第19話 迷い
氷見レン襲撃事件から二週間が経った。
地方大会を勝ち抜いた上位高が、その実力を決める全国大会まであと、一週間。マドウ高校バラック部は、大会に向けて練習に明け暮れていた。
槙矢は部員たが大会に出場できないので、練習場所は他の部員たちに譲り、備品磨きをしていた。偉大な悪魔らしからぬことだが、結構、掃除好きだったりする。
「ねえねえ、シンヤ、わたしのショット、どう思う?」
一打、魔法球をかっ飛ばしたあと、ユリカが聞いてきた。思えば彼女もずいぶんと親しげに声をかけてくるようになった。
「うまくなってると思うよ。まだ部長ほどじゃないけど」
「あの人は別格よ」
ユリカが口をへの字に曲げた。そんな不満げな表情の彼女も、最近では可愛らしくてしょうがない。
「でもでも、他の部員たちには負けてないよね?」
「ああ、みんなお前のことを見違えたと褒めてたよ。この部のナンバー2はお前だろう」
「うんうん、これが実力ですから」
楽しそうである。コロコロと表情が変わる娘だ。
「調子に乗るな」
「はいはい」
ユリカは自分の魔魂杖を見つめる。
「でも部長にも追いついてやるんだから。うん、がんばるっ!」
「まあ、がんばれ」
槙矢は苦笑い。
「……お願い使って魔力を伸ばすこともできるからな」
「あら、気遣ってくれるんだ」
いたずらっ子のような顔になるユリカ。
「ありがと。でも、わたし、自分の力で頑張るから」
「そっか……」
(ほんと、変わったよなぁ)
悪魔に素直に礼を言うなんて。初めて会ったときなど、まともに人間扱いされなかったというのに。それなりに信頼してくれるようになったということか。
槙矢の胸がチクリと痛んだ。
ユリカの信頼に対して、槙矢はその彼女を欺いている。
あくまで自分で努力しようとしているユリカ。それに対し、槙矢は力を利用して、一人の女を悪魔の契約へと導いた。もしそれをユリカが知れば、きっと槙矢を許さないだろう。
だが、だけど――槙矢には、もう余裕がなかった。
おかしくなりはじめている。
自覚があった。身体の変化は、カコとのお触り以来、起きていない。ムズムズと身体が疼く事はあっても、目に見えて女体化したことはなかった。
善行を重ねると女体化する。それはとても嫌だが――槙矢は男なのだ――裏を返せば、いまの槙矢は善行と悪行の双方を行っているということだ。
悪事を働くというのは好きではない。元の世界でもそれなりに迷惑をかけないような生活は心がけていたし、人を恨むようなことはしなかった。嫌だなと思うことはあっても、直接他人を傷つけるようなことはしていないと思っている。
むろん、自分を聖人君子だとは言わない。目に見えない善行をするときもあれば、自分の都合のために嘘をついたこともある。
学校での槙矢は人気がある。いわゆる悪行といえるような行為をしていないからだ。やはりそこは人間、ワルをやれと言われてすぐにできるわけではない。悪いことをするのは簡単だが、それをするにも勇気がいるのだ。
だが心の方は、目に見えないだけにたちが悪い。槙矢の外見が変化していないのは、おそらくこの心の部分で悪魔化しているせいだと思われた。
ラナに魂の契約をさせたこと――あれだけ人の魂を手に入れる行為など無理だと思っていた自分が、まんまと契約させることに成功した。彼女の場合、ユリカや氷見を傷つけようとしたからという理由があったが、それでもまったく抵抗がないわけではない。怒りに任せて彼女の家に乗り込み誘惑したが、後になって冷静になると本当によかったのだろうか、と考えさせられた。
(俺は、元の世界にいた頃に比べて、心が悪の方へ染まっている……)
それに気づくと、ショックを受けてしまう。
この世界での生活は楽しい。元の世界に比べるまでもなく、ここでの槙矢は溌剌としており、自由だった。思い通りに物事を進めることができるし、やりようによればヒーローにだってなれる。
(同時に悪魔にも……)
このままここに居続けては、元の世界に戻るころには、取り返しがつかないほど変化している可能性もある。それを思うと怖かった。
ならこの世界に居続けるという道もあるのではないか、とも考える。だがその場合は、身体の変化を恐れなければならない。女になってもいい、そう思えなければ、とてもこの世界に居続けることはできない。
