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14 夫婦仲を改善する方法

 雨が毎日のように降り続いていた。なかなか晴れ間もなく、庭を散歩することもできない。基本外出は許されていないし、外に出られないと地味に鬱憤が溜まるものだ。

 乃江流は最近流行りだという推理小説を読んで毎日を過ごしていた。将軍は相変わらず毎晩乃江流の元に来るが、基本忙しく、頼子とはあまり時間を共にできていないようだ。乃江流は助言をしているものの、将軍と頼子との関係はあまり変わりない。

「巫女様、お久しぶりです」

 ふいに御簾の向こうから声が聞こえ、乃江流は背筋を伸ばした。この声には聞き覚えがある。

「平賀様?」

「ええ。ご機嫌はいかがですか?」

 元気です、と乃江流は笑顔で答えた。将軍の異母兄である平賀大次郎は、たまに乃江流の元に訪れていた。彼は話の面白い男だ。将軍は異母兄弟たちとはあまり仲が良くないようだが、彼だけは特別らしく、乃江流の元に来ることを許していた。いつも大次郎から城下で起こった面白い話を聞いたり、代わりに彼の相談に乗ったりしているのだ。

「お子さんの反抗期は終わりました?」

「ええ、せがれも落ち着きまして、最近はよく言うことを聞くようになりましたよ」

「それは良かったです」

「やはり子は宝とはよく言ったものですね。妻ともう一人子を作ろうかと話しておりまして」

「それはすばらしいですわ」

 乃江流が答えると、大次郎はよく通る溌剌とした声で笑った。

「秀尊様も、たくさんの子宝に恵まれたら良いのですが。巫女様には彼の未来が見えますか?」

「……私も祈ってはいるのですが、こればかりは神のみぞ知ることですわ」

 大次郎はそうですね、と笑った。

 乃江流は将軍と正妻の間に一切進展がないことに対して歯痒い思いをしていた。何か良い方法はないかといつも考えるが、上手い方法が思い浮かばないのだ。なにせ元々愛し合っていたわけでもなく、妻には他に好きな男がいる。この状態をどうすればいいのか。

「……平賀様、私わからなくなりました」

「どうしたのですか?お悩みが?」

「ええ。夫婦の仲を良くするには、一体どうしたらいいんでしょう?」

「夫婦仲ですか?」

「ええ。一般的な方法は試したんです。贈り物をしてみたり、文を書いてみたり、一緒に庭を散歩したんですけど、全然気を引けないんです。相手には他に好きな人がいるんです」

 大次郎はしばらくの間黙ったあと、小さく言った。

「……それは、誤解では?」

「え、誤解?」

「ええ。思い込みということです。もしかしたら相手は好きなのに、素直になれないでいるのかもしれませんよ。はっきり聞いてみたらどうですか?」

 好きなのに素直になれない?

 乃江流は若干混乱しながら考え込んだ。もしかして頼子は実は将軍が好きになっているのだろうか?

