[高梨]
ざあざあと。
心をかき乱されるほどの音を立てて、雨が降っていた。
傘をさして歩いていても地面に叩きつけられて跳ね返った雨滴で足元はぐっしょりと濡れ、体全体がむせ返るほどの湿気を吸ってじっとりと重い。
こんな日にはなるべくなら外に出たくないものだが、俺は何の冗談かこの雨の中、しかもとっぷりと暮れた闇の中を掻き分けるようにして歩いている。
夜の雨ほど嫌なものはない。つくづくそう思う。
静まり返った夜なら、あるいは雨でもそれなりに視界が利く昼ならまだしも──真っ暗な中で雨の降る音だけを聴いていると、その騒音の裏側に紛れて何か悪いものが近寄って来るような気がしてくる。
鬱鬱としてそんな事を考えているうちに、俺は目的地にたどり着いた。
古い一軒家である。洋館といった雰囲気で、洒落たデザインではあるのだろうが、暗い中ではどこか不気味なものを感じさせる。
門についたチャイムを押すと、十秒もしないうちにドアが開いた。
「よう、高梨。こんな雨の中悪かったな」
旧友の藤尾が笑みを浮かべて俺を招き入れた。
「こんな大雨になるとは、家を出た時には思ってもいなかったよ」
俺は藤尾に向けて苦笑を返した。
「超能力ってあるだろ?」
部屋に通されて椅子に座った途端、そんな言葉を投げかけられた。
戸惑いながらも俺は答える。
「超能力って……透視とか瞬間移動とか、そういうやつか?」
「そう、それだよ」藤尾は頷く。「お前、ああいうのって信じてるか?」
「いや、信じないな」
少々つっけんどんな言い方になってしまったかも知れない。しかし藤尾は気を悪くした風もなく、そうか──と顎を引いた。
「まあ、仮定の話だと思ってくれ。仮に、ここに一人超能力者がいるとする。能力は──まあ、全部だな」
「何だよそれ」
「全部だ。何でもできる。まあ仮定の話だからな、いわゆる『普通の人間を超える存在』程度に漠然ととらえてくれればいい」
「あ──ああ」
ここまではいいな、と言って藤尾は姿勢を正す。
「さて、この超能力者を殺すにはどうすればいいと思う?」
どきり、と心臓が高く鳴った。
「殺す? いきなり不穏な話だな」
「悪いな、変な話して」藤尾はにやりと笑った。「大して意味のない思考実験かもしれない。しかし、考えてみると面白くないか? 限られた条件下──この部屋の中で超人と相対した時、どうすればそいつに対抗しうると思う?」
「見当もつかないな」
「そう急がずに、可能性を検討してみろよ」
「椅子を投げるとか」
「念動力でバラバラにされるだろうな」
「じゃあ一旦隙を突いて逃げ出してどこかに隠れるとか」
「隠れても透視で見つかるぜ」
「一目散に逃げるしかないじゃないか」
「瞬間移動で追いつかれてアウトだろう」
「じゃあ、どうしようもないじゃないか。殺すどころか、こっちが簡単に殺されて終わりだ」
「そうなんだよなあ」藤尾は頭に手を当てた。「俺も、どうやっても解決策を思いつけずに悩んでるんだよ」
「悩むほどのことでもないだろ。ただの遊びなんだから」
「まあそうだがね」
藤尾はそう言った後、何やら意味ありげに笑った。
ざあざあと、相も変わらず雨が降っている。
「高梨。恵美と結婚するんだってな。式はいつなんだ?」
「あ、ああ……来月だ」
「ってことは、もう段取りは大方済んでるんだな。俺のところに招待状を送ってこなかったな……寂しいじゃないか、新郎と新婦の共通の友人だってのに」
「す……すまん。別に悪意があったわけじゃないんだが……その」
「いいよ、わかってるよ。お前の気持ちは手に取るように分かる」藤尾は俺の目をじっと見ながらゆっくりと言った。「結婚式という場に俺を呼び辛かったんだよな? 何しろ……大学時代に、俺の彼女だった恵美を寝取ったという負い目があったからな」
