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22 夫婦円満でいるために必要なこと

 乃江流は重罪人のように引っ立てられて江戸城へと戻ってきた。周囲の視線が痛い。

 侍女達が大慌てでやってきて乃江流を取り囲んだ。


「乃江流様!御無事だったのですね!」

「心配しましたわ~っ!」

 

 涙ぐむ月子や侍女達を目にして、乃江流はさすがに申し訳なく、居た堪れなかった。一緒に町へ出た侍女にいたっては号泣している。


「わたしが目を離したばかりにこんなことにっ……!うううっ……」

「いえ、あの、違うの。私が悪かったの!」

 

 慌てて宥めようとするが、彼女の涙は一向に引っ込まない。


「いいえっ!わたしのせいですわ~!もう打ち首を覚悟いたしました~~っ!」

 

 おいおい泣いている侍女を見て、乃江流の良心は最大限に痛んだ。


「ご、ごめんなさい!あなたのせいじゃないの!私が悪いの!だから泣かないで!」

 

 乃江流は必死に言ったが、侍女達は泣き止まない。

 どうしたらいいのかとおろおろしていると、突然広間に低い声が響いた。


「乃江流」

 

 乃江流はびくりと肩を震わせた。

 後方を見たくない。

 

 ―――怒っている。


 声色だけでわかった。静かだが、非常に重い怒りが込められている。

 恐る恐る振り向くと、怒気を纏った秀尊がいた。彼の後ろには何人かの臣下達がいるが、皆一様に同じ表情をしていた。すなわち「あーあ、やっちゃった」だ。

 

 秀尊は青ざめる乃江流の腕を取り、侍女達に厳しい目を向けた。


「お前たちへの処分は後だ」

 

 冷たい声で吐き捨てられ、侍女は泣きながらひれ伏した。乃江流はそれを聞いてますます青くなった。何も悪くない侍女にも罰を与えるのか。それは酷すぎる。


「っ……あの……」

「黙ってろ」

 

 減刑を申し出ようかと思ったが一蹴されてしまった。それ以上何も言うことができず、乃江流は引きずられるままついていくしかなかった。






 秀尊は乃江流の部屋に入り、放り投げるようにして手を離した。

 乃江流はどしんと尻餅をつく。


「っいた……ぃ……」

 

 文句を言おうとした乃江流は口を噤んだ。

 彼があまりに怒っていたからだ。秀尊がここまで怒っているところを見るのは初めてだ。彼はいつだって乃江流には優しくて、怒ったことなどなかったというのに。


「一体どういうつもりだ。なぜ逃げた」

「…………」


 乃江流は俯いて黙り込んだ。


「攫われたわけではないんだろう?攫われたのなら質屋で着物を売って、こんな着物に着替えたりはしないな」

「………ど、どうして……わかったんですか……」

「どうして?当たり前だろう。お前は知らないだろうが、城下では犯罪が多発している。町民は余所者には敏感なんだ。特に質屋は盗品が流れるから、多くの店では売主のことをよく見ている。どんな小さな店でもな」


 甘かった。本当に浅はかだった。

 乃江流は唇を噛み締めた。


「旅用品を売る店にはお触れを出しておいたが、なんでまた酢昆布なんか買った?少しならまだしも、大量買いなんかしたら不審だろうが。馬鹿なのか?」

「だって!旅には食べ物がないと!死んじゃうでしょう!」


 乃江流はむっとして顔を上げたが、秀尊と目が合って慌てて下を向いた。一瞬見えた秀尊の顔は怒りというより呆れが強かった。そのことに少しだけ安堵している自分がいた。

 

 なぜ逃げたか?答えは簡単だ。

 でもその答えを口にしたくなかった。


「……なぜ答えない」


 黙りこくる乃江流に、秀尊は舌打ちした。その仕草にびくついた乃江流を見て、眉間にますます深い皺が刻まれる。


「……そんなに俺が嫌いか」

 

 予期せぬ言葉が振ってきて、乃江流は顔を上げた。

 秀尊は酷く苦い顔をしていた。


「逃げ出したくなるくらいに俺が嫌なんだろう?憎んでいるんだろう?」

 

 低く吐き出された言葉は、乃江流の胸にずしりと圧し掛かった。その重みで、一体何を言っているのかと問い返すこともできなかった。何も言わない乃江流を見下ろし、秀尊は続ける。


「わかっている。俺は卑怯だ。お前を無理やり側室にし、意思を奪うようなことをした」

「……え……」

「本当のことを明かした後も、お前の気持ちは聞かなかった。何も言わないお前が、少しでも俺を想ってくれているんじゃないかと都合よく解釈して」

 

 秀尊は奥歯を噛み締めた。乃江流は唖然とした。


「本当は帰りたかったのか……。俺と居ることが、辛かったのか?……俺は、お前をそんなに苦しめていたのか」


 酷く苦しげにくしゃりと顔を顰めた秀尊を、乃江流は呆然と見上げる。

 こんなに辛そうな秀尊を見るのは初めてだ。彼がこんなことを考えていたなんて、夢にも思わなかった。

 

