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16 誤解からはじまるこみにけーしょん

 ある日の夕餉の時に、秀尊は突然こう言った。

「乃江流、明日から数日出かけるぞ」

「え、どこにですか?」

「温泉だ。お前は知らないかもしれないが、箱根という有名な場所があってな」

 乃江流は「はこね?」と呟いた。

北国育ちでは聞いたことのない地名だが、秀尊が言うには有名な保養地らしい。将軍には珍しく、長期で休みが取れたようだ。

「そうですか。たまにはゆっくり休むのもいいですね。いってらっしゃいませ」

「何人事みたいに言ってるんだ?お前も行くぞ」

「え、私もですか?」

「どうせ暇だろう?」

「暇ではないですよ。明日はお二方の相談を聞くことになっているんです」

「そんなもの後日でいいだろう」

 秀尊は呆れ顔で、とにかく一緒に行くから準備するようにと言った。珍しく強引だったが、そもそも乃江流に将軍の命を拒否する権利はない。

「私が行くなら、頼子様も行くんですか?」

「いや、頼子は実家の祖母の具合が良くないと戻っているからな」

「え、いいんですか?そんな時に旅行なんて」

「休みなんて滅多に取れないんだから仕方ないだろう」

 本当のところ、頼子の祖母の具合にかこつけて実家でのんびりしているだけだということを秀尊は知っている。恋人も一緒だということも。乃江流がそんなことを知る由もない。


 というわけで、秀尊はその隙にと乃江流を短い旅行に連れ出した。多忙な身ではあるが、新婚旅行ということで煩い臣下達を黙らせること成功した。あまり大勢の従者は引き連れず、あくまでお忍び程度にとどめておいた。

 乃江流が一日籠に乗せられ着いた先は、毎年将軍が訪れているという豪華で露天風呂からの絶景が自慢の大型旅館だった。

「うわー……すごーい……」

 乃江流は部屋を見渡して感嘆の溜息を吐いた。部屋は四つもついていて、家族十人が楽に泊まれそうな部屋だが、将軍と二人で使うらしい。お付きの者達はどうぞごゆっくり、と意味深な笑みを浮かべて出て行った。

「将軍様、どこの部屋で寝ますか?私こっちの狭いお部屋でいいですよ」

 胡坐をかいて茶を啜っていた秀尊は呆れた顔をした。

「お前……俺達は夫婦なんだぞ?女中が布団を敷くときに、わざわざ二つ離して敷くと思うのか?」

「……ああ、そうですよね……」

 たまに夫婦であることを忘れそうになるのは確かだが、それよりも乃江流はなんとなく秀尊と距離を置きたかった。最近、秀尊とあまり近い距離にいるとなんだか心臓に悪いのだ。夜に隣で寝ることも、心臓に悪い。

 そんな乃江流の心情も知らず、秀尊は言った。

「それよりこの部屋は風呂付だぞ。露天風呂もあるんだ。入ればいい」

「いえいえ、将軍様お先にどうぞ。お疲れでしょう?」

 乃江流が言うと、将軍は口角を上げた。

「後で入るからいい。入って来い」

 ひらひらと手を振られ、彼が何を考えているかまるで頭が回らなかった乃江流は、その言葉に素直に甘えることにした。

「ふわぁ、気持ちいい……」

 乃江流は湯船に浸かって腕をぐっと前に伸ばした。露天風呂は外に檜の風呂が置いてあり、源泉掛け流しだった。露天風呂に入るのが初めてだった乃江流は大いに興奮した。温泉自体ほとんど行った事がないのに、絶景の露天風呂に入ることができるとは、人生とはわからないものだ。こんな素晴らしい場所には実家にいたら絶対に来ることはできなかっただろう。檜の良い匂いと山の匂いを嗅ぎながら、ふんふんと鼻歌を歌っていると、突然風呂場の扉が開いた。

