21 逃げる妻、追う夫
からりと晴れた雲一つない日だった。
乃江流は数人の侍女と従者を伴って城の外に出た。城下町に美味しい和菓子屋と有名な神社があると聞き、一度行ってみたいと以前から思っていて、秀尊から許可を貰ったのだ。ただ、側室という身分は隠した。一般の町民に紛れたお忍び観光だ。普通の町娘よりは質が良いが地味な色合いの着物を着て、あるだけの金を手に城下におりた。
町は相変わらず人で賑わっていた。大人気の和菓子屋もたくさんの客でほぼぎゅうぎゅう詰め状態だった。この状況は実に都合が良かった。
「お嬢様、混み合っておりますからお気をつけくださいね。急がなくともお菓子は逃げませんから、私から離れませんよう」
「はーい、わかってます」
殊勝に返事を返し、一緒についてきた侍女が人波にもまれて離れた瞬間、乃江流は出口に向かった。人波を掻き分けるように外に出ると、従者の男達が外で煙草を吸っているのが見えた。彼らは大道芸人とそれを囲む人々に目を向けている。これ以上の機会はない。
「っごめんなさいみんな!」
乃江流は彼らに背を向け、通りを一目散に駆け出した。
息切れを繰り返し、横腹が痛くなってきたところでやっと立ち止まると、辺りにはほとんど人の気配がなかった。いつのまにか商店街から住宅街へと入っていたらしい。道に散歩する老人と子どもの姿が見えたが、他に人はいない。
「………ここまでくれば、大丈夫かな」
乃江流は外壁に寄りかかって大きく息を吐いた。走ってからかなり汗をかいてしまった。
遠くの方に小さく城が見える。
置いてきた従者たちは、今頃慌てているだろうか。
もし今、乃江流の前に乃江流の置かれた状況と同じ女が現れたら、きっとこう言っただろう。「今の貴女はとても幸福な立場にいる。将軍が他の側室を娶るのは仕方ない。戻って謝りなさい」と。
「……そんなの無理……」
思っていたよりもずっと、自分は欲張りで醜い女だった。
人を好きになって、初めてそのことに気づいた。
何が巫女だろう。神はきっと自分に呆れていることだろう。誰かに偉そうに説教をする資格などない。
―――これ以上醜い女になりたくない。だから、彼の前から消える。
脳裏に甦る秀尊の顔を無理やり彼方に追いやって、乃江流は周囲を見回した。
今現在、持ち物はない。肌着にこっそり縫い付けたお金だけだ。祈祷で稼いだお金だが、それを元手にしてこれから長旅の準備をし、故郷まで帰る。
女一人の旅は危険が伴うからできれば従者を雇いたいところだが、手持ちのお金はそこまで多くない。安い給金で信頼できる人間を雇うのは難しいだろう。
誰か北へ旅する者たちを見つけてついていければいいのだが、最悪一人でなんとかするしかない。
乃江流は不安を覚えながらも歩き出した。
「……大丈夫、なんとかなる」
自らを奮い立たせるために拳を握ってみる。
「もう後戻りできないし、私は幸運を呼ぶ巫女なんだし、そう悪いことにはならないはず」
根拠のない自信を胸に、乃江流はまず質屋を探した。とりあえずこの着物を売って小金持ちに見えないような着物を買ったあと、旅の食料などを手に入れなければならない。
「良い着物だねぇ。ほとんど新品じゃないか。売って良いのかい?お嬢さん」
「ええ、ちょっと入り用なので。いくらになりますか?」
質屋の老人は悪くない金額で着物を買い取ってくれた。古い麻の着物を買って着替えると、将軍の側室どころか町娘にさえ見えなくなった。貧しい農家の娘という感じだ。
町角の茶屋で団子を買い、腹ごしらえをしていると、目の前を身なりの良い武士達が走って行った。何事かと思っていると、彼らはなにやら木の看板を立てて叫んだ。
「将軍の側室である姫が何者かに攫われた!見つけたものには褒美を遣わす!」
よく見ると看板には乃江流の似顔絵が描かれている。
「ええぇ~……!?」
攫われたことになってる!?
乃江流は愕然とした。
「いやねぇ、怖いわ。人攫いなんて」
「お姫様が攫われたって?そりゃあ大変だ」
「どうやら江戸中で触れ回ってるらしい」
「褒美がすげえじゃねえか。俺も探してみるかなぁ」
町民達の声が聞こえてくる。乃江流は青くなって団子をごくりと飲み込んだ。
たった一時間で江戸中に包囲網が敷かれている……!
「………まずい……ど、どーしよう……」
暢気に腹ごしらえをしている場合ではなかったようだ。乃江流は急いで団子を口に詰め込み、逃げるようにその場を立ち去った。
どこへ行っても側室様誘拐の話題で持ちきりだ。乃江流の似顔絵が町中どこにいってもある。店で旅の品を買うのも危険だと判断した乃江流は、近くの乾物屋で酢昆布を大量に買った。店のおばさんには随分酢昆布が好きなんだねぇ、などと笑われたが、どうでもいい。酢昆布だけでもないよりましだ。しばらくは生きていけるだろう。
酢昆布の入った袋だけを持って、このまま江戸を出ようと決めた。ここまでとりあえず気付かれていない。通行手形は以前来たときのものを持っているし、関所さえ抜ければなんとかなるだろう。
そう思っていたのが甘かった。
「おい、待て!」
これまでの行動の何がいけなかったのかさっぱりわからないが、関所の方向へ早足で歩いていたところを、止められた。刀を持った大柄な武士五人に行く手を塞がれる。
「お前、宮坂乃江流だな!」
何でわかったの!?
似顔絵?似顔絵のせい?
乃江流は狼狽しながらも俯きがちに首を振って否定した。
「ち、ちがいます……」
「違うだと?そんなに酢昆布を大量に買って、怪しまれると思わなかったか!浅はかな!」
「えええっ!?」
酢昆布を買いすぎたせいなの?
そんな馬鹿な!あそこのおばさんが通報したの!?
「っち、違います!私は!」
男達は乃江流を取り囲んだ。大きな男達に囲まれると圧迫感が物凄い。強い力で腕を掴まれた。必死で抵抗しようとしたが、華奢な女が大柄な男の力にかなう筈もない。
「私は単なる田舎者で!」
「いいから来い!御上が大層御立腹だぞ!」
武士に怒鳴られ、乃江流は竦みあがった。
武士達は乃江流の両腕を掴んで強引に連行する。爪先が地面についておらず、ほとんど浮かんでいる。まるで罪人のようだ。丁寧に扱う気はないらしい。
「………あの、将軍様、何か言ってましたか?」
乃江流の右腕を掴んでいる一際大柄な武士に尋ねてみると、彼は無表情のまま器用に片眉を上げた。
「御上は大層心配されておりました」
そんなことを聞かされると、やはり罪悪感というものが沸いてくる。乃江流はがっくりと項垂れ、今後のことを憂いた。
かくして、側室の逃亡劇はたった三時間で幕を閉じたのだった。




