フキコは我慢しないことにした
ラブラブカップルが異世界でもラブラブしてるだけの話です。
その一言を耳に入れた途端、フキコの中で何かがぷつりと切れた音がした。おそらく、堪忍袋とかそういうアレだ。
特別、その台詞がことさらに悪辣だったわけではない。内容としてはいつもの、平民風情が出歩いて王城の廊下を汚すなだの、コルセットも使わず品のない胸が娼婦のようだの、勇者に媚びを売ったところでお前の下劣な性根が白日の元になるだけだの、まあまあ好き勝手に妄想のはなはなだしい戯れ言である。
夜の仕事に就く母親をもつフキコは、その手の罵詈雑言は聞き飽きている。けれども、フキコはいささか人よりも行動のテンポが遅く、悪罵に対してぼんやりと考え込んでいる間に、だいたいの人間は飽きてしまうのだ。反応がないことほど、『お遊び』を白けさせるものはない。
それにフキコは、父親こそ生まれてすぐに鬼籍に入っているが、兄二人と姉一人の下に生まれた年の離れた末っ子だったので、それはもうかわいがられた。息をしているだけで撫でくり回されるくらいだ。最も承認欲求の強い幼児期から、構われないということがなかった。よって、自己肯定感だけはばりばりに満たされて大きくなったので、並大抵の悪口では怯まない。
しかしながら、たとえ塵芥のような些細なものでも降り続ければ溜まるのだ。
「……ちょっと用事ができた気がするので、失礼しますね~」
「――はあ!? 何を言、あっ、待ちなさい!」
フキコの身長は小さい。『フキコの世界』と、人間の体長はさほど変わりがなかったらしいこの世界においても、ちんまりして頬の丸いフキコはまるで年端も行かない少女に見えるらしい。さすがに十二歳と言われたときは詐欺で訴えられるのが嫌なので訂正したが。
その小ささを生かして、三人のお嬢様の間をするりと避け、早足で包囲網を抜け出す。お嬢様方も、フキコの護衛という名目でつけられていたらしい騎士服の青年も、よもや今までは大人しく俯いていたフキコが突如として行動に出るとは思っても見なかった様子で固まっていたが、我に返ると慌ててその背を追い始めた。
フキコは廊下を走らないの原則の元で競歩の速度だったが、名ばかり護衛の呼びかけを耳にして猛然と駆け出した。そも、あの護衛ぽい何かは、いつもフキコが小綺麗にした妙齢の女性にからまれるとただ脇に控えて静観していたので、彼もまたお嬢様方と同じ意見であるということはほぼ間違いない。
だいいち、フキコは別にデブではない。普通に腰部にはくびれだってある。この世界の女性が細さにこだわりすぎなのだ。コルセットがもたらす健康被害は『フキコの世界』では常識である。クジラの骨とかかわいそうだし。フキコの趣味のひとつは美食なので、摂取カロリーには気を使っているほうだ。
はしたなくドレスの裾をからげて爆走する女子に、まもなく近づいてきた扉の脇にひかえる衛士が得物を構えようとして、戸惑った顔になったのが見えた。何もかもを無視して、フキコはスピードを緩めずに、体当たりする要領にて肩で扉を突破する。
擬音にするならば、どばあん、という感じだ。
「何事だ!」
両開きの扉を開け放った先、円座になった人々が警戒もあらわにおのおの立ち上がる。まあ、正直、派手に扉を開け放つ必要はなかった。バーンと扉を開けるというモーションを一度やってみたかったというのが大きい。
フキコは並ぶ面々へとぐるりと顔を巡らせ、そのうちの一人のおもてをしっかりと見据えた。さぞかし、フキコの目は据わっていたことだろう。
「シューくん、勇者やめて」
怒鳴り散らした訳でもないのに、フキコの声はよくよく会議室内に響いた。
