第22話 枕を持った少女がやってきたら添い寝するしかない件
翌日、部活は休みだった。学校の授業のあと、いつもより余裕を持って帰宅したユリカは、魔法こそ使わなかったが、ショットのフォームチェックや、近接戦での型の練習に取り組んでいた。
やらないと不安なのだ。槙矢が部屋の窓から庭を見下ろせば、必死に汗を流しているユリカの姿がある。彼女はとても美しく、しかし儚く見えた。
何とか力になってやりたい。そう思っても、できないもどかしさ。
「……しかし閣下もよくやりますなぁ」
槙矢の隣でゴールデンレトリバーの姿をした大悪魔、アグレスが言った。
「ユリカのライバルであるラナ嬢を強くする事で、ユリカに三つ目の願いを使うよう迫る。例えユリカがそれを拒んでも、ラナ嬢と魂の契約をしているために、閣下は元の世界に戻る術を手に入れる。どちらに転ぼうとも、閣下は目的を果たすことができる……」
いやさすがです――アグレスの言葉も、槙矢にとっては右から左へ抜けていく。
「アグレス、俺は悪魔か?」
「左様です、閣下」
アグレスはうなずいた。
「たとえ、本来の力が出せずとも、記憶に欠けていても、閣下は閣下であります。ここしばらく、徐々に力の一端を見せつつある」
「ふん……」
槙矢は窓のへりに肘をつく。夕陽がまぶしく輝いていた。
「いよいよこの世界ともおさらばか」
この世界で最後の夕陽になるかもしれない。元の世界に帰れる。そう思うと胸が弾むが何故かさみしさも覚える。この家に馴染んできたせいかもしれない。ユリカやリリナ、この犬型悪魔に、二体の魔法人形――それらともお別れだ。
(できれば後腐れのない終わり方がいいんだけど……無理なんだよな)
そう仕向けたのは槙矢自身である。元の世界に戻っても、きっとしばらくは後悔の日々を送ることになるだろう。
だが、それもしばらくのあいだだ。記憶は風化する。いつか、それも忘れてしまう。平凡な日常の中に、埋もれていくものなのだ。
(俺は悪魔になりきれない、半端者だ)
でなければこの胸にある罪悪感はなんだろう。悪魔だって後悔するかもしれないが、少なくとも誰かを不幸にするとわかっていても胸は痛まないだろう。
何故なら、悪魔だから。
悪魔は人の不幸に喜ぶ。悪魔になってしまえば、良心を捨てれば楽になれる――そう思う自分を槙矢は感じていた。この罪悪感がもし快感に変わるようなことになれば、そのときこそ、真の悪魔になるのだろう。
もしそうなら、やはり槙矢は悪魔になれなかった。
その日の夜。明かりは消され、真っ暗になった部屋で、槙矢は床についていた。
最後の夜になるかもしれない――そう思うとなかなか寝付けなかった。ユリカが願い事を使うだろうか、あるいはラナの魂を手に入れて帰ることになるのだろうか。もしそうなったらラナはどうなるのだろうか、悶々――
トン、トン。
戸がノックされた。こんな遅くにいったい誰だろう。槙矢はベッドから戸の方を見る。返事をしなかったら、またも戸を叩く音。仕方ないので返事をする。
「誰だ?」
「わたし……」
ユリカだった。戸を開けて入ってきた彼女の姿を窓から差し込む月明かりが浮かび上がらせる。ユリカは寝間着姿で、何故か枕を抱えていた。……嫌な予感がした。
「どうしたんだ、いったい……?」
「眠れなくて」
もじもじとするユリカ。視線が泳いでいるところがまた何とも……。
「もしかして、一緒に寝たい、とか?」
そうじゃないっ――とか威勢のいい返事を期待していたが、ユリカは素直にコクリとうなずく。
(嘘だろ? 男のベッドにやってくるって……)
槙矢は内心うろたえる。大会前で眠れないのはわかる。だが、だからといって、よりにもよって悪魔のいる部屋に来るのは。
「正気か? 俺は悪魔だぞ」
都合の悪いときだけ悪魔であることを強調する。嫌気がするが、状況が状況だけに仕方がない。
「襲われるとか考えないわけ?」
「いいよ、襲っても」
(……はい?)
