第8話 ユリカ、倒れる
「じゃあ、ユリカ、大人しく寝ているのよ」
リリナが声をかけてきた。ベッドに寝込んでいるユリカは小さくうなずく。
「いちおう、早く帰れるようにするからねー」
「いいから、さっさと行ってよ…………いってらっしゃい」
ユリカは咳き込む。最悪だ、体調を崩すなんて。
「むぅ……」
姉が仕事のために去り、部屋にはユリカひとりが残された。
頭がくらくら、ぼぅとする。身体から熱が放出されている感じだ。ふわふわした浮遊感の一方、身体が重くて地面にくっついてしまっているように動かない。この矛盾した感覚こそ、身体のバランスが崩れている何よりの証拠だろう。
(せっかく魔法がうまく使えるようになったのに……)
風邪の原因、それは魔法を使いすぎたことによる、魔力の欠乏からくる体力低下だった。人並みの魔法使いになれた喜びのあまり、魔力の消費を気にすることなく目一杯飛ばしすぎた結果、倒れてしまったのだ。
(大会まで時間がないのに……)
ぼんやりと考える。魔法技能を競う大会――人並みの魔法を発揮することができるようになったユリカとしては、落とすことのできない一大行事。
(父さんのように……対魔戦闘士に、なるために……もう、時間がない、のに……)
身体が睡眠を求めていた。目を閉じ、呼吸を整えつつ眠りにつく――
魔法使いになりたくて。でも力がなくて。
将来を嘱望されながら。優れた家系に生まれながら。
落ちこぼれといわれた。
いっぱい魔導書を読んだ。
いっぱい練習した。
いっぱい泣いた。
努力した。けれど、その努力は報われなかった。
いつかできるとか、そういうのじゃなかったのだ。
突きつけられた現実。
魔封じ。
解かれなければ、魔法使いに――対魔戦闘士になれない。
でも誰にも解けなくて。
夢を諦めて別の道を。そう勧められたけど……そんな簡単に諦められるものでもなくて。
だから、悪魔を召喚した。
・ ・ ・
目を開けたとき、父がいた。
ユリカは目を瞬かせる。この世にいないはずの父がいるはずがないのだ。
案の定、そこにいたのは父ではなく、平凡な顔立ちの――人間の皮を被った悪魔シーンヤーだった。
「幻……」
ユリカは瞼を閉じる。涙がにじんだ。
「目がさめたか?」
槙矢はユリカの顔を覗き込む。熱のせいか彼女の顔は真っ赤だった。一目見ただけで酷いのがわかる。ユリカの額の布に手を伸ばしたとき、彼女は口を開いた。
「よるな悪魔! 出てけ」
思いも寄らぬ罵倒に、槙矢は伸ばしかけた手を止める。ユリカは涙目で、槙矢をじっとにらんでいる。
(そんな目で俺を見るなよ……)
重病の少女から怒られても怖いどころか、何だかいじらしく感じる槙矢だった。
「別にとって喰うわけじゃないんだから、そんなに冷たくしなくてもいいんじゃないか」
「悪魔の言う事なんて信じないわ」
「狼少年になった気分だな……」
嘘ばかり言うから本当のことを言っても信じてもらえなくなった少年――童話を思い出し、槙矢は苦笑した。
(これが、俺の孫だって? これが祖父にとる態度か――っていかんいかん。なに真に受けてんだ。んなわけねえだろ)
ユリカの額の布をとり、桶の水につける。浸した布をギュッとしぼり、再びユリカの額に乗せてやる。
「風邪か? 熱はどれくらい?」
「……むぅ」
彼女は頬を膨らませた。
「悪魔の癖に、人の看病? いったい何を企んでいるの?」
「企む? ひどい言いがかりだな。悪魔ならどんな善行も下心があるってか?」
「……」
「いや、確かに下心はあるかもしれない。お前が早く病気から治って、三つの願いの残り二つを言う。そうすれば俺は元の世界に帰れる」
「そっちのほうが、まだ信じる気になるわ」
ユリカはいびつな笑みを浮かべた。槙矢はため息をつく。
「何なら、いまその願い事を使ったらどうだ? 病気が治りますようにって」
「ただの疲労よ。そんなことで願い事使うなんて、もったいないわ」
(……確かに)
よほどの重病でなければ、槙矢だって風邪くらいで貴重な願い事を使わない。
いっそここで、ユリカの体調を悪化させて、無理やりにでも使わせようかと邪な考えがよぎった。
だが、すぐにそれを思考の彼方へ吹き飛ばす。悪魔呼ばわりされても、槙矢は悪魔ではないのだ。そんな卑劣なことはできない。
(ま、そうはいっても――)
病気が酷くなる魔法、とか、逆に病気を治す魔法なんて、どう使えばいいかわからない。悪魔の魔法は想像力だというが、その想像力をどう使えば病気を治せるか思いつかない。ちょっと魔法の勉強してくる! ……あとで。
「残念だったわね、悪魔。願い事を引き出せなくて」
「それは嫌味か」