近年濃さを増した魔霧を抑えるため、勇者の遠征に関して話し合っていた場で、その中心たる青年はしっかとフキコと視線を合わせて、穏やかにうけがった。
「わかった。いいよ、フキちゃん」
刹那の沈黙の後、会議室は混乱の坩堝と化した。
そもそもの始まりは、二人で大学構内の学食にて、限定フレーバーのアイスを分け合っていた時のことである。
フキコこと黒見冨貴子と、シューくんこと網代木柊は、お付き合いをして3ヶ月目の絶賛ラブラブ期のカップルだった。とはいえ、交際にいたる前から頻繁にお互いの家を行き来しており、周囲から「紛らわしいからいっそ付き合え」と言われ続けた結果としてのお付き合いであるため、初々しさというよりもはや、縁側で茶を飲み交わす還暦夫婦の空気感だ。
フキコとシューくんは所属する文芸サークルにて出会った。ちなみに書く方ではなく読む方である。文化棟の外れにある部室に入ると、壁一面の本棚に圧迫される。年に一度の学園祭では、日の目を見ないマイナーな作家についてのプレゼンテーションが恒例だ。
いつもニコニコ穏やかな二年生のシューくんと、ほえほえのんびりした気質な一年生のフキコは、新歓の飲み会で顔を合わせてから同じ空気感がかみ合ったのか、共にいることが多くなった。一年ほど、仲のよい友人のような、仲のよすぎる兄妹のような関係を続けたうえで、理無い仲となった。
親交を深めるようになってから、どちらかといえば理系のフキコは、今まで理解ができなかった情念溢れる小説を読むようになったし、また食に頓着しなかったシューくんは、フキコのおすそ分けを待って雛鳥のように口を開けることが多くなった。
その日も、学食でたびたび入れ替わるアイスメニューのコケモモアイスがなかなかのヒットだと喜んだフキコが、本を読む彼氏のほほえんだ口元にせっせと給餌していた矢先に、それは起こった。
地震かな、と疑うような眩暈に似た揺らぎを感じた後、床が抜けた。さながら、いたずらで座っていた椅子を引かれたときのような感覚だ。
ひょえ、と声にならない悲鳴を上げかけたフキコの腰を、隣の席にいたはずのシューくんが掴み支えたおかげで、尻を打ちつけることは免れた。しかし、事態は無様に尻餅をつく以上に面倒なことになっていた。
「――一体、何?」
とっさに、衝撃で床に落ちてしまったアイスを切なく見つめていたフキコと異なり、先に周囲を確認した様子のシューくんから、聞いたことがないような硬質の声が吐き出されて、フキコは驚いて顔を上げ、眼前にしたものに二度驚いた。
そこはすでに、慣れ親しんだ学食の窓辺ではなかった。蛍光灯がなく、壁際にちろちろとかぎろったろうそくの明かりでのみ照らされた薄暗い部屋にて、床に膝をついたフキコとシューくんを見下ろす人々がぐるりと取り囲んでいた。
壮年のおじさま方に雁首揃えて凝視される機会などなかなかない。ひえ、と再び音無き悲鳴をのどで殺したフキコの肩をぐっと引き寄せたシューくんは、常の柔らかな笑みを消し去った無表情で彼らを睥睨する。
対して、なんだかコンセプト型テーマパークの職員のような、装飾過多にしてかっちりした詰め襟を着込んだ謎の人物たちは、いささか戸惑ったように顔をゆがめ、ひそひそと小声でなにがしかを相談し合った。
なんで目の前で話し合うんだろう、どこかにいってからやってほしい……、とのん気なフキコがぼんやり考え始めたころ、人垣からひとりが進み出て、二人と視線を合わせるように膝をつき、頭を下げて、言った。
「……勇者様、どうか、我らの世界をお救いください」
目を白黒させたフキコの横で、ふっと短く息を吐いたシューくんがささやく。
「なんか、世界を救わなくちゃいけないみたいだよ、俺たち」
「えっ、タンスを開けてもないのに!?」
