九話 魔女との契約 後編
これが、ラストです。
本当は、前の話でラストの予定だったのですが、そうするとちょっとかわいそうな出てくるのでこれをラストに持ってきました。
私はヴィルヘルム皇帝陛下の申し出を断わった。
対してヴィルヘルム陛下は怒り、軍を差し向けるような事を言った。
それは脅し文句ではなく、あの皇帝はやると言えばやるだろう。
スターリ領にあるこの森への行軍は明確な侵犯行為である。
しかしながら、最大の軍事力を誇るゴルト帝国より圧力をかけられれば、スターリがそれを看過する可能性は十分に考えられた。
もしかしたら、守ってくれるかもしれないけれど……。
私のために六国同盟に亀裂が入るかもしれないというのはあまり良い気分じゃない。
守ってくれなくとも、下手したらどうとでもできるかもしれないが。
私は私なりに争いを避ける手を先に打っておこうと思った。
それも早い内。
ヴィルヘルム陛下が国へ帰りつく前がいい。
ヴィルヘルム陛下が帰った後、日が落ちてから私は出かける事にした。
「ゲオルグ。少し出かけてきます」
「はい。かしこまりました」
ゲオルグに留守を任せ、私は家を出た。
魔法によって飛翔し、方角を確認する。
ゴルト帝国、帝都の方角だ。
馬でも、五日はかかる距離だ。
けれど、飛翔の魔法ならば一時間もすれば辿り着ける。
風除けにバリアを張り、ゴルトの帝都へ向けて飛んだ。
一時間後、帝都に到着する。
帝都の上空で留まり、目的の場所を見る。
ゴルトの皇城だ。
スターリの王城も大きかったが、ゴルト帝国の方が二倍ほど大きい。
私は外から皇城を眺める。
しかし外から見ても、目当ての人物は見つからない。
私は、適当な窓から中へ侵入する事にした。
「いんびじぼー」
唱える必要はないが、なんとなく唱えて魔法を発動させる。
透明化の魔法だ。
これをかければ、私の姿は透明になって他の人間から見えなくなる。
難なく城内に侵入する。
一人で廊下を歩くメイドに、魔法をかける。
精神を操るタイプの魔法である。
魔法使いには効きにくいが、一般人にはよく効く程度のものだ。
「皇太子殿下の部屋はどこ?」
「この上の階。一番北側にある部屋です」
歩きながら、夢うつつのような焦点の合わない目で彼女は答えてくれる。
「ありがとう」
「……あれ?」
メイドは一度困惑した様子で立ち止まったが、すぐにまた歩き出した。
教わった部屋へと辿り着く。
中へ入る。
部屋の中は薄暗かった。
明かりはあるが、それは三股の燭台が一つだけだ。
その蝋燭の光に照らされて、ベッドに眠る一人の青年の姿があった。
彼が皇太子。
ゲオルグのお兄ちゃんか。
ベッドまで近付く。
その足音に気付いたのか、皇太子は目を開けた。
「誰……?」
か細い声で、皇太子は訊ねた。
「魔女、ベルベットと申します」
「魔女? 僕を、迎えに来た? 僕は、死ぬの?」
「私は死神ではございません」
答えると、皇太子は私から視線をそらした。
「僕の弟は、かつて魔女にさらわれて亡くなったと訊いた」
ヴィルヘルム陛下め。
ゲオルグを死んだ事にしていたのか。
「やはり、ご病気なのですね」
「……ああ。重病だ。次第に体が重くなって、体中に力が入らない。手が痺れ、足も萎えて今はもう立てないし、目も段々見えづらくなってきてる。あとはもう、じっと死ぬのを待つだけだよ」
ゲオルグの推測は当たっていたらしい。
ヴィルヘルム陛下は、後継者である皇太子が死ぬかもしれないからゲオルグを迎えにきたのだ。
ゲオルグを新しい後継者とするために。
「私は、あなたの体を診るために来たのです」
私がここへ来た理由は、この皇太子の容態を診る事だ。
そして私のできる範囲の事で治療が可能なら、治療する。
ヴィルヘルム陛下がゲオルグを必要としたのは、皇太子殿下に死の影が付き纏っているからだ。
なら、その死の影を追い払えばゲオルグを必要としなくなる。
そうなれば、ヴィルヘルム陛下も私の家を攻めるなどという事もなくなるはずだ。
しかし、念のために……。
「僕を、治してくれると?」
「それが可能かはまだわかりません。しかし、私があなたの治療に成功した暁には、いくつかの約束をしていただきます」
「……わかった。命を助けてくれるなら、僕にできる範囲の事をすると約束しよう」
「では、お名前をいただきたい」
「リヒャルト。リヒャルト・フォン・コバルトゥルム」
「ベルベットです」
私も改めて名乗り、リヒャルトくんの小指に自分の小指を絡めた。
「嘘吐いたら針千本飲ーます。指切った」
日本語で唱える。
契約の儀式完了。
形式的なものでしかないけど。
「契約は成立ですね」
私は早速、リヒャルトくんの体を診る事にした。
と言っても、彼を裸に剥くわけでなく、魔法によるスキャンを体にかける。
そうしながら、問診する。
「病はいつ頃から?」
「思えば、軽い症状は一年程前からあったかもしれません」
「なら、それから徐々に体調を崩していったという事ですね」
リヒャルトくんは頷いた。
スキャンも完了する。
目に見える異常はないように思えた。
私も医者では無いから詳しい事はわからないけれど。
さっき聞いた話では、体が重くなり、力が入らないそうだ。
立つ事ができない程に足が弱り、視力も落ちている。
これは妖怪の仕業だろうか……?