「ぎゃっ!」

 てっきり侍女かと思ったが、腰に手ぬぐいを巻きつけただけの将軍の登場に、乃江流は奇声を上げた。

「なんだ?その叫び声は」

 将軍は顔を顰めている。乃江流はさっと視線を外した。

「だって!何さも当たり前のように入ってきてるんですか!びっくりするじゃないですか!後で入るってそういうことぉ!?」

「お前が長風呂なのが悪い」

「さっき入ったばかりでしょうっ!」

「一応夫婦なんだからいいだろう」

「良くないですよっ!」

 喚く乃江流を一瞥しただけで、秀尊は湯船に入ってきた。乃江流は手ぬぐいで身体を隠しながら、秀尊を見ないようにしつつ距離を取る。十人は入れそうな広い風呂なのがせめてもの救いだった。秀尊は乃江流の方を見ずにふう、と気持ち良さそうな長い息を吐いた。

「ああ、いい湯だな」

「………良かったですね。私もう出ますので、ごゆっくりどうぞ」

 乃江流は硬い声で言ったが、将軍は一切気にしていないような声で笑った。

「そう言うな。これもこみにけーしょんの一貫というやつだ」

 聞き慣れない言葉に乃江流は首を捻った。

「こみ……?なんですか?」

「異国の客に聞いたんだが、結婚生活を長く続ける秘訣は、こみにけーしょんとやらだそうだ」

 最近秀尊は外国から海を渡ってくる客とよく会っているらしく、覚えた異国の言葉を会話に用いてくることがある。

「どういう意味なんですか?」

「互いの感情を伝えて、心を通い合わせるという意味らしい」

 その言葉に、乃江流はふうんと頷いた。

「へえ……それは真理ですね」

「そうだな。俺達の場合もそうなんだろう」

 俺達、とは誰のことか。考えるまでもなく、将軍と頼子のことなのだろうと乃江流は思った。なぜなら彼は、正妻との関係を改善したいと言っていて、言いだしっぺの乃江流を付き合わせているだけなのだから。

「もっと心を通い合わせなければな。そう思わないか?乃江流」

 秀尊の静かで凛とした声が室内に響く。頼子と秀尊が心を通い合わせられればいいと、そう思っていた。少し前なら絶対に「そうですね」と笑顔で返していたはずだ。それなのに、今はどうしたことだろう。胸がじくりと痛む。一向に消えない痛みをやり過ごそうと、乃江流は黙って俯いた。

「乃江流?どうした、熱いのか?」

 何も言わない乃江流に焦れたのか、いつの間にか秀尊は乃江流のすぐ隣にいた。彼は言うまでもなく、上半身裸だ。運動などあまりしていない割りには引き締まった男の体が目の前にあり、乃江流は今の状況を思い出して顔を真っ赤にした。

