二話 魔女の書 前編
あれは六年ほど前の事だった。
あの頃はまだ、ゲオルグもいなかったっけ。
森に、ある一人の少年が訪れた。
彼は森の中に入り、まっすぐ我が家へと向かっていた。
自衛のため、森全体には人間を察知する類の結界を張っている。
彼が森に入った時点で、私は結界によってその存在を察知していた。
この森の中だけであるならば、私はあらゆる事を知覚できる。
これが森に迷い込んだ子供や私に敵意を持つ賊の類だった時は、私から出向いて外へ送る所だが。
その少年に敵意がない事は様子を見ていれば察する事ができ、その行動から恐らく私への客だろうと悟った私は彼が家へ訪れるまで待つ事にした。
森の入り口から、私の家までには一つだけ緑の実に混じってオレンジ色の実が生る木が生えている。
私を知っている人間は、それを目印に我が家へ訪れるのである。
彼が私の家に辿り着く。
戸を叩き、声を張り上げた。
「僕は、アルフレド・ダマスクスと申します。ごほっ、ごほっ……。森の魔女ベルベット様にお願いがあって、お尋ねした次第です」
小さく咳を交えながら、彼は名乗った。
その声を、私はテーブル席に着きながら耳にする。
ダマスクス。
六国の南に位置する国だったか。
恐らく、王族だろう。
例外もあるが、国の名前を冠する場合はだいたいそうだ。
なら、スターリの王子からの紹介かな。
断れないなぁ。
「はい。お上がりください」
私の招きに応じて家へ入って来たのは、やせ細った少年である。
手足は細く、身長も低い。
頬もこけて、全体的に元気がなくひょろひょろとしていた。
下手をすれば私ですら腕相撲で勝てるかもしれない。
そう思わせる見た目の少年だった。
一言で評すれば貧弱という単語をそのまま体現したかのようである。
貧弱な坊やだ。
「私に願いを叶えてほしいという話ですが、その対価としてあなたは何を差し出せますか?」
「対価……。ごほごほ、聞き及んでおります。どうぞ、お納めください」
そう言ってアルフレドくんが取り出したのは、一本のビンだった。
中には、琥珀色の液体が揺れている。
「こっこれは!」
私は受け取ったビンのコルク栓を開けた。
一瞬にして、バニラのような甘い香りが辺りに広がる。
たまらない……。
これは晩酌が捗る予感。
しかし……。
私はコルク栓を閉じる。
「ダマスクスの蒸留酒ですね?」
つまりはウイスキーだ。
香りからして、かなり良い樽を使っているようだ。
「はい。我が国の名物です」
「これなら対価として十分です。ですが、いただくのは依頼を果たした時で結構。で、願いとは?」
「ごほっ……。はい。私はダマスクスという国の王子なのですが」
「王子様だったんですか?」
「はい」
きっぱりと言い切るが、王子様というには覇気がない。
「それで?」
「父である国王にはほかに子供がなく、ごほ……恐らく次の国王は僕になるという話なのです……。でも、今の僕には自信がなくて……」
そうだろうね。
という言葉を飲み込む。
無言で先を促した。
「幸い治世における才はあるらしく、王になったとしても十分に国を治める事ができるだろうと教師よりお墨付きをいただいて……ごほごほっ……おります。ですが体の方はあまりにも虚弱で……、ごほっ……いつ病によって命を落とすか。それが心配なのです」
悩みを打ち明けているだけなのに、なんとも悲壮感がある。
まるで、敵地から戻ってきた瀕死の伝令が最後の情報を将軍に伝えているかのようである。
彼の必死に訴える様子には、なんともいえぬ強い説得力があった。
「なるほど。それで?」
「どうか、僕の虚弱体質を治していただけないでしょうか?」