人を病にする妖怪と言えば、まっさきに思い浮かぶのは恙虫。
次に甘酒婆だ。
しかし、恙虫は実際の所ダニによる感染症が原因ではないか、と言われている。
なら、甘酒婆の方か……。
「殿下。城に、甘酒が欲しいと言ってきた老婆はいませんでしたか?」
「そもそも甘酒がわからん」
「お酒です」
「飲んでみたいものだ」
リヒャルトくんの表情が緩む。
お酒が好きなのかもしれない。
元気になったら作って持ってこよう。
米麹があるので作れる。
と、そんな話じゃない。
たとえ妖怪の仕業だったとしても、今は病を治す事に集中しよう。
なってしまった物はもう致し方ない。
治療した方が早いだろう。
しかし、これは何の病なのだろうか?
考え込んでいると、部屋のドアが唐突に開いた。
「殿下、お体を拭きに……だ、誰ですか!?」
部屋に入って来たのは、十五かそこらの可愛らしいメイドだった。
私の姿に気付いて驚く。
騒ぎを起こされても困るので、魔法で彼女を部屋に引き込んだ。
同時に扉も閉め、メイドの口も塞いだ。
魔法によって体の自由を奪われた状態で宙に浮き上げられ、メイドは怯えた表情を作っている。
メイドを近くまで引き寄せる。
近付いてくると、目じりに涙が滲んでいる事がわかった。
身動き取れない上に、声も出ない。
その上で謎の人物に迫られる(迫ってきているのは彼女の方だけど)。
それは恐ろしい事だろう。
申し訳ないな。
「ご安心を。私はただ、皇太子殿下の病状を診ていただけです」
「その通りだ。安心するといいよ。アンネ」
誤解を解くために言うと、リヒャルトくんも私をフォローしてくれた。
その言葉に納得したのか、アンネと呼ばれたメイドは体の強張りを解いた。
私も魔法の戒めを解く。
「さて、私は魔女ベルベット。殿下の病を治すためにここにいます」
「私は、アンネと申します。リヒャルト様の身の回りのお世話をさせていただいております」
アンネちゃんはまだ少しおっかなびっくりの様子ではあったが、私に対して自己紹介を返した。
「あの、リヒャルト様は治るのでしょうか?」
「それはまだわかりませんが。できる事はするつもりです」
「お願いします」
アンネちゃんは深く頭を下げた。
しかし、世話役か。
他にもいるのだろうか?
また誰か入ってこられても困るな。
「アンネさん。他の世話役の方は?」
「おりません。私一人です」
え、そうなの?
王族の世話係と言えば、何人もいるものだけど。
私の時もそうだったし。
私の沈黙に、考えを察したのだろう。
彼女は目を伏せて言葉を続ける。
「ほんの二ヶ月前までは、多くの側仕えがおりました。けれど最近は……リヒャルト様の病状が酷くなってからは、私だけになったんです……」
「そうなんですか?」
「はい」
彼の回復に見切りを着けたって事なのかもしれないな。
「なら、今一番に殿下の事を知っている人間はあなたという事ですね」
「僭越ながら……」
彼女は控えめに答えた。
「一生懸命な子だよ。健気に尽くしてくれる、いい子だ」
「殿下……。勿体無いお言葉です」
リヒャルトくんの言葉に、アンネちゃんは顔を上気させた。
「ただ、ちょっと失敗が多いかな」
「申し訳ありません」
まぁ、いい。
それより。
「アンネさん。殿下の事でいくつか教えてください」
「はい。尽力致します」
私は、アンネちゃんにリヒャルトくんの事をいくつか質問した。
何度か話を訊いている内に、リヒャルトくんの食生活の話になった。
「リヒャルト様は、肉よりも魚を好まれます。それも少量で、殆どの食事は野菜で賄っています。あと、お酒が好きで……」
「お酒が好きなんだ」
やっぱりね。
そんな気がしたんだ。
「はい」
答えたアンネちゃんは困った顔をする。
どうやら、かなり飲む性質のようだ。
ちょっとゲオルグの顔を思い出した。
今の彼女の表情は、ゲオルグがお酒を嗜める時の表情に似ている。
「ちなみに、何を飲んでいます?」
「ワインも好きだけれど。特に黒ビールが好きだよ。ニシンの油漬けと合わせて食べるのが大好きさ」
「いいですねぇ」
心から共感する。
彼とは美味い酒が呑めそうだ。
元気になったら、是非飲み友達になってほしい。
「でも、リヒャルト様は度が過ぎています。最近では、食事を削ってまでお酒を飲んで……」
こんな状態で?
