第18話 悪魔の囁き
依武頭ラナの住居は、ツジマ学園の中にあった。と言っても生徒用の寮にではなく、彼女用のプライベートな屋敷だったが。そもそもこの学園は、依武頭一族の経営する学校であり、一族に名を連ねるラナは、様々な点で優遇されていた。
「いい家に住んでるな」
槙矢は、ロビーかと思えるほど広い部屋で、毛皮のソファーに腰掛けていた。
内装はいかにも金持ち屋敷の匂いがする。花瓶やカーペット、あらゆるものが庶民では手を出すことも躊躇うような代物ばかりに見える。
「お行儀が悪いですわよ」
銀髪が煌く。威圧的にツンと吊りあがった瞳、自信に満ち溢れた顔立ちは、高貴さと同時に自分と周囲の違いを自覚している高慢さを感じさせた。
依武頭ラナ。
風呂上りだったのか、薄いピンクのバスローブをまとったラナは、槙矢から右側にある別のソファに腰を下ろした。丈が短いため、ラナのほっそりした白い太ももが目につく。立ち昇る色気に負けないよう、槙矢は視線を上げる。
(まったく、悪女って奴は美人なのが多いのかな……)
間近で見るラナはとても魅力的な身体をもっていた。豊かな肉感を持つバスト、きゅっとくびれたウエスト、すらりと伸びた足。肌はきめ細かく、染み一つない。これで心奪われない男がいるとしたら、そいつは男ではないとさえ思える。
槙矢は頬がゆるまないように気を配る。これほどの美少女と対面したことは、これまでなかった。ユリカもカコも可愛いが、ラナは頭一つ上をいっていた。モデルも真っ青。これでバラックなんて危険極まりないスポーツをやっているのだからわからない。他にもっとその恵まれた身体を生かす道があるだろうに。例えば……ファッションモデルとか。
「こんな夜遅くにやってきて……ほんと、非常識な人」
ラナは自らの銀髪を手で払い、不機嫌そうに顔をしかめた。それでも綺麗と思えるほどの少女である。見ているだけで身分の違いを感じさせるオーラを放っていた。
正直気圧されるものがあったが、不良と対峙したときに比べ、まだ槙矢は落ち着いていた。少なくともいきなり殴られることはない。最近では別人――つまるところ悪魔を演じることにも慣れてきていた。……自分でもイタイと思うが。
「それでも会ってくれた。俺みたいな得たいの知れない男なんて、門前払いが関の山だと思うけどね」
「本当はお断りよ」
ラナはテーブルの上のグラスに手を伸ばす。
「ただ理由はどうあれ、あなたは学園の守衛につまみ出されることもなく、ここまで来た。わたくしに会いにね。……しかも他校の、マドウ高校の制服を着ているというのなら、興味も沸くわ」
注いでくれるかしら――グラスを差し出すラナに、槙矢はテーブルの上のワインボトルを手にする。この世界、いやこの国には未成年禁酒という法律はないのか――グラスに赤い液体をなみなみと注ぎながら槙矢は思う。
ラナはグラスに唇を当て一口。じっと槙矢を見やる。
「あなたは飲まないの?」
「禁酒中で」
実は三歳から、アルコールは控えている。
「それで、何の用かしら? 非常識なマドウ高校の生徒さん」
「槙矢だ。阿武隈 槙矢」
名乗ってから槙矢はソファーに背を預ける。
「実は今日、うちの女子生徒がたちの悪い連中にからまれてね」
「まあ、それはお気の毒に」
わざとらしくラナは目を丸くする。
「最近は物騒なのね……それで、その女子生徒は?」
「無事だよ。少々揉めたが、たちの悪い連中にはきついお仕置きをしておいた」
「……ふうん」
ラナはワインを流し込む。
「それでわたくしにわざわざそんな話をしにきた理由は?」
「とぼけないでほしいな。あなたの差し金だとわかってる」
「証拠は?」
冷めた口調のラナ。その問いをある程度予想していた槙矢の答えは簡潔だった。
「ない」
「ない、ですって? それでわたくしのところに来たの? 依武頭家に軽はずみな行為をして、ただで済むと思っているのかしら?」
もって生まれた性質か、ラナは責めるようにまくしたてる。世間体とか身分とか、本当ならビビるところだが、ここでの槙矢はイレギュラーな存在。人ではなく悪魔なのだからちっとも効果はなかった。
「証拠はいらない。証言であなたが黒幕だと知っていれば」
「わたくしを悪党だと突き出す? それともいまここでわたくしを襲う? 復讐でもするつもりかしら」
「大変そそられる提案だと思う、それは」
腹が立たなかったといえば嘘になる。この高慢ちきな女を泣かせてやりたいと思わなくはない。もしユリカや氷見に怪我をさせていたら、ラナを引きずってでも連れ出して、土下座させてやるところだ。
「俺は、あなたを断罪しにきたわけではないし、この件を表沙汰にする気もないんだ」
「……目的はお金?」
ラナの声は底冷えするほどに冷たかった。
「強請ろうというのかしら。生憎とその手には乗らないわ。逆にあなたの存在をこの世から消してあげる」
「怖い怖い」
槙矢は思わず腰を浮かせてしまう。だが動揺と取られるのは嫌だったので、わざとらしくソファーから離れ、壁にかかっている絵画に視線を向けるふりをする。
「早とちりしてもらっては困る。さっきも言ったが、あなたを断罪する気もないし、強請る気もない。付け加えるなら人間の法にも興味がない。何故なら……俺は悪魔だからね」