「この身にそれができるかはわかりませんが、できうる限りの事はやってみましょう」
「本当ですか! ぐほっ! ごほっ……」
大きな声を出したためか、アルフレドくんは大きく咳き込んだ。
「無理せずに。……恐らく、そもそも王子が虚弱なのは妖怪の仕業でしょう」
「妖怪?」
「妖怪とは、東洋の国に生息する魔物の事です。たいていの事は妖怪の仕業と相場が決まっておりますので」
「はぁ」
釈然としない様子でアルフレドくんは声を出す。
「王子はとても衰弱しておられる様子。私の見立てによりますれば、これは山地乳や夢魔の類ではないかと」
「山地乳? 夢魔?」
私はゆっくりと力強く頷く。
「先ほども申しました通り、東洋の魔物。妖怪の一種です」
「はぁ……ごほごほっ」
「人の睡眠時に生気を吸い、衰弱死させる怪異の伝承は古今東西に存在します。あなたの虚弱体質もそれが原因なのではないかと思われます」
「そうですか……」
アルフレドくんは釈然としない顔で首を傾げる。
「ですが、山地乳の可能性は低いでしょうね。あれは一度でも吸われれば死にますから」
山地乳。
眠っている人間の唇から寝息を吸う妖怪である。
吸われると死ぬ。
唇と命を奪うという最悪の妖怪である。
「なので、これは夢魔か……もしくはちんちん小袴なのではないかと思います」
ちんちん小袴って改めて口にするとちょっと恥ずかしいな……。
途中で区切ると乙女の大惨事である。
まぁ、今はどうでもいい。
「夜中に騒がしい音がして起きてしまうとかありませんか?」
「ありません」
「では、夢魔ですね」
原因は絞られた。
間違いない。
「厳密には西洋妖怪のカテゴリーに入ってしまいますが、サキュバスという可能性もあります」
「サキュバス……ごほっ、ですか?」
「はい。毎夜男性の夢に現れ、肉欲に溺れさせる事で精力吸い取る西洋妖怪です」
「それは……知っていますが」
サキュバスはこちらでも知られているのか。
「……いやらしい夢とか見ませんか?」
「……見ます。たまに……ごほごほ……」
今の咳は照れ隠しっぽいな。
恥ずかしくてもちゃんと申告するなんて、素直な子だな。
「ただ、毎夜ではありませんが。本当に、たまに……です……ごほごほ」
「ああ……。そうですか」
そんなに時間が開くなら、違うかもしれない。
別の妖怪だろうか?
思えばサキュバスは、夢精させるだけで命まで取られなかったはず。
しかし、確かな事はわからない。
どうか、力をお貸しください。
水木先生……。
京極先生……。
「あの、ごほごほ……、それでその妖怪とやらにはどう対処すればよいのでしょうか?」
「あ、はいはい。ちょっと待ってください」
残念ながら、私にはその妖怪の正体が判然としない。
たとえ、夢魔がその正体だったとしてもどう対処すればいいのかいまいちわからない。
出てきた所を魔法で撃退すればいいのか?
だったら楽なのだけど……。
たまにしか現れないというのなら、しばらくアルフレドくんの近くにいて夜中に見張るしかない。
でも、夜更かしもこの森から離れる事もできればしたくないからなぁ。
「そうですねぇ……。じゃあいっその事、夢魔に屈しないくらいの元気な体になればいいのではないでしょうか」
「ですから、そうなれないから来たのですよ?」
そりゃそうだ。
「ふぅむ。ですが、それくらいしか私には思いつきません。そうですね……。じゃあ、私が思いつくかぎりの健康療法と体作りの方法を書き出しますのでそれを実践してみてください」
「はぁ、わかりました。確かに、ごほごほご……森の賢者と名高い魔女様の知識ならば、生気に見放された僕の体にも活力を与えてくださるかもしれませんね……」
森の賢者。
霊長類にそんなのいなかったっけ?