死にたいのだろうか?
……気持ちはとてもよくわかるけど。
「ニシンの油漬けは食べているよ」
肴としてでしょう?
「いつ死ぬかわからないからね。だから、好きな物を今の内に楽しんでおきたいんだ」
「リヒャルト様は、いつもそう仰る……」
アンネは涙目になって呟く。
「体調を崩されたのだって、お酒を飲むようになってからじゃないですか……」
ん?
「それは、本当?」
「はい。リヒャルト様がお酒を飲むようになったのは、一年程前からです。体調を崩され始めたのも、その頃からです」
明らかに酒が原因じゃないか。
「でも、一時お酒を絶ったけれど、それでも体調は改善しなかった。だったら、関係ないよ」
「それは、そうでしたけど……」
リヒャルトの言葉に、アンネは渋々ながら同意する。
「一つ訊きたいのですが。リヒャルト殿下はお酒を飲まれた時、顔が赤くなりますか?」
「いいえ。お酒には強いのか、どれだけ飲んでもケロリとしています」
お酒を飲んで顔が赤くなるのは、肝臓がアルコールの毒素を分解し切れなかった時だけだ。
分解し切れなかった毒素のせいというわけじゃないし、顔が赤くならないなら肝臓がダメになったわけでもないだろう。
そして、一時禁酒をしたが症状は治まらなかった。
なら、酒が直接的な原因ではない。
では、何が原因だろう?
アルコールが直接的な原因でないとしても、呼び水となった可能性は十分に考えられる。
アルコールによって損なわれる要素……。
そして、損なわれる要素によって引き起こされる体の不調……。
いくつか思い当たるな。
スキャンによって、腫瘍の類でない事は確認済みだ。
ならば、あの病気かもしれない。
私の知る範囲では、症状が似ている。
「皇太子殿下」
「何?」
私が呼び、リヒャルトくんが返事をする。
「少し試してみたい物があります。そのために、アンネさんにも協力願いたい事があるのですが……」
私はある物を取りに、一度帰る事にした。
それから三日後の夜。
「これは、驚いたな……」
そう呟いたのは、ベッドの上で上体を起こすリヒャルトくんだった。
「ベッドに縫い付けられているかのように、まったく動かなかったのに……」
まだ弱々しさがあるが、それでもリヒャルトくんはしっかりと自分の力で起き上がる事ができていた。
それは、明らかな回復の兆しだった。
「リヒャルト様! よかった……」
アンネが目に涙を溜めて歓喜に打ち震える。
「これもあなたのおかげだな。ベルベット殿」
リヒャルト殿下は、そう言って私に笑顔を向けた。
「私だけの力ではございませんよ。この治療法は、アンネさんの協力あっての事です」
私がリヒャルトくんに試したのは、食事療法だった。
けれど、毎日の食事を私自身が用意するわけにもいかず、アンネちゃんにお願いしたのだ。
半信半疑ではあったが、この治療法で快復に向かったという事は私の判断は間違っていなかったのだろう。
「しかし、これはなんという病気だったのだ?」
「これは、脚気ですね」
脚気。
体の倦怠感、むくみ、手足の痺れ、視力低下などを引き起こす病である。
主にチアミン(ビタミンB1)の不足がその原因に当たる。
このチアミンは基本的に肉類、それも豚肉に多く含まれているが。
リヒャルトくんは偏食で、魚や野菜を好んで食べていたという話だ。
魚にもチアミンを含むものはあるが、殿下の好みとは合致しなかったのだろう。
それに、チアミンは水溶性。
アルコールによって排出頻度が高まると、同時に体外へ排出されてしまう。
ただでさえ少ないチアミンの摂取量に加え、酒を飲めば不足してしまうのは当然だった。
「聞いた事のない病気だ。それに、あれほど辛かった症状がこれだけの事で緩和するとは」
リヒャルトくんはそう言って、ベッド横の台を見た。
そこには、小さな皿がある。
皿の上には、野菜の漬物があった。
糠漬けである。
チアミンの欠乏。
それを解決したのが。
これだった。
この糠は、日本酒作りの際にお米から出たものである。
塩麹のほかに、作った物の一つだ。