「酔ってるの?」
「お酒は飲んでないけど」
皮肉れば、ラナは首を横に振った。
「だったらあなたはキチガイね。自分を悪魔だなんて……悪魔崇拝者?」
「違う、悪魔そのものだ。……まあ、信じられないのも無理はないけど」
悪魔ではないと言っても、ユリカやアグレスらは信じなかった。そして今度は悪魔だと言えば、ラナは信じないときた。何とも皮肉である。
「不良たちを退けたのは俺だ。九人全部。悪魔にとっては造作もないことだ」
「それで悪魔だという証明にはならないわ」
ラナはワインを口にしていても、その思考は冴えていた。
「あなたが武術の心得があって、達人クラスの腕前なら、雑魚が束になっても敵わないでしょうし」
「正論だな。あなたは賢い女性だ」
「お褒めに預かり光栄だわ、悪魔さん」
嫌味な笑みを浮かべるラナ。当たり前だと言わんばかりに自信たっぷりである。
「それで、わたくしをどうするつもり? その答えをまだ聞いていないわ」
「……実は、俺は専用の魔魂杖が欲しいんだ」
槙矢は部屋を歩き、絵画から今度は模造品の剣を眺める。
「オーダーメイドの。使い勝手のいいやつ。俺はまだ持っていなくてね」
「強請りじゃないって嘘なのかしら?」
ラナは空になったグラスをテーブルに置いた。
「このわたくしに魔魂杖を用意して欲しい、ですって? ライバル校の生徒のために魔魂杖を作るものですか。知ってるのよ、あなた地方大会の会場で氷見さんたちとお話していたでしょ」
「ああ、君がユリカに負けた、あの大会ね」
「……」
プライドを刺激したのか、ラナの視線が険しくなった。だが怒鳴る事もなく、自制した。
「ライバルになりそうな相手のためにわたくしが手配すると思う?」
「すると思うな。これは脅しではなく交渉だから」
槙矢はソファーへと戻る。ボトルを手に取り、おかわりはいるか、と確認する。ラナはグラスを上げた。
「交渉? わたくしに何か見返りがあるのかしら?」
「麻桐ユリカは知っているね? つい最近まで魔力の才能の欠片もなかった少女は」
「もちろん。魔法使いとしては最低の部類に入る子……あの麻桐ユウヤの娘でなかったら覚えるに値しないわ」
「でもそのユリカに君は負けた」
無様に、魔魂杖を突きつけられて。ラナは憎々しげに槙矢をにらんだ。
「わたくしの心をえぐりにきたの? ただでは帰さなくってよ?」
「どうして彼女がいきなり力をつけたか、知りたくないか?」
槙矢は早口にならないように、ゆっくりした口調で告げた。ラナの動きがピタリを止まる。
「……強さの秘密」
「気にならないか? ……俺だったら気になるね」
槙矢はじっとラナを観察する。ラナは考え込むように視線を床のカーペットに向けている。
「気にならないといえば嘘になるわね」
ラナは重い口を開いた。
「信じられなかった。あの試合で、彼女に負けたことが。……生涯における屈辱のひとつかもしれない」
「ユリカに勝つ力が手に入ると言ったら、君はどうする?」
槙矢――悪魔はささやいた。相手の関心を引き、力の誘惑をちらつかせる。ラナの表情が強張った。
「……くれるというの、あなたが? そんなことができるの?」
「悪魔だからね」
小さく笑みを浮かべる。だが果たしてラナに、槙矢の笑みがどのように映ったのかはわからない。ラナの表情は強張ったままだ。
「交渉と言ったけど……あなたの望みは? 魔魂杖でいいの?」
「魂が欲しい。君の」
槙矢は核心を口にした。ここへ来た理由は、まさしくそれだった。
「悪魔の契約……」
ラナはその言葉をつむいだ唇に指を当てて考え込む。
「魂を代償に、力をくれる……」
「君は勝つためには手段を選ばない人間だ」
槙矢はすっと、ラナに近づいた。
「俺が力を上げよう。……君を世界一の魔法使いにしてあげる」
「世界一……」
うっとりとしたような表情になるラナ。心が揺れている。それが見ていてわかる。槙矢の中で、これでいいのか、という問いが浮かんだ。だが同時に、人が誘惑にさいなまれている姿を見て快感を覚えている相反した感情もあった。
決めるのはラナだ。自分を貫くか、魂を差し出し、奴隷になるか。槙矢は彼女の答えを待った。
「……わたくしは、ずっと努力してきた。無名の魔法使いだったわたくしは、それこそ血のにじむ思いでここまできた。天才だって人は言うけれど、わたくし自身は努力の賜物だと思っている」
ラナが独白を始めた。静かに、淡々と。
「歴史を紐解けば、魔法は選ばれた者の持つ特権だった。才能は引き継がれる。わたくしは努力した。けれど最近、伸び悩んでいるの」
すっと瞳が、槙矢を射抜く。
「血のせいで負けた、なんて思いたくないの。わたくしは一番になりたい。あなたに魂を差し出すことで、一番になれるなら」
「……」
「わたくしはあなたと契約する」
決めた。決めてしまった。悪魔である槙矢はニヤリとし、人間である槙矢は後ろめたいものを感じた。それは最後の良心だったのかもしれない。だが、もう引き返せない。
「契約成立だ。契約に従い、君に力をあげよう」
槙矢は手を差し出した。
悪魔の契約を結び、ラナの魂を手に入れる約束をした槙矢。しかしその心のうちは――次話、明日20時投稿予定。




