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夢見る都のまどろみの竜

作者: 霧原真

 ぬばたまの髪に白い肌。幼くしてすでにエステルは美しかった。

 九つになってすぐ、彼女は竜の巫女に選び出される。


「お前はこのお方にお仕えするのだ」


『夢見る都』の『守りの神殿』の最深部。

 老いた祭司はそう言うと、目の前に聳える『それ』に向かって、うやうやしく頭を垂れた。


 それは最初、石像に見えた。

 巨大な竜が、くるりと体を丸めて眠りについている。

 背までの高さは人間の三倍はあるだろうか。体は白く、神殿の薄闇の中でもほんのりと真珠のような光沢を放っている。瞼はしっかりと閉ざされ、瞳の色をうかがうことはできない。

 目を凝らしてよく見ると、かすかながらも、竜の腹は動いている。

 そう、これは石像ではない。生きているのだ。


「お仕えするって……どんなふうに」

「この方の夢の導き手となるのだ。お前の歌がこの方の夢を形作る。ゆえに歌え、そして紡ぎ出すのだ。心安らぐ麗しき夢を」


 老祭司は説明した。

 眠れる守護竜の傍に寄り添い、聖なる歌を捧げる。それがエステルの――竜の巫女たる者の――なすべき仕事であるのだと。


「十年に一度、この方は目を覚まされる。その時、お前の巫女としての日々は終わる」


 そう言い残して、老祭司は立ち去っていった。



 その王国は、かつてあまたの地を統べていた。だがその栄華は、今や終焉を迎えようとしている。

 何がきっかけであったのかは定かでない。国政の腐敗、相次ぐ飢饉、それに伴うかのように押し寄せてくる異邦の蛮族。

 国は荒れた。街道は分断され、畑は耕されぬままに放り出された。野盗が跋扈し、だがそれを征伐すべき軍団もまた、賊徒と変わらぬものと成り果てた。

 そんな中にあって、夢見る都だけは変わらぬ繁栄を謳歌している。

 伝説は語る。

 初代の女王は偉大なる魔法使いであった。女王はこの地を統べる竜を屈服させ、魔法の契約を交わした。

 竜は都を守る。その代償として、女王は安らかな夢と永遠の命を約束しよう――と。



 教えられたとおりの聖歌を、エステルは日々、守護の竜に歌いかける。

 聖歌に歌われているのは平和で豊かな日々だ。

 慈雨は大地を潤し、小麦畑は金色に輝く。花々は芳しく咲き誇り、果樹は艶やかに実る。飢えもなく、争いもなく、人々は笑いさざめき、満ち足りた心で感謝の祈りを捧げる。

 ……それが遙かに遠い日々の幻影であると知りながらもなお、エステルは歌い続ける。


 竜はまどろみ続けている。


 ――どんな夢を見ているのだろう。


 エステルは竜の夢に思いを馳せる。

 都が造られてすでに五百年。その年月の、ほぼすべての時間を、竜は眠りのうちに過ごしている。十年ごとに目覚めて生贄を受け取る、その瞬間を除いては。


 ――聖歌は偽りに満ちている。夢見る都は美しい。でもその外に広がる世界は。


 エステルは都に生まれ、都に育った。名を語るのも憚られる、さる高貴な人物を父に、美貌と愛のほかには何も持たない愚かな女を母として生まれ出で、私生児と呼ばれて育ってきた。

 ひもじい思いをしたことはない。身に纏うものに不自由したこともない。それでも彼女とて知っている。豊かな日々は過去のものと成り果てた。都の外に広がるのはただ、飢えと悲嘆と不正義ばかり。


 ――なのに、私は美しい夢を紡ごうとする。それは本当に意味のあることなのか。


 疑いを抱きつつも、エステルは職務を忠実に果たす。竜に寄り添い、歌を捧げ続け――そうして、月日は流れていった。



 初めてその夢を見たのは、いつのことだったろう。

 星々がきらめく夜空の中を、エステルは飛んでいた(・・・・・)

