15 修復不可能な2人
頭を下げた侍女たちに出迎えられ、秀尊は襖の前で足を止めた。
「入っていいか?」
「少々お待ちくださいませ」
少し話をするだけなのに何を用意することがあるのか、と思う。だが勝手に足を踏み入れることはできない。乃江流の部屋には何の気兼ねもなくずかずか入り込めるのだが、頼子相手にはそうはいかないのだ。
一応夫と妻という関係であるはずの秀尊と頼子の間には深く遠い溝が存在する。それを飛び越えることはしない、というのが2人の暗黙の了解だ。
仕方なくその場で待っていると、ようやく許可が下り、襖が開けられた。
「邪魔するぞ」
秀尊は頼子の部屋に足を踏み入れた。美しい着物を纏った華奢な女が三つ指をついて秀尊を迎えた。
「御上、ようこそいらっしゃいました」
完璧に作られた美しい微笑みを見て、秀尊は苦々しく眉を顰めた。この美しい瞳を自分に向けさせようと必死だったことを思い出す。
本当に無駄な時間を過ごしたものだ、と思う。
どんなことをしても、頼子は初恋の男を想い続けたのだから。そして今もなお、頼子の心はその男のものだ。
外見は美しいが、とてつもなく頑固で、自己中心的。自分の事と、自分の愛する男以外のことは何一つ考えない。頼子はそういう女だ。
「止せ、堅苦しい挨拶は抜きだ」
「あら、お気に召しませんでしたか?せっかく上等な着物に着替えたんですのよ」
頼子は笑みを貼り付けたまま言った。
「余計な気遣いはいらん」
乃江流は豪華な着物は重いなどと言って、ろくに着替えたがらない。秀尊が来ようが誰が来ようがお構いなしだ。そういうところが素直で面白いと思う。彼女はいつでも自分を偽ったりしない。こうして偽物の笑みを見せたりもしない。
「今日は何のご用でしょうか?」
その言い方は穏やかだったが、内心では迷惑だと言っているのがよくわかった。秀尊は小さな包みを差し出す。
「これは?」
「ちょこれいと、とかいう名の菓子だそうだ。異国から手に入ったのでな。女が好きそうな変わった菓子だから食べるといい」
「あら、お気遣いありがとうございます。私にまでこんな珍しいものをくださるなんて。最近の御上はとてもお優しいんですのね」
頼子は生ぬるい笑みを浮かべた。どうせ側室へ贈るついでなのだろう、という感情が垣間見える。その通りなので、秀尊には何も言えない。
そもそも頼子の元に来ているのも、乃江流との会話のネタにするためだ。
正妻との関係を改善することにした、などという適当な言葉を信じた乃江流は、頼子とどうやって仲良くなるかを常に考えているようだ。
そんなことをしても完全に無駄だ。自分と頼子の関係は、もうどうやっても変わりのない状態なのだから。乃江流には可哀想なことをしていると思う。同時に、乃江流が自分の事を考えてくれていることが嬉しいとも思ってしまう。
「あれが美味いと言っていたから、味は悪くないはずだ」
「ええ、そうでしょうね」
頼子は美しい笑みを湛えたまま、侍女たちに下がるように言った。部屋から誰もいなくなったのを確認し、頼子は笑みを外す。
「贈り物は有り難いですが、いちいち来ていただかなくて結構です。こっちも準備をしなければならないし面倒なの。今夜はあの方も来るのに、別の殿方をこの部屋に入れたくないわ」
ばっさりと言い切られて、秀尊は溜息を堪えて言った。
「来たくて来ているわけじゃない。お前は一応正妻だからな」
「あの子に正妻を大事にしろとでも言われたのね?」
秀尊は頼子が気味の悪い笑みを浮かべるのを見た。
「なんだ」
「あの子、本当に面白いわね。今日、昼間に会ったけれど、すごーく面白かったわ」
「……乃江流は何か言ったのか?」
「ええ。私が御上を好きなのだと勘違いをしていたみたい」
「なんだと?」
天地がひっくり返っても有り得ない。頼子の好みは秀尊とは正反対なのだから。「貴方の全てが気に入らない、絶対に好きになれない、生理的に無理だ」と散々に言われたことを思い出す。
思わず顔を顰めると、頼子はにやりと笑った。
「もっとしっかり愛してあげた方がよろしいのではなくて?貴方がちゃんとしないから、彼女が不安になってるのよ」
「……不安?」
「ちゃんと好いていること伝えてるの?態度に出してるつもりでも、言葉で言わないと女は不安になるものよ」
「…………」
乃江流が不安になっている?
秀尊は若干混乱した。
乃江流はそもそも秀尊が頼子のことを好きだと思っている可能性が高いし、告白するどころの話ではない。態度には出しているつもりだが、乃江流は自分の事に関してはとにかく鈍く、ろくに気づいていないだろう。
だが、なぜ乃江流は頼子が秀尊を好きだと思ったのか?
全くわからない。
……どうせただの勘違いで突っ走ったのだろう。
「あの子、よっぽど貴方のことが好きなのね」
「何?」
「貴方の事すごく褒めてたわ。良かったじゃない、愛されてて」
愛されている、だと……?
内心驚愕して頼子を見ると、頼子は小さく笑った。
「はやくお世継ぎをつくってほしいわ。私が責められることもなくなるし」
「……ああ」
秀尊は生返事を返し、立ち上がった。
「あ、貴方にはどうでもいいことでしょうけど、私しばらく実家へ下がりますから。祖母の具合がよくありませんの」
「そうか。失礼する」
頼子は年に数回実家へ帰っている。別にどうでもいいので何も言わずに好きにさせている。それよりも、乃江流のことで頭がいっぱいだった。
乃江流の部屋に一目散に向かう。侍女が止めるのも聞かずに障子を開けると、乃江流は巫女装束で卓に突っ伏して眠っていた。
「将軍様……失礼します」
月子が慌てた顔で乃江流を起こそうとするが、秀尊はそれを止めた。
「昼寝か?もう夕刻だぞ」
「昼間に正妻様と会ったあと、書道をして、そのあと2件ほど祈祷をされたので、疲れてしまったようです」
「そうか。……祈祷も相談も、別に受けなくてもいいんだがな……」
「ええ、ですが頼まれると断れないようで」
「……そうか」
乃江流は生真面目で、頼られると断れないお人よしだ。他人の相談ごとに真摯に向き合うが、自分の事は二の次で、とんでもなく鈍い。そんな乃江流の姿が、秀尊には魅力的にみえる。今まで周りにこんな女はいなかった。だから余計、新鮮に見えるのだろうか。
「お前たちは下がっていい。食事は乃江流が起きてからだ」
「畏まりました」
秀尊はそっと乃江流の髪に触れた。黒い滑らかな髪をひと房すくい上げて口付ける。乃江流が起きる気配はない。無防備な寝顔が可愛い、と思う。
頼子の言葉が頭を過ぎり、秀尊は考えた。
もし乃江流の気持に少しでも変化があるのなら、もう少し押してみてもいいかもしれない。幸い頼子はしばらくいないのだ。
「……そうだな。たまには休みを取るか」
ここ最近働き詰めだ。休暇を取って、2人で近場の保養地に行くのはどうだろうか。
秀尊はそう考えて、そっと笑った。




