第2話 南方地獄軍団、大悪魔アグレス登場
少し考える時間が欲しい。そう頼んだら、ユリカは憮然としながらも頷いた。
「わたしが次に戻ってきたときには、ちゃんと魔法使いにしてちょうだいね」
「……いいから、さっさと出てってくれ」
とにかく一人になりたかった。状況に対応するために冷静になる必要があったのだ。そもそも、ここは本当に異世界なのか。
彼女が部屋を出て行ったあと、槙矢は部屋の窓にかけられた真っ黒なカーテンに手をかけた。外の情報が欲しい。カーテンを、開ける。
「うぉ、眩しっ……」
ロウソクの明かりだけだった室内に、太陽の光が差し込む。どうやら昼間だったようだ。明るさに目を慣らしつつ、様子を見やる。
よく晴れた空。オレンジや茶色の屋根の民家が建ち並んでいるのが見える。どこかヨーロッパの古い町並みを思わせる景色が広がっていた。明らかに槙矢の知っている場所ではない。地面との高さを見て、今いる部屋がこの建物の二階に位置しているのがわかった。
窓を開ける。途端に清々しい空気が肺を満たした。埃っぽい室内と打って変わって、外は気持ちがいい。
いま明らかなことは五つ。
第一点、知らない場所にいる。
第二点、槙矢は召喚された。間違いで召喚されたのだと思いたい。だがよくよく考えると間違って呼び出された、というのも相当ひどい気がする。
そして第三点、その原因が、ユリカと名乗る少女のせいだということ。
第四点、何の因果か、どうやら魔法らしきものが使える身体になっているらしい。その力についてはまだわからないことが多いが、考えようによっては幸運なのかも知れない。だってわくわくしないだろうか。魔法が使えるという響きは。
(これで悪魔じゃなきゃ、なぁ……)
心の中でぼやく。どうせなら、悪魔ではなくて勇者とか正義の味方のような役のほうがよかった。あと、できれば素直で可愛い女の子が、涙目でお願いしてくるような展開だったら、また気持ちも違っただろうに。ユリカは――認めるのは癪だが――可愛いが、あれだけ上から目線だとどうも……。
(いきなり自分の穿いていた下着を差し出してくるのはどうなんだ?)
話がそれた。最後の第五点、槙矢はそのユリカを魔法使いにしなくてはならない。
(……どうしろっていうんだ、まったく。誰か、何とかしてくれ)
ぼやいたところでどうにもならないが。
ギイィと音を立てて、扉が開いた。ユリカが戻ってきたのかと思い、そちらを見れば、毛むくじゃらの犬――ゴールデンレトリバーが一頭、こちらを見ていた。
「今度は犬か……」
この世界にも犬がいるようだ。
「おう、これはたまげた。ユリカの奴、本当に悪魔を召喚したのか?」
気のせいか声がした。槙矢の聞き間違いでなければ、声の主は、目の前の犬だった。
「にしても見ない顔だな。いやまて、でもどこかで会ったような……おーい、我輩の言葉がわかるか?」
ゴールデンレトリバーが喋った。槙矢は呆然となる。この見知らぬ世界に呼び出されたために目覚めた力のひとつだろうか。
(予想外だ……)
それにしても我輩、とは。
「よーく聞こえているよ」
言葉がわかるからと言ってこちらの言葉が理解されるとは限らない。独り言のような返事をすれば、今度は犬が驚いた反応を返した。
「……どうやら、本物のようだ」
「本物?」
意味がわからず聞き返せば、犬はトコトコと近づいてきた。
「我輩はこんな外見をしているが、犬じゃない。だから人語を話せるし、理解できる。だけどそれは魔力のある人間に限られる。おたくさんが、そこらへんにいるガキじゃないってことは我輩と話している時点でわかるってもんだ」
「それはどうも」
槙矢は片方の眉を吊り上げてみる。よかった、ドクタード〇トルになったわけではなかったようだ。これ以上驚かされるのは勘弁してほしい。
「俺はてっきり自分の頭がおかしくなったのかと思ったよ。何せ俺の世界では犬は喋らないからな」
「この世界だってそうさ。犬ではないと言ったろう」
その犬はひょいと木箱の上に飛び乗り、槙矢と視線を合わせた。
「我輩はアグレス。南方地獄軍団の大悪魔、といえばそこそこ名の知れた存在なり」
(南方地獄軍団?)