身体か、心か。
そう考えるのならば、やはりさっさと自分の世界に帰るのが一番なのだ。多少、手荒な手段をとっても、家に――
「ねえ、シンヤ、聞いてる?」
「ん、ああ……なに?」
すっかり周囲がおろそかになっていた。ユリカが首をかしげている。
「何か心配ごと?」
「いや、別に」
槙矢は顔面に笑みを貼り付けた。……こんな愛想笑いが浮かべられる自分が嫌だった。
「ねぇ、やっぱり考えてる?」
ユリカが不安げな表情になる。「何を?」と聞き返せば、彼女は歯切れが悪かった。
「……元の世界に帰りたい?」
「当たり前だろう」
怒るでもなく、さらりと言葉が出た。それを聞き、ユリカはうつむく。
「だよね……そうよね」
「何か願い事は?」
「ん? ……んん~。ごめん、まだ」
「そうか」
槙矢は、他の部員が魔法球を打ち出す様子を眺める。このとき、まだ槙矢は気づいていなかった。ユリカがさりげなく謝ったことに。
「阿武隈、それとユリカ」
声をかけられた。見れば氷見部長だった。何か用事があったのか、今日は部活に姿を見せていなかった彼女は、いつもの凛々しい顔ではなく、何か困っているような表情を浮かべていた。ユリカが口を開く。
「遅かったですね部長。……あれ、ユニフォームに着替えないんですか?」
制服のままの氷見は、うんと唸った。
「まず話しておこうと思って。実は、ツジマ学園に行ってきたんだ」
ツジマ学園――その言葉に、槙矢は猛烈に嫌な予感がした。だがわけのわからないユリカは首をかしげるばかりだ。
「何しに行ったんですか?」
「うん、実はツジマ学園から、大会前に練習試合をしようと申し込みがあった」
やっぱり――槙矢は押し黙る。力を手に入れたラナが、それを試さないはずがない。
「だがその前に、ハクタン高校のバラック部と話す機会があってな。何だか知らんがツジマ学園――正確には部長の依武頭ラナが他校に試合を申し込みまくっているらしい」
「ハクタンって言えば、そこそこの強豪ですよね」
ユリカが顎に手を当て考え込む。
「ひょっとして、ツジマは、ハクタンにも試合を?」
「そうだ。そこでラナ一人に、完膚なきまでに叩き潰されたという話だ」
氷見は頷いた。ユリカは目を丸くする。
「一人に? 個人戦ですか?」
「団体戦だ。……だから困っている」
重いため息を氷見はついた。
「さっきツジマへ行ってきたと言ったろう? そこで他校と練習試合をしているのを見た。ハクタンの部長が言っていたことは正しかったよ。まるで試合になっていなかった。天と地との差があったというやつだ」
「そんなに凄かったんですか?」
「見ていて怖くなった」
全国上位レベルの氷見でさえ恐れさせたラナの力。その言葉は、皆の戦意を奪うに十分だった。
(まあ、当然だろうな。俺が力を与えたんだから)
槙矢は口を開く気にもなれなかった。大会に意気込むユリカたちに悪いことをしているという気分がぬぐい去れないからだ。こうなることがわかっていた。
「で、練習試合、受けたんですか?」
「断った」
氷見は首を横に振る。
「もう一週間早ければ受けていたかもしれないが、いまはタイミングがまずすぎる。もし負けてしまえば、それを引きずった心理状態のまま大会を迎えてしまう」
「そんな……」
部長の口から、負けてしまう、という言葉が出たことにユリカはショックを受けたようだった。氷見はじっとユリカを見た。
「正直に言えば、いまラナに対抗できるのは私か、ユリカ、お前くらいだろう。だが一対一では……勝てる気がしないのも事実だ。だから、残りの時間を使って徹底的に練習をしたいと思う……私だって負けるために大会に出るつもりはないからな」
「部長」
ユリカの目に戦意が甦る。
「はい!」
「いい返事だ。そこでだ、阿武隈。私たちの練習に付き合ってくれ」
「俺が?」
槙矢は口を開いた。
「大会に出ない俺がか?」
「君もこの部活の一員だろう?」
氷見は小さく笑みを浮かべた。
「君の実力は、おそらく私以上だと思っている。厳しくていい、私とユリカをどんどんしごいて欲しい」
大会のために――氷見の言葉に、槙矢は返す言葉が見つからなかった。
氷見部長から指導を乞われる一方、槙矢はラナの屋敷を訪れる――次話、明日20時更新予定。