「……藤尾……」
藤尾はじっとこっちを見つめている。
その暗く落ち着いた眼は──冷静なんかじゃなく、極低温の悪意を沈殿させていた。
嫌な予感がした。とにかく、何か話さなくては。
「違うんだ。そんなんじゃない……お前は勘違いをしてる」
「…………」
「まず、恵美がお前と別れるまで、俺と恵美の間にお前が疑っているような関係はなかった。お前達が別れた後で、俺達は」
「随分と、都合のいい話だな。説得力に欠けるぜ。俺はちゃんと知ってるんだ──まだ俺と付き合っていた頃から、恵美はちょくちょくお前と二人きりで会っていた。あの時もうお前らはできてやがったんだ」
「そうじゃない。恵美は相談をしに来ていただけだ。それだけだ」
「はっ、苦しい言い訳だ。大体、その時お前ら二人が何でもなかったってんなら、恵美はどうして彼氏の俺じゃなく単なる友達のお前に相談を持ちかけたって言うんだ? そういうことは親密な方に話すもんだろうが。それとも何か? 俺に不満があったから俺には話せなかったとでも?」
「それも違う。恵美とお前のカップルは円満だった。確かに、普通なら恵美は俺なんかじゃなくお前に相談していただろう。でも、そうできない事情があったんだよ。つまり……」
俺はそこで言い淀んだ。
藤尾は誤魔化しは許さないと言わんばかりに目を光らせている。
「つまり、恵美と俺の間には共通の秘密があったんだ。」
「ほう、何だよその秘密ってのは? 言えよ」
「い、いや……それは」
俺は口ごもった。
すべてを見透かしているという目で、藤尾はねめつける。
「今の話が責任逃れのための出まかせでないと言うんなら、秘密とやらを言ってみろよ。ええ? それともその秘密はよほど言いにくい特殊なものだとでも言うのか? さあ、答えろよ。いいか──俺はすべてわかってるんだからな」
「すべて──わかって」
嫌な予感が膨れ上がる。
本題に入る前に──わざわざあんな話をしたのは、このためだったのか。
超能力者と二人。
殺す方法。
何を──しても。
「おい高梨、俺はお前に最後のチャンスを与えてるんだぜ。一応、かつては友人だった男だからな。でもお前が俺の誠意を無碍にすると言うなら」
藤尾が低い声で唸るように言う。
その眼はぎらぎらと異様な光を発している。
「殺すぞ」
しばらく沈黙が続いた。
藤尾は何も言わない。
俺も何も言えない。
ただひたすら、今日ここに来た事を後悔していた。
「二年の時のスキー旅行……憶えてるか?」
ややあって、ぽつりと藤尾がそう呟いた。
どくん、と心臓がひときわ大きな音を立てる。
「忘れるわけ……ないだろ」
「そうだよなあ、忘れるわけない」藤尾は愉快そうに口角を吊り上げる。「何しろあの旅行で俺とお前、そして恵美──三人は遭難しかけたからな」
憶えている。
当時所属していたサークルの旅行でスキーに行った。三人で行動していた俺達は、急に始まった吹雪のせいもあって集団からはぐれてしまったのだ。
「あの時はもう駄目かと思ったよな。でもさあ──突然、岩が砕けたよな」
当時を思い返すように宙を見ていた藤尾が、不意にじろりとこっちに視線を戻す。
冷汗が顎を伝うのを感じた。
「ちょうど切り立った急斜面に挟まれた形の大岩が、何かぶつかったわけでもないのに崩れ出した──そこから見えた景色は今でも忘れねえよ。遠くに山小屋が見えた。あそこを通れたから俺達は助かったんだ」
藤尾は身を乗り出す。
鼻先がくっつきそうなほどに顔を近づける。藤尾の瞳の中に、顔面蒼白になった自分が映った。
「簡単に岩をも砕く──あれが超能力だったらとても恐ろしいと、お前そう思わねえか?」