げ捨てた。
「そうだ、そうだよ!
簡単なことじゃないか!
どうしてそれがわからなかったんだ!」
肩が重い。
のしかかってるのは恐怖や不安だ。
だけど、そんなものは目が覚める前からずっと背負ってきたものだった。
ただそれを自覚しただけだった。
今ではその重さも軽い羽のようだ。
まるで翼が生えた気分だった。
どこにでも飛べる気がした。
それでもこの翼を広げるには、このセーラー服は窮屈だった。
私はセーラー服のリボンをむしり取った。
むしり取って、川に投げ捨てた。
胸元のファスナーを引っ張った。
黒いセーラー服を脱ぎ捨てて、ブラジャーだけになった上半身を晒した。
スカートも捨てた。
下着はどうしようか迷ったけど、やっぱりこのままでも窮屈だった。
靴も、靴下も、ブラジャーも、ショーツも脱ぎ捨てて、川の中へ放り投げる。
それらは綺麗な放物線を描いて、ジャブンと大きな水柱をあげた。
私は私を、全てのしがらみから解放した。
背中に、大きな、とても大きな翼が生えた気がした。
──閑話休題。
気がつくと、私はあのプラットホームに立っていた。
誰もいないプラットホーム。
いつもは白い霧で満たされているのに、今日は夜空の中に星が浮かんで見えていた。
まるで世界が祝福しているように感じた。
自然と私の顔が笑顔に変わるのを口元に感じる。
……今なら、飛べそうな気がする。
私は背中の翼をはためかせた。
黒い翼だ。
夜空を纏うような、綺麗なカラスの羽だ。
数歩下がって助走をつける。
風がお腹を突き抜けて、まるで一体になったかのような心地よさが私の心を支配していた。
さあ、飛ぼう!今すぐに!
私はホームの白線を超えて、大きく大きく跳び上がった。
翼をはためかせて、地上の空気を押し付けた。
浮力と揚力が私の翼を助けて、あの夜空の向こうへ、霧の壁の向こうへと連れて行ってくれる。
翼の動かし方は、自然とわかっていた。
この気持ちが続く限り、私は永遠に空を飛び続ける。
あの霧の牢獄から解き放たれて、私は自由に、天に、空に舞うのだ!
あぁ、何て最高な気分なんだろう!
私は星明かりに向かって口を開いて、叫んだ。
「ハレルーヤー!」
私の声は、日常には聞こえない。
少し寂しくはあるけど、でも私はこの道を歩むと、空を飛ぶと決めたから。
空中でくるりと身を翻す。
最後にあの退屈な日常を笑ってやろうと目を輝かせて見下ろした。
しかしそこには、あの環状線は存在なんてしていなかった。
まるで元から、そんなものなんてこの世にはなかったみたいに、忽然と姿を消していた。
私は、それがなぜか当然のことと理解していた。
つまり、あれは幻だったんだってこと。
私はこの17年間、ずっと幻に囚われていたんだってこと。
だって、世界はこんなにも広い。
あのプラットホームだけが現実だなんて、そんなおかしな話、今となっては信じることなんてできなかった。
私は、少し小馬鹿にしたように鼻で笑うと、あっかんべーをして、再び夜空の世界へと翼をはためかせるのだった。
── ──────
『──えー、続いてのニュースです。
本日未明、◾︎◾︎県◾︎◾︎市の◾︎◾︎川で、女子高生と思われる水死体が発見されました。
えー、付近に共に流れ着いたと見られる学生証の写真から、この女性は◾︎◾︎高校に通う◾︎◾︎◾︎◾︎さん17歳で──』
目を凝らして。
よく世界を見渡して。
あなたは夢を見ているの。
ずっと、終わらない夢を。
頭の中の濃霧に洗脳されて、あなたは終わらない現実を見続ける。
さあ、目を覚まして。
霧の壁を突き破って。
現実を、幻を突き破りましょう。
あなたの、その黒い翼で。