20 最後の幸せな夜
乃江流はある決意を持って夕餉に向かった。
技巧を凝らした素晴らしい料理は、毎食のことだが口の中でとろけるような美味しさだ。一口一口ゆっくりと味わう。
普段お酒は口にしないが、初めて一杯だけ飲んでみた。
「珍しいな。大丈夫か?」
驚く秀尊の前で、お猪口に入った透明な液体を飲み干す。喉が焼け付くような感じがした。
「……なんか、変な味」
正直な感想を言うと、秀尊は笑った。
「慣れると美味く感じるんだぞ。お前はまだ子どもだな」
子ども扱いされたことにむっとしたが、秀尊が楽しげに笑うので、乃江流は何も言わなかった。
彼はよく笑うようになった。初めて会った時は、少し皮肉っぽい笑みだったのに、今では本当に楽しそうに笑う。
普段仕事をしているときは真面目な顔が多く、笑ったりしないようだが、二人でいるときは優しく笑う。
その笑顔を見るのが好きだった。手を繋ぐのも、抱きしめられるのも、口付けされることも、嬉しかった。
―――すごく好きだった。……そう、好きなんだ、私。
この人のことが、好きだ。
乃江流は、とろりと自分の中で何かが溶けて行くのを感じた。
「これは強すぎるんだろう。お前には果実酒の方がいいかもな。今度もって来させよう」
「果実酒?」
「ああ、桃とか梅とか、かりんの酒だ。甘くて女が好む。お前は果物が好きだから、きっと気に入るだろうな。よし、明日にでも飲ませてやる」
秀尊の話を聞きながら、目頭が熱くなってきた。胸が詰まってたくさんものが食べられない。
「……どうした?食欲がないのか?」
箸が進まない乃江流を見て、秀尊は心配そうな顔をした。乃江流は慌てて首を振る。
「なんだかお腹いっぱいで」
「そうか?具合が悪いんじゃないだろうな?医者を呼ぶか?」
「大げさですよ」
乃江流は笑ったが、秀尊は生真面目に言った。
「少し顔が赤いな。まさかあれだけで酔ったのか?」
「私、もしかしたらお酒が弱いのかもしれませんね」
「もう飲まないほうがいいな。ほら、俺の果物をやるから。西洋西瓜、好物だろう?」
秀尊は果物の乗った皿を乃江流に差し出した。乃江流はそれを受け取って微笑んだ。
「……ありがとうございます。嬉しい……」
乃江流が礼を言うと、秀尊は笑って、カレイの煮付けに手をつけた。
秀尊は細身の身体の割りにかなり食べる男だ。乃江流は果物をゆっくり噛み締めながら、秀尊が食事をする様子を眺めた。
他愛無い雑談をしたが、彼は側室のことは何も言わなかった。乃江流も何も言わなかった。
「乃江流、やっぱり酔ったのか?」
薄暗い部屋で、口数の少ないまま横になった乃江流を、秀尊は眉を寄せて見下ろした。一見不機嫌そうに見えて、目が心配そうに揺れ動いている。本気で心配しているらしいことが伺えて、乃江流は笑った。
「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」
「心配するに決まってるだろう」
至近距離で見下ろす秀尊を、乃江流は見つめた。
この距離も、今夜で最後だ。
「将軍様。私、嬉しいです」
「何がだ?」
「心配してくれて」
「それくらいで喜ぶのか?お前は。まったく、もっと他にもお前を喜ばせることができるんだが」
「例えば?」
「そうだな、お前の好きそうな菓子を持ってくるとか、花火を見せてやるとか、それから……」
秀尊は無骨な指を滑らせて、着物から見える乃江流の鎖骨をなぞった。乃江流はその指を掴んで秀尊をねめつける。
「将軍様」
「わかったわかった。まだ早いな。今日も手を繋ぐくらいで我慢しよう」
秀尊は喉の奥で笑うと、身を引こうとした。が、乃江流は咄嗟に彼の手を引き寄せ、頭を浮かせた。
蝋燭の灯りだけの薄暗い部屋に、静けさが落ちる。
「……大胆だな」
目を開けると、将軍が目を白黒させていた。
乃江流は悪戯が成功した子どものように微笑む。
「やっぱり酔ってるみたい」
「大歓迎だ」
言って、秀尊は嬉しそうに笑う。
「やはり明日も飲もう」
乃江流の身体を強く抱き寄せた。乃江流は首を横に振った。
「もういいですよ」
「明日はお前の好きそうなのをやるから。ちょっと飲んでみろ。きっと気に入る」
暑い夜で、くっつくと互いの体温でますます暑さが増すが、不快ではなかった。
むしろ心地よかった。
乃江流は彼の胸に頬をつけて目を瞑った。心音が速い。乃江流に心音の速さも、秀尊には知られているだろうと思った。
長い沈黙が流れた。
二人とも、何か話そうとは思わなかった。ただ同じ時間を共有するだけで満たされていた。いつもならこのまま眠ってしまうのだが、乃江流は、今夜だけはもう少し眠らずにいたかった。
「……将軍様」
「ん?」
「私……」
何を言うべきか、乃江流は迷った。言いたいことはあるのに、何を言っても、胸がつかえて、泣いてしまいそうな気がする。
今夜は笑っていようと決めたのに。
「どうしたんだ?」
秀尊は眠そうに目を細めながら首を傾げた。
「いえ……。今夜のこと、ずっと覚えておきます」
「俺も忘れないだろうな。乃江流が自分から口付けしてくれるとは、奇跡に近い」
秀尊は笑って、乃江流の頬を撫でた。
「なあ、口付けはしても良いよな?」
その質問に、乃江流は秀尊の頬を軽くつねった。
「駄目です」
「なんでだ?」
「だって将軍様はすぐ調子にのるから」
「それ以上はまだしない。口付けくらいはいいじゃないか」
「駄目です。今夜は特別なんです」
「特別?なら明日も特別な日にすればいい」
―――明後日も、明々後日も一緒に、特別な日にしよう。
そう囁く秀尊を、乃江流は黙って見つめた。
涙が溢れそうになって、それを堪えるために自分の太股をきつく抓った。乃江流が目を瞑ると、秀尊も目を閉じたようだ。穏やかな寝息が聞こえてくるまでそう時間はかからなかった。
「……ごめんなさい、将軍様」
乃江流の頬を一筋の涙が伝った。
―――貴方を好きだと言う度胸もないまま逃げ出す私を、どうか許してください。




