18 友の助言と新たな火種
乃江流は扇子をぱたぱたと仰いでいた。
日差しが強く、湿気が多くて汗をかく。本格的な夏の到来だった。江戸の初夏の暑さに乃江流はへばりそうだった。江戸は夜の気温が高すぎるのだ。故郷ではまだ夜は涼しさが残るというのに。この先もっと暑くなると聞かされ、先が不安だった。
「乃江流様。文が届いておりますわ」
侍女の声に、乃江流は振り返った。
差出人を聞くと、さゆりだった。あの試験で出会ったさゆりや他三人巫女達とは、何度か文のやり取りをしている。
「さゆりさんか。早いなぁ。この間文を出したばかりなのに」
さゆりたちは皆元気に巫女をやっているようだが、側室生活については様々な助言を貰った。
例えば、「将軍に簡単に身体を許すな。三回断って怒るような男なら離縁しろ」とか、城内の女に嫌がらせをされたときに呪う方法、男の子を産むためのまじない、夫を上手く操作する方法等々、案外下世話なものが多く、乃江流は固まったり苦笑したりするばかりだった。
ただ、やはり友人というのは良いものだと思う。知らない人ばかりの城の中で、心細い気分になった時に元気をもらえるのだ。
文を受け取り、内容に目を滑らせると、いつもは綺麗な字が少しだけ歪んでいた。たぶん急いで書いたのだろう。内容はこんなものだった。
拝啓 乃江流様
お手紙有難うございます。貴女が元気そうで私も嬉しいです。
私も変わらず元気ですし、夫ともかなり仲良くやっています。
あなたが正妻と将軍の仲を良くしようなんて無駄な画策をするのを諦めたみたいで一安心しました。あの二人、もとから相性最悪なので無駄なことです。あなたが懸命だから言わなかったけど。
それにしても、将軍と新婚旅行で温泉なんて、随分仲良くやっているのね。
だけど、一緒にお風呂に入った上に世継ぎを産めなんて、強引過ぎるんじゃないかしら?
ねえ乃江流、ぽやっとしているとあっという間に赤ん坊ができるから気をつけるのよ。ここだけの話だけど、あの人これまで我慢してた分、凄そうだもの。嫌なら嫌だとはっきり言うべきだわ。いいわね?
あと、一つ確認しておくけど、
あなた、結局将軍のことが好きなのよね?
あなたの口からそれを聞ければここまで気を揉まないんだけれど。好きなら好きでいいのよ。仲を裂こうって気はさらさらないわ。
とにかく、夫婦円満の秘訣はお互いの気持ちを隠さず伝えることよ。じゃあね。返事を待ってるわ。
最後のほうは完全に話し言葉をそのまま書いたみたいになっている。
「さゆりさん……」
乃江流は慌てて文を閉じると、他人の目から隠すように腹のあたりで握りこんだ。
「さゆりさん、っ怖いよ!なんでそんな細かいことまで知ってるの?どこで知ったの!」
旅行に行ったことは文に書いたが、一緒に風呂に入ったり、世継ぎのことまでは書いていないはずだ。なぜわかったのか。乃江流は周囲を見回し身震いした。何かいたとしても乃江流には見えないし、どうしようもできない。すぐさま深く考えることを止めた。
『あなた結局将軍のことが好きなのよね?』
文章はさゆりの声で脳内再生が余裕だ。これこそが、さゆりが聞きたい一番のことなのだろう。聞きたいというか、ほぼ断定しているような感じだが。それを早く聞きたいがために急いで文を送ってきたらしい。
「………好き……?」
乃江流は呟いて、真っ赤になった。今誰かに顔を見られたら心配されそうな程の赤さだ。
好きって……!好きって……!
乃江流は文を握り締めた。
好きって言うのはこういう気持ちなんだろうか?