「しばしお待ちを」
私は魔法でテーブルの上へ紙とペンを引き寄せると、思いつく限りの健康法と体を鍛える方法を記していく。
『まずは太陽光、それも朝日を毎日浴びるよう努める。
太陽光によって人体はビタミンCを作り、なおかつセロトニンが多く分泌される事で、心身を正常に保つ事ができる。
食事は小麦粉や米などの炭水化物、野菜、肉などをバランスよく食べる。
健常な体は、バランスの良い食事によって保たれる。
運動の一時間半〜二時間前に食事を取るようにする。
それによって、摂取した食事を筋肉へ変えやすくできる。
前述の太陽光の関係で、この際の運動はできるだけ外で行なうべきである。
当初はウォーキングなど、あまり体への負担が少ないものが好ましい。
最初から無理はせずできる範囲で行い、次に繋げていく事。
基礎体力がつき始めた頃に、少しずつ運動の濃度を上げていくのが良い。
運動中は小まめな水分補給をする事。
運動後は、牛乳や卵、脂身のない鶏肉などたんぱく質の多い物を食べると筋肉がつきやすい。
筋肉がつくと、代謝が上がるので体の毒素などを排出しやすくなる。
より筋肉を付けたい場合は、今の自分が限界だと感じる所まで筋肉に負荷をかけて追い込むべし。
最初の内はすぐに筋肉は限界を訴えるだろうが、時間をかければ次第にその限界は延びていく。
尽くを焦る事無く、根気良く続けていくべし。
ゆっくりと進む事になろうと、続けていけばいずれは目的地へ到達するものである』
という旨の内容を詳細な理論込みで数枚の紙に記した。
題して『目指せ! 夢魔にも屈しない超健康体!』
なかなかに良いキャッチフレーズだ。
「とりあえず、これに書いている内容を試してみてください」
私はアルフレドくんに『目指せ! 夢魔にも屈しない超健康体!』を渡した。
「はい。ありがとうございます……ごほ」
「それでもダメだったら、また相談に乗らせていただきます。……お酒も、今日は持って帰っていただいて結構です」
名残惜しいが、結果が出ていないのに貰うわけにはいかない。
「お気遣い、ありがとうございます。コホコホ……ですが、そのお酒はお納めください。少なくとも、あなたは僕のために知恵を絞ってくださった。それは素直に嬉しい事でした。ですからその酒で、気持ちに報いたいのです」
良い子だな。
アルフレドくん。
「では、ありがたく」
私はお酒を受け取る。
そうして、アルフレドくんは帰っていった。
それから二年が経った頃……。
我が家に来訪者があった。
ひたすらに堂々と迷いなく家に向かってくる様子から、恐らく私の客だろう事は疑いない。
なので、彼をじっと待つ。
「森の魔女様はいらっしゃいますか?」
自信に満ちた野太い声が私を呼んだ。
結界によって見た来訪者の様子に、若干の警戒を覚えた私は応対しようとするゲオルグを制した。
当時のゲオルグはまだ十一歳の子供だった。
何かあった時の事を考えれば、応対させるのが不安だったのである。
「はい。どなたでしょう?」
私は外へ声をかける。
「アルフレド・ダマスクスにございます」
えっ?
名前を聞いて私は驚いた。
結界で確認していた姿と二年前に見た姿が一致しない。
「今、お開けします」
扉を開く。
その扉を窮屈そうに潜って、全身を筋肉で覆われた大男が家へ入ってくる。
服は今にもその張力によってはち切れ、膨張した筋肉が今にもその姿をまろび出しそうであった。
これが、アルフレドくん?
顎の割れた彫りの深い顔に、かつての面影は無い。
向けられた笑顔には、かつてのような弱々しさよりも自信が勝っているようだ。
というより、今の彼からは絶対的な自信しか感じられない。
「お久し振りですね。魔女様」
「え、ああ、はい。お久し振りです」
本当にお久し振りなのか少し懐疑的な気分であるが、とりあえずそのように返しておく。
正直、別人を前にしている気分だ。
「今日うかがったのは、あの時の礼を改めてしたいと思ったからです。この『目指せ! 夢魔にも屈しない超健康体!』の」
そう言って、アルフレドくんが取り出したのは一冊の薄い本だった。
薄いけれどしっかりとした装丁がなされている。
開くと、そこには色褪せたページが見える。
それは、私が渡した例の書類に違いなかった。
どうやら、製本したらしい。
まさかの書籍化である。
何度も読み返したのだろう。
紙は所々傷み、文字が擦り切れている場所もあった。
「彼女達は、僕を貧弱な坊やだと馬鹿にした」
不意に、アルフレドくんが口を開く。
彼女達って誰ですか?