糠にはチアミンが多く含まれており、糠漬けされた野菜にはチアミンが多く含まれるようになるのだ。
「本当は、豚肉もよいのですけどね」
「肉は苦手だ。これなら、肉が苦手な僕でも食べられる。何より美味しいし、毎日の食事にしてもいい」
「美味しい、ですか。それは、アンネさんが頑張っているからですよ」
「どういう事だい?」
リヒャルトくんは言って、アンネさんを見る。
アンネさんは恐縮したように、身を縮み込ませた。
「糠は毎日混ぜなければ美味く漬かりません。美味しいという事は、アンネさんがしっかり混ぜているという事です」
「なるほど……」
「美味しい漬物を漬けられる方は、いいお嫁さんになると思いますよ」
アンネさんは恥ずかしそうに顔を赤くした。
まぁ、元々はゲオルグ作の糠を使っているので、いいお嫁さんになれるのはゲオルグなのだけど……。
「さて……。まだ完全ではありませんが、私は約束を果たせたと判断します」
「そうだな」
「では、契約に従っていただきましょう」
「わかった。どのような約束をさせるつもりなのかな?」
私はしばし考える。
「一つは、お父上に私へ危害を加えないよう進言くださる事。もう一つは、あなたが王位に着いてからも同様にしていただく事。最後に、もしゲオルグ・フォン・コバルトゥルムが国へ帰って来ても手厚く遇する事、でしょうか」
幸い、まだヴィルヘルム陛下は帰っていない。
帰って来て事態が解決し、ゲオルグの必要性もなくなる。
息子からも進言があれば攻め入って来る事もないだろうし。
最後の条件は、保険のようなものだ。
もし、ゲオルグが私の元を離れる事になっても、帰れる場所を作ってあげたいという気持ちからだ。
「わかった。しかし、ゲオルグ?」
リヒャルトくんは怪訝な顔で訊ね返した。
「ええ。私は、あなたの弟君をさらった魔女なのです」
「……そうか」
リヒャルトくんは、呟いて窓の外へ視線を向けた。
「父上は、弟が魔女にさらわれ地獄へ連れ去られたと言った……。その地獄は、優しい場所なのだろうな」
その後、ヴィルヘルム陛下が軍を差し向ける事はなかった。
リヒャルトくんの言葉を聞き入れたのか、それともゲオルグが必要なくなったのかはわからないが。
兎に角、この森の平穏が乱される事はないだろう。
自宅。
私は、いつものようにテーブル席に着く私。
ふと、私は近くにいたゲオルグに声をかける。
「ねぇ、ゲオルグ」
「何でございましょうか?」
ゲオルグが返事をする。
「もし、私があなたを自由にすると言ったら……。あなたはどうする?」
「ここで毎日、お茶を淹れる事を選ぶでしょう」
ゲオルグは、迷いなく答えた。
思わず、私の口元は笑みに歪んだ。
「なら、その自由を今行使してもらおうかしら」
「はい。喜んで」
そう言って、ゲオルグはお茶を用意してくれる。
「ん」
どうやら、またお客様が来たようだ。
格好からして、近くの村人かな。
ことり、とテーブルに紅茶が置かれる。
「ありがとう。それから、もうすぐお客様が来るわ」
「かしこまりました」
ゲオルグは私の言葉を承る。
お客様は、近くの村の男性だった。
相談に乗る。
「実は、最近犬か猫かよくわからん可愛らしい生き物を拾ったんだが。これがやたら人懐こく、俺の脛を執拗に体でこすりつけてくるんだ。最初はそのしぐさも可愛らしいと思っていたんだが、あまりにも執拗なんでちょっと不気味になってきて……魔女様?」
男性が私に声をかける。
その時の私は、身を打ち震わせていた。
「そ……」
「そ?」
「それは、恐らく妖怪です!」
私は叫びながら立ち上がる。
男性の語った特徴、これは妖怪すねこすりに違いない。
「こうしてはおれません。すぐにそこへ案内してください」
「え、はい」
男性をせっついて外へ出ようとする。
その最中、私は振り返った。
「ゲオルグ。少しでかけてきます。留守を頼みますよ」
私が言うと、彼は苦笑する。
そして――
「かしこまりました」
答えて、恭しく一礼した。
これで、とりあえず終わりです。
ここまで読んでくださった方々、どうもありがとうございます。
では、また。