 眼下に広がるのは黒々とした大森林。森は見渡す限り広がり、その果ては見えない。

 別の夜には、また異なる夢を見た。

 峻険な山の頂に、エステルはひとり佇んでいた。雪をかぶった峰は朝日によって茜に染め上げられ、その麓は湧き上がる雲に覆われ、遠い空には明けの明星がちいさく瞬く。

 夜毎、エステルは夢を見る。

 青く輝く大海原を。見知らぬ異邦の街並を。それらはすべて、エステルが実際には目にしたことのない情景ばかり。

 情景を眺めるだけではない。やがてエステルは知るようになる。彼女自身は一度たりとも感じたことのない、心の動きの数々を。


 ――これは私の夢ではない。


 では誰の夢なのか。

 問うまでもない。この夢は竜のものだ。エステルがその歌で竜に夢を与えているように、竜の夢もまた、エステルの眠りに忍び込もうとしている。


 そしてついに、エステルは夢の中で『彼女』と出会う。


 その女はただひとり、嫣然たる笑みを浮かべて竜の前に立った。

 女は美しかった。なよやかな姿態は警戒心を呼び起こすと共に、不思議なまでに情欲をかき立てる。

 謎かけ合戦を行おう、そう女は持ちかけてきた。私が敗れれば我が身を与える、だが勝利すれば、あなたとあなたの治めるこの地を私のものにしたいのだ、と。

 謎かけは竜の得意とするところ。

 古くから伝わる謎に、竜の知らぬものなどない。新たに考え出された謎でも、竜に解けぬものはない。なぜなら竜とは言霊を知り、これを自在に操るものであるからだ。

 数々の謎の応酬。その果てに、女は言った。

「ああ、万策尽きました。あなたは今、私の心をご存知でしょうか?」

 竜はそれを降参の言葉と受け取った。

 歓喜に酔いしれて、いざや勝利の報酬を得んと、竜は気もそぞろに人間の男の姿に変じた。

「そなたこそ、我が心を知るや?」

 そう問い返すと、返答を待たず、ぐいと女を引き寄せる。

「存じております」

 女は小声で呟いて、竜にするりと寄り添うと、その唇におのが唇を重ねた。

 はじけんばかりの情欲に突き動かされ、竜は女を抱きしめる。そしてそのまま、勝者の権利を行使せんと、荒々しく女を組み伏せた。


 竜はたばかられていた。女は降参したわけではなかったのだ。

「私の心をご存知でしょうか?」

 これこそ、女が最後に放った謎であった。だが、竜はその謎に答えぬまま、逆に問いかけた。

 謎に謎で返すのは、謎かけ合戦の掟に触れる行為。掟を破ったことによって、竜は戦に敗れたのだ。


 女は民を統べる女王であった。おのれの民を竜の住まう土地へと移し、新たにこの地に都を築くこと、それが女王の望みだった。

 女王は竜の存在そのものを都の運命と結びつけた。竜の命の尽きぬ限り、都が潰えることもない。これこそが、夢見る都を今なお保ち続けている『守りの魔法』の始まりである。

 女王は竜を酷く扱いはしなかった。その身を神殿の奥深くに封じ込めこそしたが、危害を及ぼすことは決してなかった。

 女王は幾度となく竜を求めた。求められるまま、竜は女王と交わった。

 やがて女王は幾人(いくたり)もの子を産んだ。竜と女王の子らは麗しく、賢く、そして強かった。この子らの導きによって国は富み栄え、あまたの土地に覇権を及ぼすこととなる。

 ――だがそれは、また別の物語。


 やがて女王は老いた。死期を悟った女王は、最後の魔法を竜に与える。


 ――私は私の都を愛する。ゆえにその滅びを望まない。私はあなたを愛している。ゆえにあなたの死を望まない。あなたに永遠の生を与えよう。あなたは深い眠りに就く。十年に一度あなたは目覚め、贄を喰らい、そして、贄の命と夢を取り込んで、その命を繋ぐのだ。


 竜は女王の魔法を受け容れた。かくして五百年、夢見る都は今もなお、その命脈を保ち続けている。


 実のところ、竜の夢は秩序だったものではなかった。時の流れを問わず、断片的に訪れる夢のかけらを繋ぎ合わせて、エステルは竜と女王の物語を知った。



 さらに月日が流れた。エステルが神殿に入って十年の節目がごく間近に迫っていた。



 その軍勢が都を包囲したとき、都を統べる王は笑って報告を受け流した。

 夢見る都の城壁は破ることあたわざる魔法の壁。いかに武で鳴らした蛮族の王であれど、城壁に傷一つ負わせられまいに。

 だが、王の自信はいともたやすく潰えた。蛮族の投石は都の城壁を打ち砕き、火矢によって放たれた炎は街並を焼き尽くしてゆく。

 守護の魔法が破られたのだ。

 魔法の源たる竜はいまだ健在。神殿の奥深く、祭司と巫女に守られてまどろみ続けているというのに。


 ――後に流れた噂によれば、蛮族に与する魔法使いが、都の魔法を打ち破ったのだという。魔法の基盤として地中深く埋め込まれていた要石を掘り出してこれを(こぼ)ち、守護の魔法に綻びを作ったのだと。