 秀尊が乃江流を誤解させたように、乃江流もまた、秀尊を誤解させてしまった。秀尊を嫌ったり、まして憎んだことなどただの一度もないのに。胸の中に怒涛のように後悔の波が押し寄せた。


 ―――私、なんてことをしていたんだろう。


 こんなに彼を苦しめることになるなんて思わなかった。


「……違います……違うんです」

 

 乃江流は喘ぐ様に言った。


「私、嫌だったんです……将軍様が、他にも側室を迎えるって聞いて」

 

 そうだ。本当は、嫉妬していたのだ。

 なんだかんだ言って、自分以外の女性と秀尊が愛し合うことを想像するだけで、逃げ出すほどに辛かったのだ。なんて醜くて心の狭い女だろう。そんな女だと、秀尊に知られたくなかった。

 

 そう思っても、全て言わなければいけないような気がした。それが、せめてもの贖罪だ。

 秀尊の黒い瞳が再び乃江流を捉える。


「家柄も容姿も勝てるところなんてないし、世継ぎの子の母親にはああいう人が相応しいんだって思って……。でも、本当は辛かったんです。将軍様が私以外にも優しい笑顔を向けるのかと思うと……なんだかすごく辛くて……前はこんな風じゃなかったのに……祝福する自信もなくて……」

 

 乃江流は必死に言い募る。心のうちを吐き出すと、なぜか涙まで一緒に出てきた。ぼろぼろとこぼれだす涙を制御することもできず、乃江流は畳に手をついて爪を立てた。


「逃げ出したりして、ごめんなさい……。憎んだりなんて、してないの……。だけど私……怖くて……こんな私、嫌いになられるかと思うと、怖くなって……もう、一緒にいられないと思って……」


 言葉をつなげようとするものの、嗚咽で声にならなくなってきた乃江流の目の前に暗い影が落ちた。すぐに大きな身体に包まれる。 


「もういい、わかった」

 

 胸の中に納められ、乃江流からは秀尊の顔は見えなかったが、彼の手つきと声は、いつものように優しかった。


「わかったから、もう泣くな」

 

 泣くなと言われても、そんなに優しく抱きしめられるのは逆効果だ。乃江流は安堵して、秀尊にしがみ付いた。秀尊は何も言わずに乃江流が落ち着くまでただ抱きしめ続けた。


「……ご、ごめんなさい~……ごめ……」

「もういいって言ってるだろう」

 

 やっと落ち着いて顔を上げると、将軍の眉間の皺は綺麗さっぱり消えていた。


「……お、怒って、ないんですか……」


 乃江流の予想に反してその顔はどこか嬉しそうだった。


「怒ってない」

「ほ、本当に?」

「怒ってない。俺も悪かった。側室のことはお前に言うまでもないと思っていたんだが、ちゃんと話すべきだった」

「………いいんです。わかってますから。仕方ないことです」

「おい。お前また誤解しているだろう」

 

 秀尊は困ったように笑った。


「俺はな、これ以上側室は娶らないと決めたんだ」

 

 予想外の言葉に、乃江流はぎょっとして秀尊を見た。


「え、でも、あの人は?……あの綺麗な方たち……中園祥子さん、とか……」

「そんな名前だったか?そうか、あの女がお前に余計なことを吹き込んだんだな?」

 

 秀尊は一瞬だけ黒い笑みを浮かべたが、乃江流の頬を撫でながら言った。


「臣下の一部が勝手に側室どうこう言っていただけで、俺にはその気はない。よくあるんだ、娘を側室にしようと勝手に動く輩が。俺がお前を娶ったから、他の女もいけるんじゃないかと思ってるらしくてな。俺の許可なしでは有り得ないんだが。……本当に、あいつら勝手に余計なことをして、絶対に許さん」

「……で、でも、そうせざるをえない状況になることもあるでしょう?」

「そんなことはないさ。弱みを握られても、それ以上の弱みを握り返せばいい。俺にはこれ以上妻はいらない。俺が愛しているのも、子が欲しいと思うのも、お前だけだ」


 秀尊は乃江流を見つめて微笑んだ。

 乃江流はその顔を見て再び涙ぐみそうになるのを堪えた。


「将軍様。私達、言葉が足りなかったみたいですね」

「そうだな」

 

 秀尊は大真面目に頷いた。

 乃江流はさゆりが手紙で言っていたことを今更ながら思い出した。


 ―――ちゃんと、気持ちを伝えること。

 

 とても臆病で、愚かだった自分と決別しなければ。

 乃江流は秀尊から少し離れた。


「私も、ちゃんと告白します。聞いてくださいね」

 

 乃江流は背筋を伸ばし、正座して、大きく息を吸い込んだ。


「将軍様、お慕いしています」

 