いま、彼女は何て言った。襲ってもいい――若い男女がベッドで襲う襲わないといえば肉体関係を意味する。
「俺は夢を見ているのか? 悪魔を誘惑するなんて」
「誘惑とか、そうじゃないんだけど……」
ユリカは視線をさまよわせる。その弱々しい仕草が、いじらしい。
「でも、あなたが望むなら、それもいいよ。願い事の代わりに、わたしを好きにしても」
ユリカが近づいてくる。槙矢は呼吸が止まるほど身体が固まってしまう。追い返すつもりが、うまくいかない。ここは頭ごなしに「出てけ!」と怒鳴るべきだろうか。だがユリカの不安そうな顔を見ていると、とてもそんな言葉が出てこない。
(抱いたらヤバイだろ! だって……だって)
必死に言い訳を探す。彼女は孫かもしれない――信じたわけではないが、それが強く心に引っかかっている。
「……脱いだほうがいい?」
彼女は恐る恐る聞いてきた。声が震えていた、怖いのに、それでも前に進む。何故――そう思ったとき、ふと槙矢の脳裏にひらめくものがあった。
罪悪感。
槙矢がユリカに抱いているように、ユリカのほうも槙矢に罪悪感を抱いているとしたら。
ごめん――その言葉が、何度も頭をよぎる。
最近妙にしおらしくなった。
やたらと「ごめん」と口にするようになった。
何に対しての罪悪感だろうか。この世界に槙矢を呼び出したことか、あるいは三つの願いを保留して、この世界に引き止め続けていることだろうか。
「脱がなくていい!」
もし本当に彼女が、槙矢の孫だったら、色々問題だ。
(つか、俺信じちゃってる!?)
ベッドの片隅へ移動する。
「添い寝だけな……」
「……うん」
ユリカは枕を置くと、槙矢のベッドに入ってきた。
沈黙。
槙矢は背を向けていた。
(もし、彼女が本当に俺の孫だったとしたら……)
ユリカの祖母は――槙矢の嫁ということで。
(俺の嫁か……どんなんだろう。でもふつうに考えたら、いま婆さんになってるだろ。うわ、何このやるせなさ)
ふと、うなじに彼女の温かな吐息がかかる。ユリカはこちらを向いているのか。だが振り向く勇気はなかった。彼女は無言。
考えても仕方ない。こういうときは早く寝てしまうに限る。目をつむり、静かな呼吸を心がける。アグレスやヘイゼルの顔がよぎった。あなたはヘタレですか、と言いながら。
(うるさい、知ったことか。俺は寝るぞ)
だがすぐそこにはユリカがいて、彼女のにおいが鼻孔をくすぐった。女の気配、熱を背中に感じてしまう。
「ちょ、ユリカ?」
槙矢は目を見開く。背中に、ユリカの手が触れた。それだけではない。彼女は、槙矢の背中に頬を寄せてきた。
「おい、自分が何をやっているのかわかっているのか?」
「……悪魔の癖に」
どこか甘えたような声だった。
「わたしはそんなに魅力がないのかな……?」
「魅力とか、そうじゃなくて……その、明日は大事な大会だろ?」
槙矢はシドロモドロになる。全身に嫌な汗をかいていた。いったい彼女は何がしたいのか。添い寝だけだと言ったはずなのに。
「大事な大会だから、かな……」
か細い声が降りかかる。
そうだ。緊張してないはずがないのだ。将来を左右するかもしれない大会を前に、眠れなくて。怖くて。だから槙矢の部屋を訪れたのだ。相手が悪魔だと知りながら。
「本当はお願いをしようと思った」
「お願い? ……明日、勝てるようにか?」
「恐怖を感じなくなるように……」
あ――槙矢は言葉を失う。そういう娘なのだと、どこか納得できてしまう槙矢である。
悪魔を呼び出しながら、それに頼り切ることをよしとしない。それが麻桐ユリカだ。
「それは三つ目の願いか?」
呟くように槙矢が言えば、ユリカは身体を寄せてきた。
「ううん……いい。あなたの温もり感じているだけで、心が安らぐから」
「そうか」
不思議と残念には思わなかった。それは三つの願い終了の目処が立っているからだろうか。それとも……彼女のそばにいたいと思っているせいか。
「怖いか?」
「怖いよ」
ユリカの声がかすれる。
「でも、いいの。恐れがあるから、こうしていられるから」
「どういうこと?」
意味がわからず聞き返せば、ユリカは額を槙矢の背中に押し付けてきた。
「……恐怖を取り除いたら、もうあなたに触れられなくなるから」
恐れがあるから、人は何かに頼ろうとする。すがろうとする。だが恐怖がなくなれば、それは他者との結びつきを薄くなる。
恐れ、緊張は人である以上、いや生物なら皆持っている。それはいい。だがユリカが抱いているそれを紛らわす存在が、槙矢であることが問題だった。
(何故、よりにもよって俺なんだ……?)
姉のリリナには恥ずかしくてできない、とか? それは槙矢だって同じだろうに。彼女には他に家族がない。消去法でもこの展開は。
(それとも――ユリカは知ってるのかな……俺のことを)
ユリカは身を寄せたままだ。背中が温かなまま、槙矢は眠れない。完全に抱き枕役だった。
バラック全国大会を前に不安と緊張を隠せない選手たち。だがそれとは別の場所で起きた小さな悲劇が、新たな混沌を生み出す――次話明日20時投稿予定。
 




