19 すれ違う夫婦
その日は蒸し暑い夜だった。城内で内輪の宴会があり、秀尊は夜が更けた頃にやっと解放された。酒には強い方だが今夜は随分飲まされて酔いが回っていた。
「じゃな、おやすみひでたか~」
「おう、気を付けて帰れよ」
途中まで一緒だった大次郎が千鳥足で去って行った。彼もだいぶ飲んで酔っぱらったらしい。妻の家に婿養子に入ったことでいろいろ気苦労があるようで、さっきまでずっと義実家の愚痴を言っていた。
かくいう自分も、娘をぜひ側室にという武士たちをかわすのにだいぶ苦労した。側室を娶ってから、年頃の娘を持つ親があからさまに媚びてきて、それが鬱陶しくて仕方ない。
早く乃江流の顔が見たい、と思う。自室で湯浴みをした後、急いで乃江流の部屋に向かった。
「……寝てるのか」
布団の上で寝息をたてる妻の姿に、秀尊は内心がっかりした。蝋燭の火はまだ消えていない。無防備な寝顔を、秀尊は隣に座って眺めた。
最近乃江流は蒸し暑くて寝られないと文句を言っている。北国は夜が涼しく、夜寝苦しいということがないのだという。
せっかく寝ているところを起こすのは可哀想だと思うが、起きてほしいとも思う。今日は忙しかったため、一度も会話ができていないのだ。
「おい」
ほっぺたをつつくと、乃江流が眉を顰めた。
「うー……うるさい……」
「うるさいだと?」
自分にこんなことを言う女は他にいない、と思う。
「乃江流、起きろ」
「いやですー……」
乃江流は秀尊に背を向けた。むっとして腕を引っ張ると、乃江流が顔を顰めてうっすら目を開いた。
「……あれ、しょうぐんさまだ……」
乃江流の眉間の皺が消えた。
「おかえりなさい」
ふにゃりと笑ったその顔を見て、思わず頬が緩んだ。可愛い、と思う。
「ただいま」
寝転んで小さな身体を抱きしめた。柔らかくて良い匂いがする。その存在を身体全体で感じて秀尊は安堵した。
「ん、暑い……です……はなして」
「文句言うなよ。少しくらいいいだろう?」
きつく抱きしめると、抵抗しても無駄だとわかったのか、おとなしくなった。諦めたように目を瞑った乃江流の頬に口付ける。
額や頬に口付けても、乃江流は拒否しない。調子に乗って唇を塞ぐと、すぐに押し返されてしまった。
「~~っ将軍様!ダメです!」
「なんだ、初めてでもないのに」
「うるさいです!ダメなものはダメなの!」
乃江流はもそもそと動いて秀尊に背を向けた。その顔が真っ赤なことに満足して、後ろから抱きしめるだけにとどめておいた。
「乃江流、今日は何してたんだ?」
「今日……」
乃江流は少しだけ黙った。
「あの、将軍様……」
乃江流は低い声で何か言いかけた。
「どうした?何かあったのか?」
「………いえ、なんでもないです。今日はその、普通にごろごろしてました」
「ごろごろ?」
「だって暑くて何にもやる気がおきなくて。江戸は暑すぎます」
秀尊は小さく笑った。乃江流は本当に暑さに弱いらしい。確かに今日は暑かった。夜になっても熱が引かない。
秀尊は身体を起こし、近くにあった扇子を手にして風を起こした。
「少しは涼しいか?」
「……はい」
「江戸の夏にもそのうち慣れるだろう」
眠いのか、乃江流は黙って目を瞑った。あおいでやりながら、秀尊は来月の花火大会のことを考えた。
「ああそうだ、浴衣がいるな。乃江流に似合いそうな……何の柄がいい?」
そう聞いたとき、既に乃江流は寝息を立てていた。
自分が選んで後で驚かせよう、と決めた。秀尊は扇子を置き、妻の頬にそっと口付けた。
「これはこれは、巫女様。本日はよろしくお願いいたします」
でっぷりとした身体をした武士が、汗を拭きながら言った。乃江流は軽く頭を下げる。
今日は祈祷を頼まれていたのだ。秀尊にはもう祈祷はしなくて良いと言われているが、高位の武士の頼みで断ることはできなかった。家族の息災を祈願してということだったのだが―――。
「これは、私の娘です」
「初めまして、わたくし薫子と申します」
汗ひとつかいていない涼しい顔をした若い娘が一緒にいた。この間会った祥子という娘とはまた違う、同じ年頃の綺麗な娘だ。その整った顔は自信に満ち溢れている。
「娘に良縁をと思いましてな。ぜひともお願いしますよ」
―――良縁。
年頃の子を持つ親からは珍しくない願いだ。
だが、じろじろと頭からつま先まで無遠慮に見つめられ、頬の筋肉が強張った。
平静を装って、祈祷を始める。
お金を貰っているのだから、仕事はきちんとしなければならない。相手がどんな人であれ、この巫女装束を着ている限り、自分は巫女だ。巫女としての勤めを果たすだけだ。
雑念を振り払い、彼女に良縁があるように願いを込めて神棚を見つめる。
「お父様、本当にあの方なの?」
訝しげな声で、娘が言った。
「もっと綺麗な人かと思っていたの。拍子抜けしてしまったわ」
その言葉は、乃江流の耳にはっきりと届いた。
聞こえるように言っているのだろう。乃江流は唇を噛んだ。
「ただの田舎の巫女なのでしょう?どうして将軍様はあんな方を?」
「これ、よしなさい」
武士の嗜める声が聞こえた。
「お前に負ける要素はないとこれでよくわかっただろう?」
「ええ、本当ですわね。連れてきてくれて有難う、お父様」
手が震えた。
やはり、と思う。
彼女も側室の候補なのだろう。美しく、家柄の良い娘。将軍の妻に相応しい女性だ。
―――自分とは全然違う。わかっている。わかってるのに!
必死に平静を装った。なんとか祈祷を終え、彼らを見ると、嘲笑うような笑みを浮かべていた。祥子と会った時と同じだった。
悪意と嫉妬、そして侮蔑。ほの暗い瞳に心を直接突き刺されたように感じた。
―――こんなことが続くのは、とても耐えられない。
けれど、きっとずっと同じことが続くのだろう。秀尊が他の側室を娶れば、きっと確執が起こる。それに、秀尊がずっと自分を見てくれるとは限らない。
今、秀尊は限りなく優しくて、とても大事にしてくれるけれど、それがいつまで続くだろう。
永遠などない。
不変のものはなく、人も、心も、移り変わっていくものだ。
長続きするわけはない。
側室のことを秀尊に聞けなかったのは、肯定されるのが怖いからだ。他に妻を娶ると、彼の口から聞きたくなかった。
彼が他の女性にも優しくすることを考えると、辛くて仕方がない。どうにかなりそうだ。
でもそんなことは我儘だと、よくわかっている。
だから、彼には何も言わない。
乃江流は自室に戻り、心配する侍女たちを締め出して、一人決意を固めた。