「素直になれない者は案外多いですからね。それですれ違う、なんてこともあるでしょう」

 乃江流は大次郎が去った後も、彼の言葉について考え続けた。彼の助言が乃江流と将軍の悩みだと誤解したものだとも知らないまま。



「……乃江流、どうした?今日はぼんやりしてるな」

 将軍は乃江流の顔の前でひらひらと手を振った。困ったような顔をしている将軍を、乃江流はじっと見つめる。

「……ん、ありえるかもしれません……」

「何が有り得るんだ?」

 将軍は不思議そうに布団の上に転がっている乃江流を見た。

「お前、寒くないのか?今夜は少し冷えるだろう。身体を冷やすなよ」

 今日はいつもより気温が低いが、北国育ちの乃江流にはたいした問題ではない。江戸は基本暑いと思う。

 しかし将軍はいそいそと乃江流に布団をかぶせた。軽い羽毛布団をかぶせられて、将軍は優しいなぁ、と思った。

「大丈夫か?具合が悪いのか?」

 何も言わない乃江流の額に将軍は手のひらを当てて熱を測った。

「いいえ、大丈夫です。熱なんてありません」

「それならいいが。季節の変わり目だから気をつけろよ」

「はい……将軍様は優しいですね」

「……そうか?」

 将軍は目を瞠って驚いたように乃江流を見つめた。

「はい。私、よく相談に来る人たちから聞いていたんです。夫が思いやりがないとか、妻のことなんて奴隷としか思ってないに違いないとか」

「なんだそれは。随分酷い男がいるんだな」

「酷いです。暴力振るうとか、博打で散財したとか、浮気したとか。だから私、男の人なんてそんなものなんだろうなって思ってました」

「随分極端だな。世の中そんな糞みたいな男だけじゃないだろう」

「そうなんでしょうけど。私のところにはどっちかというと極端に悪い伴侶を持ってる人ばかり来るので」

「まあ、神頼みしたいなんて奴等はそうだろうな。で、お前は男に夢を見れなくなったのか?」

 将軍は右肘をついて隣に寝転ぶと、からかうように笑った。

「んん、そうかもしれませんね。巫女なんてしてると、人の欲望ばかり見えてしまって。でもそれで人を嫌いになってはいません。死んだ祖父がよく言ってました。人間は欲の深い生き物だけれど、長い人生の中には神に縋りたくなる瞬間が必ず来るって。その時に人の支えになって希望を与えることが、神に仕える者の役目だと」

 乃江流は将軍の漆黒の瞳を見つめた。

「私のところに来る人は皆、多かれ少なかれ苦しんでいるから……少しでも気持ちを軽くしてあげたいと思うんです。中にはあまりに身勝手な悩みを持つ人もいて……それはそれで反面教師にしてますけど」

「あまりに身勝手って、どんな相談だ?」

「たとえば、五人の女性と六年間も関係を持っていて、それが奥さんに知られて離縁を迫られたけど、それでも五人とも関係を続けていきたいんだけど、どうしたらいいんだろうか?なんて相談してきた男性とか……」

 将軍は瞠目して顔を顰めた。

「それは凄いな。武士か?」

「いいえ、商人です。お金持ちってこともなさそうで、見た感じは普通の男性だったので五股もかけてるなんて驚きましたよ。あの人が将軍様だったらずっと五人を側に置いておいても誰も何も言わないのに……人生ってほんとにうまくいかないものですね」

 まったくだな、と将軍は苦笑した。

「で、お前はその男に何て言ったんだ?まさか五人との関係を続けられるように祈ってやったのか?」

「まさか!そんな願い、神様に言ったところで鼻で笑われますよ。ちゃんと、相手の気持ちをちゃんと考えるべきだって諭してあげました。……まあでも完全に納得はいってないみたいでしたけどね……あの人はいったいどうなったんだろう……。女性たちに刺されても文句言えないですよ」

 将軍は、ふうん、と神妙な顔で頷いた。

「巫女様ってのも大変なんだな。聞いてる分には面白いが」

「私は面白くないですけど……あんな男の人に引っかからないように気をつけたいと思いました。将軍様はその点浮気しないし、優しいし、ちゃんと働いてて、良い旦那様ですね」

 こんな良い旦那なのだから、頼子が秀尊を好きになってもおかしくない。乃江流はそう思った瞬間、なぜか胸の奥に小さな痛みを感じた。静かに笑んだ将軍の顔を見るのが辛くて目を閉じる。