反射的に飛び出た不満げな響きに、シューくんはようやく、こわばった頬を和らげて笑みこぼした。
正確には、俺たち、ではなかった。喚ばれたのはシューくんだけで、フキコは完全なるオマケ、お荷物であった。召喚する側がシューくんに狙いをつけた際、二人がはいアーンというバカップル極まれりな行為に勤しんでいたがために起こった悲劇だった。フキコとしては、たった一人でよくわからない世界にシューくんを渡らせることがなくてよかった、というところだが。
どうも、この世界では、世の中の悪い気的なものが澱となって、百年前後に一回ほど、世界に穴を開けるらしい。その悪い気のことを、一般的に魔霧と称する。
魔霧が大量に大気に満ちるようになると、人間たちは精神の安定を崩し、争いが増加する。獣たちも生体の限度を超えた異常個体に成長して、凶暴化し人々を襲うようになる。放置するとろくな事にならない。
その大地に穿ったやっかいなオゾンホール的な何かを破壊するため、定期的に外の世界より聖剣に適した人間を呼び込んでいるとのことだ。今回はシューくんがそれに当たり、ホールにソードをブレイクさせて世界を救ってほしいと。
フキコとしては、こちらの都合も聞かずにシューくんを無遠慮に呼びつけたことも、さらに当然のように役目を押しつけてくることも、完成した提出前のレポートを手放さざるを得なかったことも、おいしいアイスを台無しにされたことも、何もかも不快でしょうがなかったのだが、役割を果たせば元の世界に帰還させる、と告げられたので、シューくんと今後の方針を話し合った際に、いやいやながら彼らの言い分に従うことに一票を投じた。
あまり不機嫌になることの少ないフキコの珍しい表情をまじまじと見つめた後、シューくんもこくりと頷いて同意してくれた。
さてさて、本来喚ばれるはずのなかった存在を持て余している感は、初めからビシバシと感じていた。フキコもシューくんと共に王城に身を寄せることとなり、衣食住は賄われたが、あとはほぼ放置であったので、この世界についての勉強に訓練にと慌ただしいシューくんの後をついて回る日々だった。
どこにいっても、シューくんを歓迎する中で、なんでこいつまでここに、という視線を向けられたものだが、フキコは親しい人間以外からの評価をどうでもいいと切り捨てる面があったため、シューくんの後ろ姿を眺め、時には舞い遊ぶちょうちょに意識を逸らしつつ、比較的のんびりと過ごしていた。
まあ、それもつい先ほどまでの話だが。
「無礼な!」
「突然飛び込んできて勝手なことを!」
「誰かこの女をつまみ出せ!」
わやわやと騒々しいさまに、フキコは眉をひそめた。無礼というなら前触れなく二人を地面に落っことした彼らの方が無礼だし、関係のない世界を救えだとか勝手なことをのたまうのも彼らだし、言われなくてもさっさとこの場から立ち去りたい。シューくんと共に。
思い思いにフキコを罵る傍ら、別の人々は勇者であるらしいシューくんにおもねるような笑みを浮かべ、衝撃の宣言を撤回させようとやっきになっている。
「勇者様、先ほどのお言葉はお戯れでありましょう?」
「我らをお見捨てになるのですか?」
シューくんは、そのすべてを黙殺して、傍らに立てかけてあった聖剣を取り上げた。フキコより頭二つ分は背の高いシューくんの、さらに腰ほどまである刃渡りの大剣を、こともなげに持ち上げた彼は、縋る手のひらをむげに打ち払い、会議室の柱の中で一番太いそれの前まですたすたと歩み寄った。何のためらいもなく、剣を振り上げ、振り下ろす。
「う、わッ」
たちまち、柱にはふかぶかと亀裂が奔った。
どおおおん。部屋どころか、城全体を揺さぶる衝撃に、会議室内の人々はたまらず転倒した。
「――黙って」
牽制の一声が低く落ちた。