好きなのかもしれない、とは思う。秀尊はあの箱根の夜から、輪をかけて乃江流に優しくなった。江戸に戻ってきてからも、時間があればいろんな話をして、夜には手を繋いで一緒に眠っている。
秀尊のことを思うと、胸が締め付けられるような、きゅっと疼く様な感覚に襲われた。いつからこんな風になったのか、思い出せない。嬉しいのに、なんだか心もとなくて、地に足がついていないような感覚なのだ。
「……これが、好きってことなのかなぁ……」
これまで誰かに対してこんな気持ちになったことはなかったから、よくわからない。
乃江流は届いた文を小さくたたんだ。この手紙を人に見られるわけにはいかないから、簡単に見られない場所に仕舞っておかなくては。箱根で買って貰ったお気に入りの細工箱に丁寧におさめた。
さゆりには悪いが、まだ返事を書けそうにない。
部屋から庭に出て池の側に寄ると、何匹もの鯉がすらすらと泳いでいた。餌がもらえると思ったのか、何匹かが寄ってくる。
「いいなぁ、涼しそうで……」
乃江流が羨んで言った時、背後で人の気配がした。目だけで後方を見る。侍女かと思ったが、それにしてはきらびやかな色だ。振り返ると、赤い着物に身を包んだ長身の若い娘がいた。
「?」
見覚えのない娘だった。乃江流の部屋の側の庭には、普段ほとんど人が訪れない。たまに幸せを呼ぶ巫女に相談に来る者達が現れるくらいで、他には侍女達か秀尊、そして頼子。それくらいだ。
今日は特に相談者の予定もなかったはずだ。乃江流は首を傾げて後方にいる乃江流付の侍女を見た。彼女達は物言いたげに赤い着物の娘を見ているが、何も言えずにいる。よほど身分の高い家の生まれなのだろうと予想がついた。
「御機嫌よう。わたくし、中園祥子と申します」
乃江流と同じ年頃の、かなり気の強そうな綺麗な娘だ。
全身を高価そうな細工で飾り立て、赤い着物に細かな金の刺繍は豪華絢爛の一言だ。帯にも金の刺繍が施されていて、相当羽振りが良いのだとわかる。
乃江流も一般人よりは高価な着物を着てはいるが、夏で人と会う予定もなかったため、彼女に比べるとかなり軽装で安っぽく見える。
「……宮坂、乃江流です」
「存じておりますわ。突然訪れた非礼をどうぞお許しになって」
軽く頭を下げた乃江流に、祥子は口元だけで笑んだ。
「中園家をご存知でしょうか?側室様は巫女であられたとか。詳しく存じ上げないかもしれませんわね。わたくし、由緒正しい公家の長女ですのよ」
「……そうですか」
乃江流は確かに公家や武家の上下関係にはそこまで詳しくない。少しずつ覚えている最中だった。
物知らずだと嘲笑うように、彼女は笑った。
「わたくし、将軍秀尊様の側室の候補ですの」
乃江流は瞠目して祥子を見た。
「御上はまた側室を迎えることを考えていらっしゃるとか。多くの側室がいたほうが、世継ぎには困りませんものね。わたくしでしたら血筋も教養も問題ありませんし」
嬉々として話す祥子を乃江流は半ば呆然と見た。他にも側室を迎えるなどと、秀尊は一言も言っていなかった。
何も聞いていない。
祥子は乃江流を見下したような顔で笑うと顎を上げた。
「有名な巫女とはいえ、やはり世継ぎの母親としては相応しくないですものね?将軍の母はしっかりとした血筋の女でなければ、世間も納得しないでしょうしねぇ」
どこまでも人を見下しきった態度に、乃江流は思わず眉を顰めた。
「いずれ御上の子を産むのは私ですわ。貴女には身分をわきまえていただかなくてはね」
言いたいことだけ言うと、祥子は形だけの礼を取った。
「今日は挨拶に来ただけですの。それではいずれまた」
祥子はちっとも笑っていない目で乃江流を見据えたあと、踵を返して去っていった。
祥子の姿が見えなくなって、やっと侍女達が慌てたように駆け寄ってきた。乃江流は呆然と侍女達を見た。
「側室って、本当?」
侍女達は顔を見合わせて言い難そうに口ごもった。
「私達には詳しいことはわかりませんが……」
「そういう話があるのは……確かですわ」
「皆娘を側室にして権力を握りたいと思っておりますから……」
「ただ、御上は乃江流様一筋ですわ!」
「ええ!その通りです!たとえ他の側室が出てきたとしても、何も心配なさることはありません!」
侍女達の慰めの言葉は、乃江流にはしっかり聞こえなかった。
胃を鷲づかみにされたような衝撃だった。頭がくらくらするのは何故だろう。
「……なんで……」
なぜ、自分だけだと思ったのだろう。
秀尊は将軍だ。気が進まなくても側室を娶る必要性が出てくることもある。
ふた月前、側室を娶るように勧めたのは自分だ。世継ぎのためには決して悪いことではない。彼女は良家の出で、性格は度外視しても、美人で教養がある。確かに将軍の妻には相応しいのだろう。
妻に相応しくないのは、私だ。
わかっていたはずだ。単なる田舎育ちの巫女で、しっかりした教養などない。重い着物はまだ着慣れないし、豪華な食事も違和感がある。彼に優しく微笑まれることも、子どもを産めといわれることも。だからこそ、正妻と将軍の仲が良くなることを望んだのだ。
それなのに、一体何を浮かれていたんだろう。
そうだった。初期の思いをすっかり忘れていた。生温い心地よさに浸って、彼から受ける愛情に酔って、そんな当たり前のことも忘れてしまっていたなんて。
私は将軍の子の母親にはふさわしくなんかないのに。
乃江流は自分自身に愕然とした。
黙って俯く乃江流に、侍女達は慌てて声を掛ける。
「乃江流様?」
「大丈夫ですか?お具合でも?」
具合が悪いわけではない。ただ、どうしようもなく胸が痛んだ。
「……大丈夫。私、平気だから」
侍女達に心配を掛けないよう、乃江流は唇を噛んで込み上げてくるものを堪えた。