「けれど、この本の通りに体を鍛え、貧弱な坊やだった僕は今の屈強な体を手に入れる事ができました。ありがとうございます」
袖から覗く肌は小麦色で、とても健康的だ。
あの時の青白い肌を思えば本当に変わった。
あれからここまで鍛えるには、とても努力しただろう。
「違います。それはあなたの努力です。私が方法を教えても、実行しなければ意味がない。でもあなたは、自らの努力によって結果を形としたのです」
ぶっちゃけ、こんな事になってしまったのは予想外もいい所だったし。
「僕だって、何度も諦めてしまいそうになりました。でも、その都度あなたが記した言葉を思い返した。ゆっくりと進む事になろうと、続けていけばいずれは目的地へ到達するものである。その言葉があったから、僕は頑張る事ができたんです」
「そうですか」
「体作りを始めた頃……」
アルフレドくんがなんか語りだした。
「あの時は、本当に途方もない思いだった。
こんな骨と皮だけの体に、活力を満たす事ができるのか、と疑いながら……。
それでも毎日、魔女様の書を読みながら自分を励まして運動を続けたんです。
変化があったのは、二ヶ月を過ぎてからです。
ある朝、鏡を見た私は自らの体に起こった変化に気付きました。
あれだけ細かった体に、厚みができていました。
腕も、脚も、胸も、腹も、全てが肉に覆われていたのです。
そこからは、苦になりませんでした。
疑いは消え、さらに運動へ打ち込むようになりました。
そして気付けば、僕の体は筋肉に覆われていました」
頑張ったんだな。
アルフレドくん。
……頑張り過ぎな気もするけど。
「本当はすぐにうかがいたかったのですが。時間が取れず、こんな時期になってしまいました。何分、身辺が忙しく。……実は僕、即位したんです」
ぶっ!
「王様が一人でこんな所に来ていいんですか?」
「護衛を撒くのに苦労しましたよ。HAHAHA!」
じゃなくて、暗殺とか警戒しなくてよかったの?
「それから、今度結婚するんです」
「それはおめでとうございます。お相手は?」
「モリブデンの第三王女様です。昔から交流があって、ずっと恋慕を抱いていたのですが。お恥ずかしい事に告白する勇気がなくて……。でも、体を鍛える事で自信がついて告白できました。これもまた、魔女様のおかげです」
なんか、商品の宣伝みたいなコメントだな。
僕は○○のおかげで彼女ができました、みたいな。
しかし、モリブデンの王女か。
六国の南西に位置する国モリブデンは、ダマスクスの隣。
北西に位置するスターリはそのモリブデンの隣である。
「祝福させていただきます」
「ありがとうございます。それで、ささやかな品をお持ちしました」
そう言うと、アルフレドくんは一度外へ出て行った。
そして、大きなタルを肩に担いで入って来た。
私の前に、ゆっくりとそのタルを置く。
タルの上部には、コックがついていた。
「これは?」
「ダマスクスの蒸留酒です」
「タルの中身全部?」
アルフレドくんが素敵な笑顔で頷く。
驚いた。
そして超嬉しい。
じゅるり……。
「では、性急ではありますがこれにて失礼します。忙しい立場ですので」
だろうね。
アルフレドくんはその言葉を残し、帰っていった。
「ベルベット様。これはどういたしましょう?」
ゲオルグがタルを示して訊ねる。
「とりあえず、炭酸水を作りましょうか」
今夜はハイボールだ。
「ではなく、どこに置きましょうか?」
確かに、部屋の真ん中に置かれるのはちょっと邪魔かもしれない。
そして、現在。
私の家に、男女の来訪者があった。
家に通したその二人は、身形の良い服を着ていた。
その内の一人。
男性の方は私の知り合いである。
黒い髪と精悍な顔つきが印象的な背の高い男である。
その腰には剣を佩いている。
二人が家の前まで来る。
「ゲオルグ。出迎えをお願いします」
「はい」
ゲオルグが戸を開けると、ノックしようと手を上げる男性の姿があった。
「どうぞ」
ゲオルグが二人を家の中へ通す。
「お久し振りですね。スターリの王子」
私にそう呼ばれた男性は、小さく頭を下げて礼をする。
「はい。お久し振りです。……できれば、名前で呼んでいただきたいのですがね」
「今日はお連れもいるようですし、示しはつけておいた方がいいと思ったのですが? ルドルフ王子」
私が答えると、ルドルフは苦笑する。
「それで、その方は?」
私は、ルドルフの後ろにいる女性を示して訊ねた。
「はい。この方は……」
ルドルフの言葉と共に、女性は一歩前へ出る。
目深に被ったフードを外し、私に顔を見せる。
表情に乏しい女性だった。
顔立ちが整っているので彫像のようにも見える。
何気ない所作や立ち姿からは、品の良さが漂っていた。
恐らく貴族。
ルドルフの接し方から見て、それも高位の……。
王族かもしれない。
王女かな?
「ダマスクスの王妃です」
他国の王妃だった……。
書いた当時は筋肉に魅了されていたため、こんな話になりました。
そして、前後編です。