「のぼせたんじゃないのか?ここの湯は少し熱いからな」

 熱い手でそっと頬に触れられ、乃江流は本気で頬から火が出るかと思った。

「だ、大丈夫です!私っもう上がりますから!」

 乃江流は慌てて身を引き、後方に退いた。

「将軍様、ちょっとそっち見ててください!しばらくゆーっくり入っていていいですから!上がって来ないでくださいねっ!」

「……あ、ああ……」

「絶対ですよ!」

「わかった」

 秀尊は呆けながらも了承して、乃江流に背を向けた。その隙に湯船から出た乃江流は逃げるように室内へ入っていった。秀尊は乃江流の過剰とも言える反応に、小さく笑った。



 夕食は季節の食材を使った懐石料理で、味も見た目も申し分なかった。二人は美味しい食事に舌鼓を打ったあと、二つ並べて敷かれた布団に横になった。

「乃江流、明日はこの辺を散歩しよう。景色が綺麗なんだ」

「………はい」

 乃江流は秀尊に背を向けたまま、小さく返事をした。後ろで低く笑う声がする。

「……随分静かだな?どうしたんだ?緊張してるのか?」

「なっ!」

 乃江流は起き上がって振り返った。秀尊はどこか面白そうに乃江流を見つめている。

「なんでですかっ……!」

「だってお前、風呂に入ってから変だぞ。必要以上に俺に近づかないように必死になって……意識してるのか?」

「べ、別にいまさら意識なんて!」

「ほう?」

 秀尊は起き上がると、素早く乃江流の手首を掴んだ。乃江流は咄嗟に逃げようとするが、力が強くて引き剥がすこともできない。

「これくらいで意識なんかしないんだろう?風呂にも一緒に入った仲だしな?」

「っ……!」

 口をぱくぱくと開け閉めして真っ赤になる乃江流を見て、秀尊は意地の悪い笑みを浮かべた。

「なあ、乃江流。少しは期待してもいいんだよな?」

「え……」

「俺のことを、好きになってもらえる日が来ると」

 乃江流はその言葉に、体内温度が急降下するのを感じた。頼子が秀尊のことを好きになる可能性は相当低いと思うが、そんなことを言ったら秀尊はがっかりしてしまうだろう。それはいけないことだ。秀尊はいつでも頼子のことしか考えていないのに、どうして自分はこんなに動揺しているんだろう。

「………どうでしょう」

「どうでしょう?だと?」

 不機嫌そうな声を出した秀尊に、乃江流は慌てた。

「それはどういう意味だ?」

「いえ、その、人の心はわからないものですから。だけど、心を通わせるために努力することは良いことです。頼子様だってきっといつか将軍様の良さに気付いて……」

 頼子の名が出た途端、秀尊は思いっきり顔を顰めた。

「おい、なぜそこで頼子が出てくる」

 え?と乃江流は呆けた。

 二人の間に沈黙が落ちる。将軍は握った手を離さずに重い口を開いた。

「………お前、まさか、俺が頼子のことを言ってると思ってたのか?」

「え?……違うんですか?」

 途端に秀尊は手を離して枕に突っ伏した。乃江流はその反応に困惑する。

「……お前はぁ……っいい加減気付け!」

 突然大声を出したと思ったら、真っ白な枕を投げつけられた。

「……えっ?」

 たいした力ではないため痛くないが、乃江流は枕を受け止めてぽかんと口を開けた。

「な、なんで怒ってるんですか!?」

「怒りたくもなるだろうが!鈍いにもほどがある!お前、まだ俺が本気で頼子との関係を改善したいと考えてると思ってるのか!」

「ええっ!?」

 怒鳴った秀尊を見て、乃江流は枕を握り締めた。

「だって将軍様がそう言ったんでしょう!?」

「確かに言ったが!そんなもんは言葉の文だろうがっ!」

「えええ!?言葉の文って!意味わかりませんよ!私本気で夫婦仲を良くしようって考えてたのに!」

 乃江流が叫ぶと、将軍は額を押さえて項垂れた。

「ああ、そうだよ。はっきり言わない俺が悪かった、それはわかってる。だがお前も鈍すぎるぞ。俺がどうでもいい女をわざわざ側室にすると思ったか?この俺が、なんとも思ってない女と旅行して一緒に風呂に入ると?……ということは、あれか。これまでお前に言った言葉全部頼子宛だと勘違いしてたのかお前は」

 秀尊の溜息と共に吐き出した言葉は乃江流には直ぐに理解できなかった。

 あまりに自分に都合よく聴こえるのだ。頼子が言っていたことも、彼女の勘違いだと思ったのに。

「何言ってるんですか……?それじゃあまるで、将軍様が私のこと好きみたいじゃないですか………」

 そんなことあるはずがない。

 乃江流は動揺を隠すために目を瞑って首を横に振った。

「……それじゃいけないのか」

 小さく聞こえた声に、乃江流は目を上げた。秀尊は真っ直ぐ乃江流を見つめている。

「お前が言ったんだろう。正妻か側室か選べと。だから俺は側室を娶った」

「…………はい?」

「お前のことが気に入ったからだ。だがお前は俺のことなんか興味がなかっただろう。だから敢えて誤解させるようなことを言ったんだ。そのうちに俺に興味を持ってもらえれば良いと」