若造が生意気なと反発することは容易だったが、再び肩口まで掲げられた剣先は、いつでもこの柱をがれきに変ぜられるのだぞと示していたため、咄嗟にみな口を噤んだ。
どたばたと床に這いつくばるもののうち、もちろん身構えてなどいなかったのでついでにすっころんだフキコにのみ、気遣わしげな視線を寄越したシューくんである。
「でもいいの、フキちゃん。帰れなくなるかもしれないよ」
打って変わった優しげな声音の確認に、フキコは事も無げに口を開いた。
「うーん、あのねえ」
「うん」
「フキコ、考えたんだけどねぇ」
「うん」
「ここの人たち、約束なんてさぁ、守ってくれるとは限らないよねぇ」
「貴様! 我らを侮辱するか!」
怒声にフキコが肩を竦めたのは、ただ単にうるさかったからで怯んだわけではない。しかしながら、いかにもおさなげなフキコがさらに身を小さくすると、他人の目にはずいぶん頼りなく弱々しく映るようで、勢いに任せたお偉方が息を吹き返したようだ。
「勇者様の付属品の分際で……!」
「今まで城内に置いてやった恩も忘れて、言うに事欠いて何という」
「やはり初めから処分するべきだったのだ!」
ギャワギャワとよく鳴く彼らを黙らせたのは、やはりシューくんであった。
柱ではなく、会議に用いていた円形の机へと、無造作に剣を叩きつける。天板の木面が砕け、弾け飛び、机全体がぐわんと揺らぎたわみ、机の足が床に沈む。びきびきびき……!とひび割れる床石の悲鳴が嫌な感じに響き渡り、誰もが身を竦めた。床が抜けてしまっては大惨事だ。
「びっくりしたね。ごめんね、フキちゃん」
ぱらぱら、と破片を振り払いながら、つまらぬものをたたき切ってしまった刀身を引き寄せ、シューくんはふうと息をつく。
「ううん、あの、えっとね」
「うん」
フキコは話すのがあまり得意ではない。取り留めなく散る思考をたぐり寄せながらの間延びした話し方と、なかなか直すことのできない一人称に、少し頭の足りない子なのではないか、と周囲に思われながら育ってきた。
フキコとて色々と考えてはいる。それでも、よく知らない人間から、フキコの話など聞く価値もない、と切り捨てられることもしばしばだったのに、シューくんは初めから傾聴する姿勢でいてくれた。ゆっくりと相づちを打ち、話を促してくれるのが、一番初めに好きになったところかもしれない。
「ここの人たち、少なくとも、フキコたちを帰す気はないと思う」
「それ、ちょっと俺も思った」
「やっぱりぃ?」
ふたりは顔を見合わせて、ふはっ、と笑気をこぼした。素敵な物語に出会ったときや、おいしい食事を見つけたときなど、相手も同じ意見だと気付いたときにいつのまにか癖になっていた行動だ。
勉強も訓練も、違和感しかない。
ある程度の言語表記の学習なら、まだわかる。しかし、この国の成り立ちであるとか、歴史であるとか、そんなものが「すぐいなくなるはずの人間」に役立つと思うのか。そんなことに時間を使うより、さっさと旅立たせた方がいい。魔霧は人間を害するとはっきりしているのだから、祓うのは早ければ早いほどいいに違いない。
それに、聖剣を勇者が用いれば魔霧は払われるとわかっているのに、兵士を相手に白兵戦の訓練を行う意味が無い。凶暴化した魔物は誰でも倒せるのだから、それに対処する訓練とも言いがたい。
極めつけは、王女が勇者にしなを作るところだ。勇者としての仕事をこなすよう、協力を求めるために、好意を抱かせるのは確かに無駄ではないだろう。相手が男ならば、女を用いるのが絆しやすいと判断されたのか。しかも王女は、ことあるごとに「自分の方がふさわしい」という意図での威圧をフキコに向けてきた。たった一時逗留するだけの人間に対しての言動と考えるには、あまりに熱心にすぎる。