寝込んでいるユリカが言っても、どこか負け惜しみにしか見えない。顔が赤く、息も荒い。それでも強気に振る舞う――何故か、槙矢は胸がドキドキしてきた。
(やばい、ちょっと可愛いかも……)
悪戯心がうずく。いまユリカは弱っている。弱っているとくれば……。
「あまり悪魔を馬鹿にしないほうがいいと思うぞ。いま君を襲うことなんて簡単なんだから」
ちょっと脅かしてみる。するとユリカは鼻で笑った。
「ふん、召喚者には手を出せない魔除けあるもん。他の悪魔はともかく、あんたなんか怖くないわ」
「ほう、言うじゃないか」
槙矢はすごんで見せる。
「でもそれは魔法に対して、じゃないかな」
すっと手を伸ばす。
「物理攻撃には、効果あるのかな……? たとえば首をしめたり」
「!」
ユリカの表情が強張る。どうやら無効なのは魔法に対してのみのようだ。
「そ、そんなことしたら、あんた自分の世界に帰れなくなるわ! それでもいいの?」
「それは困るな」
槙矢は大げさに肩をすくめて見せた。
「でも人間の魂を手に入れれば、戻れるって聞いたけど。君が必ずしも必要というわけじゃなくて」
「っ!」
顔を青ざめさせるユリカ。弱っている彼女をこれ以上脅すのは、身体だけでなく精神的にもよくない。嘘をついた件は、これで無しにしてやる。
「冗談だ。俺はそこまで悪党じゃねえ」
「……冗談に聞こえないのよ、あなたが悪魔だから」
ユリカはそっぽを向いて布団を被って、顔を隠した。槙矢は苦笑い。
「ごめん、言い過ぎた」
「……」
ユリカは無言である。ちょっとやり過ぎたかなと、槙矢は頭をかく。
「そうだ、お詫びに何か食べる物を持ってくるよ」
「食べ物……?」
ユリカが布団の端から覗き込むように見つめてくる。
「……毒入り? そうやってわたしに無理やり願い事をさせる気?」
「どれだけ非道なんだよ、俺は!」
槙矢は声を張り上げる。本当に毒でも入れてやろうか、などと思ってしまう。むろんやらないが。
「毒を入れられないことを祈れ」
「……いいよ、別に」
弱々しくも拒絶を入れてくる。気をつかっているのか、あるいは悪魔を信じていないのか。
「そう言わずに。病人は体力つけるためにも食べないと……お姉さんの料理は食べてないんだろ」
「なんで!」
ユリカが驚いた顔をした。派手に動いたせいか、すぐにゴホゴホと咳き込む。
知らないと思っていたのだろうか。そういえば槙矢がリリナの料理をご馳走になったとき、ユリカはその場にいなかった。
「お姉さんの料理、あれは酷かったな。リリナさんは味覚オンチなのかな……とても食べられるものじゃない」
「悪魔も逃げ出すほどだったなんて……姉さんの料理」
ユリカは愕然とする。
「もし、あなたがお墓に入ることになったら、姉さんの料理をお供えしておくわ。……二度と出てこれないように」
「お前のほうがよっぽどひどいつーの」
槙矢は部屋を出る。そこにはヘイゼルがいて、レオがいて、ゴールデンレトリバーがいた。
「ユリカは弱ってますぞ、閣下」
犬の皮を被った悪魔、アグレスが唸るように言った。
「どうして弱味につけこまないんです? ユリカは自ら墓穴を掘るような言葉を連呼してますぞ。まるでそうしてくださいといっているように」
「つけこむってアグレス」
槙矢が困った顔になれば、ヘイゼルとレオが冷たい視線でアグレスを見下ろした。
「アグレス殿、マスターは高等な懐柔を試みているのです。小手先の脅しに頼るは、のちのちのことを考えれば下策」
「あ、いや、俺は別に……」
「少々回りくどいですが」
レオが続いた。
「シンヤさんはああやって信用を築き、例え悪魔が相手でも身も心も捧げさせるように仕向けるのですよ。悪魔ですから。肉親とか関係なく――」
「ふむ、我輩、短慮であった。ただ目的を果たすには手っ取り早い方法があるのに、それに頼らずより困難な方法で人間を堕とす……さすが閣下」
「無茶苦茶言うな、お前ら」
槙矢は呆れてしまう。
「けっこう、熱があるみたいだったけど」
「まあ、あれだけはしゃげば、倒れもするでしょう」
ヘイゼルが瞳を閉じる。
「マスターによって魔力が解放されたために、さっそく魔法を使いまくったのですから。自業自得というものです」
「そんなに? はしゃいでたのか?」
「有頂天になってましたね」
(へえ……意外と可愛いとこあるのね、あいつ)
槙矢は、はじゃぐユリカを想像し、何だか微笑ましくなった。
「まあ、魔法が使えるようになったら、嬉しくなるのも無理ないけど」
自分だって調子に乗るだろう、と槙矢は思う。
看病に戻ろう。病人のユリカには……やはり消化にいいお粥がいいだろうか。
「マスター、料理なら私が」
ヘイゼルが進み出た。槙矢はそれを制し、キッチンへ向かう。
「いや、いろいろ試したいから、自分でやるよ」