 乃江流は目を瞬いた。

「………ちょっと待ってください……え……?」

 乃江流は将軍の言葉を思い返す。将軍は初めて会った夜、考えてみようと言った。あれは正妻との関係について考え直すということだと思ったのだ。

「……最初から、頼子様と仲良くする気はなかったんですか?」

「当たり前だろう。お前は頼子を良い女だと讃えるが、あの女の俺に対する態度は酷いものだ。はっきり言って、俺はあれを女として魅力的だと思ったことはただの一度もない」

 忌々しそうに言う秀尊を乃江流は唖然として見た。

「将軍様、変ですよ。頼子様ってあんなに美人なのに」

「頼子の良いところは顔だけだ」

「性格だって良いです!すごく優しいですよ!」

「それはお前が女だからだ。頼子は同性には優しいだろうからな」

 秀尊は目を細めて頭を掻いた。

「性格の良い優しい女が、初夜に私に近づいたら死んでやると泣き喚くのか?」

 乃江流は目を見開いて固まった。

「……頼子様、そんなことを言ったんですか……」

 将軍はどこか遠くを見るように苦笑した。

「当時、俺は十六で、頼子はまだ十四だった。幼かったから仕方がないことだと思っていたが、何年経ってもばい菌のように扱われてな。頼子は俺が触れることを拒絶し続けた。俺は嫌がる女に無理強いするほど鬼畜じゃない。変わることがあるかとも思っていたが、2年も経つ頃には完全に諦めた」

 それはご愁傷様です、と乃江流は内心思ったが、口には出さなかった。やはり将軍にとって頼子との結婚が心の傷になっているのだとわかったからだ。

「正直言って、頼子との一件は俺に男としての自信を失わせた。自分で言うのも何だが、俺はそう毛嫌いされるほど悪い男じゃないだろう?」

 その通りだ。秀尊は見た目は良いし、その上将軍なのだから、女性にはもてるに決まっている。百人が百人そう言うだろう。

「それなのに、頼子は俺には一切魅力を感じないと言うしな。本音を言えば、少し怖かったんだ。他に妻を娶って、また同じようなことになるんじゃないかってな」

 自嘲気味に本音を吐露する秀尊を、乃江流は驚きをもって見つめた。

「俺にも幸せな家族を持ちたいって理想くらいはある。俺の父は先代将軍だが、母は側室の一人で、それほど身分の高い女ではなかったし、深い龍愛を受けていたわけではなかったから、かなり苦労していた。俺は父親のように女を悲しませる男にはならないと元服の時に誓ったんだ。が、理想どおりにはいかないものだな」

「……理想と現実に差があるのは仕方ないことです」

 乃江流はぽそりと呟いた。

「将軍様は、頼子様を悲しませないように自由にさせてさしあげているんでしょう?それって心が広くて立派だと思います。私はそんな将軍様に魅力がないとは思いませんけど……」

 頼子が将軍を好きだと勘違いしていたくらいなのだ。結果爆笑されてしまったが。乃江流が言うと、秀尊は笑った。

「たで食う虫も好き好きとはよく言ったものだな。ま、いろいろあったおかげで、こうして側室を迎えられたんだから万々歳だ。良かったよ、お前に出会えて」

 秀尊は晴れやかに笑う。乃江流はその笑顔をぽーっと見つめた。

「お前を妻にして良かった」

 秀尊は乃江流の名を優しく呼ぶと、目を細めて意味ありげに視線を下に滑らせた。

「ま、あとは……世継ぎだけだな」

 その言葉に、乃江流はぴきりと固まった。

「男を産めとはいわないが、できれば男と女、一人ずつ欲しいな」

 言われて、乃江流は湯気が出そうなほど真っ赤に沸騰した。

「………え、よ、つぎ……え……まさか……わたしが……うむんデスカ……?」

 自分にはまるで関係ないと思っていたことを突然突きつけられて、乃江流は激しく動揺した。動揺しすぎて声が完全に裏返っている。秀尊はクツクツと笑った。

「まあ、それは急がない。いずれ、な。覚悟しておけよ」

 とんでもない発言を残して、秀尊はさっさと眠ってしまった。乃江流はその夜、空が明るくなるまで眠りにつくことができなかった。



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