 彼の目を見て真面目に言おうと思ったのに、やはり照れくさくて、目を逸らしてはにかんでしまった。失敗したと思った途端に再び強く抱きしめられ、乃江流は呻いた。


「しょ、将軍様っ……くるしいです……」

 

 苦しいといっているのに、秀尊はますます腕に力を込めた。殺す気なのかとすら思った。


「可愛い」

 

 耳元で囁かれて、乃江流は全身真っ赤になった。


「乃江流はなんだってこう可愛いんだ。計算してるのか?」

「な、なに言ってるんですか!」

 

 乃江流は秀尊の胸を押して身体を離し、赤い顔のまま怪訝そうに彼を見た。


「将軍様、ちょっと変ですよ。私は全然可愛くないですし、嫌な女です」

「……どこが嫌な女なんだ?嫉妬くらい誰でもするだろう。前から思っていたが、お前は自分のことが何もわかってないな。人の相談に乗れても自分のこととなると途端に鈍くなるって典型なんだろうな。そこがまた可愛いんだが」


 秀尊は甘く微笑んで乃江流の頬を擽る様に撫でた。その感覚にふるりと身震いした瞬間、素早く唇を捉えられた。


「っ……!」


 唇が離れると、乃江流は真っ赤になって狼狽する。


「こ、こんな昼間から!やめてください!」

「誰も見てないだろう」

「駄目です!誰か入ってくるかもしれないでしょう!」

 

 乃江流の猛抗議に、わかったわかった、と秀尊は笑った。乃江流はまるで反省の色がない秀尊を一睨みしたが、彼の楽しそうな表情を見て頬が緩んだ。乃江流も大概秀尊には甘くなってしまったらしい。


「なあ乃江流、これからは一人で考え込む前に、まず俺に言え。どんなことでも。俺もそうするから」

「はい。そうします」

 

 乃江流は笑って頷いたあと、ふと思い出したように言った。


「……不思議なんですけど、将軍様はいつから私のことが可愛いなんて思うようになったんですか?最初はがっかりしてたのに」

 

 将軍は心外だというように眉を顰めた。


「がっかりなんてしていない。正直に白状するが、初めて会ったあの晩、お前のことを可愛いと思ってた」

「嘘!普通だって言ったのに!前の四人は美人だったって言ったじゃないですか!」

「美人でも好みじゃない女もいるだろう。俺はどちらかというとあまり美人過ぎる女は苦手だ。頼子を思い出すせいかもしれん。とにかくお前は俺の好みだったんだ。素朴で清純で素直そうな感じが良かった。だから口付けしたんだろうが」

「………皆にもしたんじゃないんですか?」

「するわけないだろう。俺はそこら辺の男と違って真面目な武士だぞ」

「……あの時は全然真面目そうに見えませんでしたよ。夜伽がどうこう言って騙したし」

「ちょっとからかっただけだ。あんまり素直に泣きそうになってるから可愛いと思った」

「それって酷いです!」

「わかってる。だからすぐに全て白状しただろう。お前はそんな俺の悩みにも真剣に向き合って考えようとしていたから、驚いたし、嬉しかったんだ。俺はあの時からお前に惹かれていたんだろうな」


 秀尊の言葉に、乃江流は嬉しいような恥ずかしいような、どこかに隠れてしまいたいような気分になった。身体の中にある真っ直ぐ芯がどろどろに溶かされるような、甘い砂糖菓子を食べたような妙な気分だ。乃江流は両手で顔を覆った。


「……も、もういいです。……その、有難うございます……」

 

 乃江流は全部溶けてなくなってしまう前に話を打ち切った。将軍は楽しそうに乃江流の表情を観察していたが、ふいに視線を横に向けた。


「ああ、そういえば俺も聞きたいんだが。あれをどうする気だ?」

 

 乃江流は顔を上げた。秀尊の指差す先に大量の酢昆布が入った袋がある。乃江流はその存在を思い出して沈黙した。気まずい静けさが流れた。


「………食べます」

 

 やっと蚊の泣くような声を出した乃江流に、将軍は間髪いれずに言う。


「あの量を一人でか?」

「…………は、い………」

 

 半年分はありそうだが、食べようと思えば食べられるはずだ。


「好物なのか?」

「いえ……」

 

 別に好物ではない。というかほとんど食べたことはない。人生で一度くらいしか食べたことはないと思う。乃江流の好物は団子とか焼き菓子とか饅頭だ。それは秀尊もよく知っている。


「なんで酢昆布を選んだんだ……。他にもいろいろあるだろう……」

「……た、たまたま目に付いたので……。軽いし、持ち運びやすいし、飢え死にすることはないかと思って……」

 

 乃江流が居た堪れなくなって顔を伏せると、秀尊はとうとう堪えきれなくなったようで吹き出した。秀尊の大きな笑い声を聞いて、廊下に控えていた臣下や侍女達はほっと胸を撫で下ろした。

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