とりあえずお米を用意しなくてはならない。この世界にも米があるかはさておき、槙矢は脳裏に米袋を想像する。袋に入った状態の米を思い描けば、そのままの形で再現される。魔法って便利だ。少々都合が良すぎる気もするが。ともあれ慣れ親しんだ物は、想像するのも簡単である。
次は――槙矢は仕度に取り掛かった。
お粥をこしらえ、持っていったとき、ユリカは眉をひそめた。
「なに、これ?」
「お粥。米だよ、消化にいい」
「変な虫とかじゃないわよね?」
「これから自分で食べるのに、よくそんな想像ができるな」
槙矢は呆れてしまう。この世界にはお米がないのだろうか。
机に鍋を置き、小皿にお粥をより分ける。よく煮込まれているので湯気が上がる。ユリカはむぅ、とうなった。
「……わたし、猫舌なんだけど」
「ふーふーしろっていうのか? んな恥ずかしいことを」
冗談っぽく言えば、ユリカは首を横に振った。
「それはやめて。悪魔の吐息のかかったものを食べる気はないわ」
(嫌がらせに、息で冷ましてやろうか……)
何かにつけて悪魔と言われ、槙矢は閉口した。
ベッドから半身を起こしたユリカは小皿を受け取る。スプーンでお粥をかき回し、さらに息を吹きかけて念入りに冷ました。そのさまに、見ていてニヤケてしまう。本当に猫舌なのだろう。
ユリカが粥を口に運ぶ。お米が口の中に消え、もぐもぐと頬を膨らませる。複雑な顔をしているユリカを注意深く見守る。
「美味しいわ……」
ポツリとユリカ。槙矢は耳を疑う。
「美味しい?」
「……二度も言わせないで」
ツイとそっぽを向くユリカ。どういうことだと槙矢は思った。病人の舌が、味気ない粥で美味しいと判断するなんて。
(味気ない粥が美味いと感じるなんて……)
槙矢は思い至る。ユリカの姉リリナの壮絶な料理の味を。メシマズの脅威!
ユリカが小皿を差し出した。
「おかわり……」
「はい」
槙矢は鍋からお粥を盛り、再びユリカに返す。彼女は熱さを冷まし、パクリ。
「あちっ……!」
冷ましが足らなかったのかユリカは舌を出した。ニヤニヤが止まらない。それにしてもこの食欲は――
(ふつうは食欲がなくなるもんなんだけど……腹が減っていたのかな、これ)
結局、ユリカは作ってきたお粥をすべて平らげた。彼女は満足してベッドに横たわる。槙矢は布を水に浸し、その額に乗せてやる。
「変な気分。……悪魔のあなたが親身になってる……ほんと、悪魔じゃなかったら、クラッとくるところだわ」
「悪魔じゃないんだけど……そう言ってもどうせ信じないんだろう」
「信じない」
ユリカはべーと舌を出した。
「悪魔を信じるようじゃおしまいよ。悪魔はね、人をどうやって堕落させようか、いつもそのことで頭が一杯なんだから」
「……少なくとも俺は違う」
「そうやっていい人演じるやつが一番信用できない。わたしの警戒を解いて、親しくして、きっと地獄へ引きずりこむ手を考えているんだわ」
「被害妄想ひどいな」
苦笑してしまう槙矢。こいつが地獄のお供なんて冗談じゃない。
「でもまあ、相手が悪魔なら仕方ないか。……うん、そうだな。俺だって相手が悪魔だとわかっていれば優しくされたって信じたくない」
立場が逆なら、きっといまのユリカと同じ態度をとるだろう。そうとわかれば、意地を張って人間と言い張る事もない。
「そうだよな、うん。いいよ、もう信じなくて。悪魔を信じろというのは無理な話だ」
「……ようやくシラを切るのを諦めた、ってこと」
「人間であること……それを俺自身が忘れなければ、周りがどう言おうと関係ない」
槙矢は安らいだ気分になる。開き直りだ。そんな悟りきったような様子をユリカはじっと見つめ、からかいも罵声もなく、静かに眠りにつく……と思ったのだが。
「……眠れないわ」
「ん?」
「もうたっぷり寝てるから……それともあなたがそこにいるせいかな」
ユリカは神妙な顔になった。
「もし、迷惑じゃなかったら……何かお話してくれる?」
「それはお願い?」
「違う、単なる暇つぶし」
ちっ、いい雰囲気だったのに――槙矢は心の中で舌打ちする。願いの一つとしてなら、喜んで話に付き合ったのに。ただ槙矢は病人の言葉を無視するような非人間ではなかった。
「何を話そうか……俺の世界の話でいいか?」
「地獄の話? いいわね、少し興味があるわ」
(俺の世界は地獄かよ……)
呆れつつ、槙矢は他愛無いおしゃべりを開始した。何だか孫にお話を言い聞かせる老人のようだなと考えてしまう。いやいや、俺はそこまで老け込んでねえよ、と思いつつ、槙矢はユリカに語った。
何だか、いい雰囲気だった。
体調が回復したユリカ。槙矢は残る願いを改めて問うが、彼女は意外なことを口にした――次話、明日20時頃、更新予定。