恐らく、この国は勇者を軍事面で利用しようとしている。勇者を呼んだにも関わらず、魔霧を解消させないのは、周辺国からの援助金等をつり上げているのかもしれない。勇者についてはこの国へ恩義や愛着を持たせて、他国への牽制のために留め置くつもりだろう。
「フキコね、このままだと多分、シューくんたちの旅についていけなさそうだしさぁ」
「できる限り頑張るけど、そうなりそうだよね」
「それくらいなら、帰れなくていいかな、って思ったんだぁ」
恐らく、邪魔者であるフキコは勇者の旅に同行できない。そして、シューくんの目がなくなれば、邪険にしているオマケをこの国の人々がどう扱うのかなど、わざわざ想像を巡らせなくてもわかる。よくて放逐、悪くてそれこそ『処分』だろう。だって、この国が勇者を縛りつけたいと思っているのなら、里心をつかせるような同郷の人間など、さっさと排除したいはずだ。
『フキコたちの世界』に、帰りたくないのかと言われたら嘘になる。けれども、存在しているかもわからない帰還術のために、命を投げ出すほど、未来に絶望はしていない。
ひとりなら、もしかしたらわからなかったかもしれない。でもここにはフキコと、シューくんがいる。
失うものは大きいし、まったく納得はいかないし諦めきれないけど、ふたりだったら、共にいられる日々を選ぶ。当たり前のことだ。
「帰れないかもしれないけどぉ……」
「うん」
「来ちゃったからには、しかたないから」
「そうだね」
「二人で勝手に、幸せになっちゃおうよ」
「俺も、賛成だ」
フキコと、シューくんは、もう一度笑みを交わした。
シューくんがフキコに駆け寄り、引っ張り上げて立たせる。元の世界ではシューくんは細身だったし、別段鍛えてもいなかったのだけど、喚ばれた『勇者』には何らかの特典がつくらしく、今や大剣をもかろがろと扱うような怪力と、軽業師のような身体能力を有している。
「じゃあ、とっとと逃げようか」
「勇者様!」
シューくんがいつものやんわりした声でささやくと、さすがに黙ってはいられなくなったらしいお偉方から悲鳴のような呼びかけがあったが、シューくんはやはりことごとくを無視して、勇者の膂力で小柄なフキコを肩に抱え上げる。
「――あの女を殺せ! あの女は世界に仇なす魔女である!」
裏がえった声で弾劾を叫ぶのは、確かフキコには数えるほどしか謁見を許していない、この国の最高責任者のはずだ。
フキコが振り返る前に、シューくんはろくろく背後を見もせず、壁面へ聖剣を投擲する。そのまま、開け放たれた扉を大股でくぐり抜けた。
一拍遅れて、どおおん、という衝撃音と、ガラガラバラバラ、すさまじい何かの倒壊音と、複数の悲鳴や叫声が甲高く轟いたので、さすがにフキコも目をぱちくりとさせた。
「ええっ、なぁに?」
「うん、あの部屋の柱ね、この建物自体の支柱の一つだったみたいなんだ」
背後から波のように伝播する崩壊に、ゆがみたわむ床にも阻まれることなく、ひょいひょいと身軽に跳んで避けるシューくんは、息さえ荒げずに答えた。
「だからまあ、柱が折れたら崩れると思う」
「わあ……」
「大丈夫。その前に逃げよう」
「……うん……」
思考の回転が遅いフキコが、シューくんの肩の上で立て続けに起こった色々を消化しているうちに、シューくんは混乱する城内の人々を尻目に厩へと辿り着き、てきぱきと設置した馬具にフキコをそっと乗せた。
はっとしたフキコがいつの間に!と瞬くのも待たず、あぶみに足をかけ、フキコを抱えるように鞍に腰掛ける。
「こんなこともあろうかと、用意しててよかった」
「こんなこともあろうかとぉ……?」
腹の前に座らせたフキコを上から覗き込み、シューくんはキツネに似たつり目を和ませて微笑む。