知らないが、それは黙っておく。だが姿が犬っころでは地獄軍団なんてたいそうな名前も迫力不足である。もっとも、彼の言い分を信じるならいまの姿は、仮のものだろうが。
「阿武隈 槙矢。自称人間、通称悪魔」
「ほぉーん」
アグレスとパチパチと瞬きした。
「これはおったまげた。伝説の東方悪魔シーンヤー閣下だったとは。どうりで見ない顔だと思いました」
いきなりの敬語だった。しかも悪魔と断定されてしまった。槙矢はうんざりする。
「し・ん・や、だ。伝説の悪魔に転職した覚えはない」
「閣下がお忘れになっているだけじゃないんですか?」
アグレスは木箱の上に寝そべる。閣下呼ばわりされた。
「召喚ってのは、術者が未熟だったり儀式が不完全だったりすると、本来の力が制限されたり、記憶があやふやだったりするものですからな。本当は自分が伝説の悪魔だってこと忘れているだけかもしれませんぞ」
「それはないよ」
槙矢はきっぱり言った。
「そもそも自分が超絶的な悪魔だったりしたことはないし、若年性痴呆症でもない」
「じゃく……何です?」
「物忘れする歳じゃないって言いたかったんだ」
槙矢は肩をすくめる。アグレスは首をかしげた。
「まあ、何でもいいです閣下。我輩には関係ありません」
「そうだな」
自称悪魔の犬っころには関係ないことだ。さて、どうしたものか。喋る犬。見知らぬ世界。これが夢なら、目覚めるのは今だぞ、と呟いてみる。
が、何も起こらなかった。
「俺、どうしよ……」
「閣下?」
「んー、とりあえずユリカっていう女から魔法使いにしてくれといわれたんだけど」
「あー、召喚されたんでしたな。……えーと、シーンヤー閣下の場合、三つの願い事でしたかな?」
「そうらしい。俺自身は今でも信じられないけど……で、具体的にどうすればいいかわからなくて」
口にしてみれば、アグレスは目を丸くした。
「閣下……嘘や冗談じゃなくてほんとに記憶が――」
「いや、記憶うんぬんじゃなくてわかんないことだらけだよ」
「それは大変ですな」
アグレスは唸った。
「まあ、幸いここは魔術師の一族、麻桐の家。魔法書なら腐るほどありますからな……ご一読いただければ、魔法の使い方くらいは思い出せるかもしれませんぞ」
「魔法書……」
槙矢は絶句する。壁の一面にそびえる書棚には、辞書のような分厚い本が並んでいた。ためしに手にとって、ずっしりとした本を開いてみる。
見たことのない文字。……読めない。
ため息が出る。本を戻し、本棚を眺める。途方に暮れる思いだったが、そこで一冊のノートを発見する。
(うーん? ……これは)
違和感のまま、ノートを引き抜く。
何の変哲もない大学ノートだった。年期が入って薄汚れているが、槙矢にとっては授業で使う、もはやおなじみのものである。
しかし問題は、何故それがこの……異世界と思われるここにあるのか?
試しに開いて見る。するとそこには日本語の文字で、文章が書かれていた。しかも、その文字は……とても見慣れた字で。
(俺の書いた字に見えるんだけど……)
槙矢は首を傾げる。どうして見ず知らずの場所に、自分が書いたと思しき字で書かれたノートがあるのだろうか。もちろん、槙矢にはこれを書いた覚えなどない。
(昔、俺はここにいたことがある、とか……んなわけあるか!)
気味が悪い。何が何だかわからない。
(なになに……『召喚されたら、三つの願いを果たさなくてならない。ただし願い事に対して、強制力はなく、悪魔は拒否することも可能――』)
「それはまた……難解な本ですな」
アグレスが見上げてきた。
「表紙の文字、我輩見たことがありませんな……それに本の装丁も初めて見ます。……読めるのですか、閣下?」
「読めるも何も……」
槙矢はペラペラとページをめくる。
「俺の世界の文字だ」
「何とっ! で、それには何と書いてあるんです?」
「魔法の使い方……」
槙矢はノートに目を落とす。そこには『この世界における魔法の使い方』と章のタイトルがあり、日本語の文章で魔法について書かれていた。
「……頭に思い描き、それを文字にして、その物体に投影する」
わかるような、わからないようなことが書かれている。試しに、本の束を見やり、『本』『浮かぶ』『本棚』という言葉を思い描いてみる。
すると本が五冊、見えない手に捕まれたように浮かび上がり、本棚の隙間へと収まった。
「おおっ」
動いた。手で触れずに、モノを動かせた! これが魔法か。感動してしまった。
ノートに目を走らせる。
(こいつはすげえ!)
アグレスを無視して、貪るようにノートを読む。
時が経つのを忘れた。一生のうちで、こんなに真剣に文章と向き合ったのは初めてかもしれない。それだけ魅力に溢れた内容だった。魔法には、それだけの引力があった。
「使い魔の呼び方――」
槙矢が呟けば、アグレスが口を開いた。
「おお、使い魔ですか。で、閣下、それはどのような方法と書かれておるのです?」
「『顔を少し上げ、犬を呼ぶように、その名前を唱えればいい』と書かれている」
使い魔の名前は――
「ヘイゼル、レオ」
「――お呼びでしょうか、マスター」
背後から、ふいに女性の声が降りかかった。槙矢とアグレスはビクリとして振り返る。
そこには青い髪の女性と、赤い髪の少年が立っていた。
「いったいどこから……?」
「名前を呼ばれたから、現れたのです、マスター」
青髪の女性は、うやうやしく頭を下げるのだった。
次話、明日20時半ごろ投稿予定。