 都の人々は逃げ惑う。争いを知らず、否、知ろうともせず、怠惰なる平和のうちに生きてきた人々。城壁の向こうに広がる闇を見ることなく、常春の夢を貪っていた人々は。

 内と外を隔てていた堅固なる壁が消え失せんとする中、多くの者が絶望にとらわれていた。

 守りの神殿でもそれは変わらない。

 守護の魔法の源たる竜はいまだ神殿の奥にある。竜を揺り起こし、その力に縋る――そう考えてもよいはずなのに、実行に移そうとする者はない。

 否、ただひとり、動いた者があった。


 人影途絶えた奥の院に駆け込んで、エステルは竜に呼びかける。

「お目覚めください、竜よ。都が滅びようとしています」

 乙女の声に竜は目覚めた。

「我を呼ばわるは誰ぞ」

「あなたの夢を導く者、竜の巫女です」

「そなたの声は知っている。幾度となくまどろみのうちに耳にしてきた」

「お逃げください。守りの魔法は毀たれました。今やあなたは自由です」

「なんと」

「あなたはかの女王と約定を交わし、この都を守ってきた。巫女という名の生贄の夢と命を吸い取りながら」

「なぜそなたはそれを知る」

「あなたの夢に触れたのです」

「我が夢に? だが如何にして」

「わかりません。勝手に流れ込んできたのです」

「そのようなことがあるのだろうか」

「私はかの女王の遠い(すえ)にあたります。今、玉座を占めている人物は私の血の父。その(えにし)が夢と夢を重ね合わせたのかもしれません」

「……なるほど」


 竜はさらに問いかけてきた。


「我が女王の裔なる者よ。なぜそなたは逃げよと言う」

「もはや守るに値しない都です。それに私はあなたの夢に触れ、あなたを知った。あなたを解き放つことこそが私の一番の願い」

「だが、解き放たれたとて、我にはもはや叶えるべき願いもない。何よりも、我が命を繋ぐために捧げられた巫女たち、その夢と命を喰らいし罪は決して消えはしないのだ」

「……存じております」

「そなたもまた、贄となるべき定めにあった。もし何事も起こらねば、数日後には我に喰われていたであろうに」

「それもまた存じております」

「それでもそなたは言うのか。我に逃げよと。逃げてさらに生きよと」

「はい」

「しかし我は女王と約した。末永くこの都と我らが裔なるものたちを見守らんと」

「ならば私を守ってください。先ほど申し上げましたとおり、私はかの女王の裔なる者。我が遠き父、愛しき方よ。私はこの都に留まるつもりはありません。ここを出て、広い世界へと向かいたいのです。たとえそれが荒れ果てて、希望すら抱けない土地であったとしても」

「そなたの願いに応えよう。我が愛しき者の裔なる娘。だが、ひとつ問いたい。娘よ、そなたの名は」

「エステルと申します」

「なるほど、エステル(希望の星)か。まさしくそなたにふさわしい名だ」



 夢見る都は炎に包まれていた。

 都の最奥に立つ守りの神殿にも、炎はすでに近づいている。

 神殿が揺れ、その天井が崩れ落ち――瓦礫の中から真白き竜が天高く舞い上がった。

 神殿の中では、竜は雪花石膏の彫像に見えた。今、陽光のもとで炎の照り返しを浴び、その白い鱗は雲母のごとく、きらきらと輝いている。

 竜の背には若い娘がしがみついていた。白い肌を持つ娘は、ぬばたまの髪をたなびかせ、微笑みながら涙を流していた。


 かくして夢見る都は陥落した。

 夢見る都の白き竜の伝承は都の滅びによって結ばれている。続く物語が後世に伝わることはついになかった。


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