「……シューくん、こうなるってわかってたのぉ?」
「一応ね、準備だけは。フキちゃんと離れないように頑張るつもりだったけど、無理だったらいつでも逃げ出せるようにしてたんだ」
備えあれば憂いなしだね、とおっとり言いながら、片足で馬の胴を軽く蹴って歩ませ始める。
「フキちゃんがどっちを望んでもいいようにね」
背後の王城では、いよいよ盛大に建物が崩れ落ちる地響きが、人々の不穏にざわめいた恐慌と共に天幕を揺らしていたけれども、フキコにはすべて別世界の出来事にしか思えなかった。いつものように微笑むシューくんの顔ばかりがフキコのリアルだ。
「……すき……」
フキコは物事をあれこれ考えがちなたちだが、時には脊髄反射で心の声が漏れてしまうこともある。
脳で考える前にこぼれ落ちた言葉がフキコの耳にも届いた瞬間、かっぽかっぽと揺れていた馬足が止まり、長い指でおとがいを摘ままれた。
閉じることを忘れたフキコの唇が覆うように柔らかなもので包まれ、はむはむとついばみ遊ばれる。
「俺も」
吐息を漏らす程度の僅かな隙間だけ離れた口唇が応えた。顔があまりにも近くて、見て確認することはできないけれど、きっとふたりは同じ笑みを浮かべている。
素敵な物語に出会ったとき。おいしい食事を見つけたとき。あなたとおんなじ気持ちだと、互いに確信した時のほほえみ。
急がなければいけない旅路だということも忘れて、もう一度唇が重なろうとしたとき、突如シューくんの体ががくんと傾き、キスはフキコのほっぺに落ちた。
「んむっ?」
「……戻ってきたみたい……」
シューくんはげんなりと呟きながら屈んでいた上体を起こした。いやそうな目がちらりと睥睨するのは、腰に差した革製の鞘だ。つい先ほどまでは空だったはずのそこには、ずっしりと重たげな大剣が収まっている。
「手放しても追ってくるって、聖なる剣じゃなくて、呪われてるんじゃないかな……」
「これって、国宝を盗んだことになっちゃうのかなぁ」
シューくんが諦めたように手綱を握り、再び揺れだした馬上で、フキコが心配そうにきらめく聖剣を見下ろす。
「別に、あの国は管理してただけなんだから、盗みにはならないよ。そもそも、勇者自体はどこかの国に帰属するものでもないみたいだし」
「そっか。そういうことにしておかないと、国家間で競争になっちゃうもんねぇ」
一国家が軍事力になりうる勇者を独占したのでは、国際問題に発展する。だから彼らは、勇者自ら国を選ぶように、婚姻で縛りつけておきたかったわけだ。
「『勇者』した後には、追跡機能が止まることを祈るしかないな」
ニコニコ朗らかな表情がデフォルトのシューくんだが、投げ捨てても池に沈めてもストーカーしてくる聖剣には忌々しげな目を向けている。とっとと手放してしまいたいという態度を隠さない。
もしも、生涯この剣がシューくんにつきまとうのなら、いつか屋根裏や地下倉庫へこっそり隠した剣を前に「あなたの父さんは昔勇者をやっていたんだよ」と生まれた子どもに話す日が来るのかもなあ、とほやほや考えたフキコだ。
王城からの逃亡という大事件へ身を投じながら、未来を思うことはなんだかたまらなくおかしくて、ウフフとのん気に笑ってしまったのだった。
黒見冨貴子:社会適合性の低いタイプの天才。片親と兄弟達に愛されて育ったので、いくらけなされてもへこたれない不屈の精神を持っている。
網代木柊:フキちゃん曰く、「絵本に出てくるいいキツネみたいな顔」。いつもニコニコしているのはつり目の一重で人相がよくなくて「何か怒ってる?」とよく聞かれるから。
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