「フッ。良い旦那様か……」

 頬を緩めた秀尊は、嬉しさを堪えきれずに口元を覆った。最悪な浮気男と比べて、という点は置いておいて、妻からの良い旦那様発言に少しの間酔う。

「そんな言葉が聞けるとは思わなかったな……。お前俺のこと、夫だという自覚があったのか?」

 そう言って妻を見ると、いつの間にか穏やかな寝息を立てていたことに気付いて、将軍は唖然とした。

「……おい、寝たのか?」

 返事はない。秀尊は溜息を吐いて、指で乃江流の頬を軽く撫でた。

「なあ乃江流、俺は別に優しい男じゃない。俺がお前に優しくするのは、お前に好かれたいと思ってるからなんだ……」

 秀尊は小さく笑った。

「妙なものだな。こんな気持ちになる日が来るとは思わなかった……」

 囁く様に呟いたその声が、眠りに落ちた乃江流に届くことはなかった。






 珍しく晴れた日のことだった。乃江流は頼子に呼ばれ、城内の庭園を散歩していた。

「私、雨上がりの庭って好きなの。土も草木も水に洗われてしゃきっとした感じがするでしょう?」

 頼子は上品な笑みを浮かべて庭園を眺めている。乃江流は同意しながらも、どう話を切り出すべきかについて内心悩んでいた。

「乃江流様、御上とは上手くいってらっしゃるの?」

「えっ!どうしてですか?」

「だって最近、ちょっと御上の溜息が多いから」

「そうですか?」

 秀尊は乃江流の前では普通に優しいが、頼子を前にするとまた違うのだろうか。無理もない、と乃江流は思った。目に見える進展がなければ溜息を吐きたくもなるだろう。乃江流が側室になってひと月が経ったのだから。

「……頼子様、将軍様の気持ちはご存知でしょう?」

「え?ええ、もちろん」

 頼子が少し怪訝な顔で乃江流を見た。突然何だとその表情が物語っている。けれど、無礼でも言わなくてはならない。一度深呼吸をして切り出した。

「頼子様は本当は将軍様のことが、好きなのではないのですか?」

 頼子は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、瞬きもせずに沈黙した。どんな顔でも美人は美人だ、と思うと同時に、図星を突かれて黙ってしまったのだと結論付けた。

「……わかります。将軍様は素晴らしいお方ですから。将軍様のことを知っていけばきっと好きになるんじゃないかって、思っていたんです。これまでの経緯もありますし、素直になるには時間が掛かるってことも、わかります。でも私、お二人には幸せになっていただきたいと心から思っているんです。だから、頼子様には将軍様をお慕いしているならそう言っていただきたいんです」

 乃江流は言い切って、唇を噛んだ。

 口から出た言葉は嘘ではない。本当に二人の幸せを願っている。それなのに、何故か将軍の優しげな笑みが脳裏に浮かんで、胸が痛んだ。なぜそんな風に痛むのかは自分でもよくわからない。ただ、胸の痛みよりも頼子と将軍の幸せのほうが重要なのは確かだ。

 黙っている頼子を、乃江流は横目で盗み見た。頼子は顔を両手で覆い、肩を震わせている。耳が真っ赤だ。泣いているのか、と一瞬思った乃江流だったが、頼子がやっと口を開いた。

「~~~のえ、る様っ……!ぷっ、ぶふっ!」

 笑っている。

 え、と乃江流は口を開けた。

「ふふふ!も、やめてっ!もう、ッ可笑し~!」

 頼子は顔を真っ赤にして爆笑していた。いつもの上品さは欠片もなく、お腹を押さえて苦しげに笑い続けている。

「も、勘違い……甚だしくってっ……!ふふふふふ、お腹苦しいからっ!おねが……止めてぇ!」

 もう何も言っていないのに。

 頼子はしばらくの間笑い続けていた。やっと治まりかけたと思ったら、驚いて声も出せずにいる乃江流を見て再び噴出す。

「は~っ!もう、本当に、どれだけ思い込みが激しいの?天然だって御上が言ってたけど、本当に、面白い人ねぇっ。貴女本当に巫女?私が御上のことが好きだなんて!一体どこからそう思ったの?なんでそうなるの?前から絶対ないって言ってるのに!ふふっ!あ~可笑しい!こんなに笑ったの久しぶりだわ!」

 頼子は笑いながら目尻に溜まった涙を指で拭った。泣くほど可笑しかったらしい。

「……ええ~……」

 大次郎の助言は完全に的外れだったようだ。頼子は将軍のことが好きになってはいないらしい。乃江流は脱力した。


 なんだ。良かった。


 ん?良かった?

 何故安堵しているのか。乃江流は自分自身に驚いた。

 

 一人百面相する乃江流を見て、頼子は物知り顔で頷いたあと、言った。

「大丈夫よ、わかってるわ」

「え?」

「あなた、よほど御上のことが好きなのね」

「へ?」

「私と御上が会ってるって聞いて不安になったんでしょう?わかるわ。私も想い人が他の女と会っていたら、取られるんじゃないかって心配になるもの。あんな良い男はいないしね」

 頼子が何を言っているのか、乃江流は理解するのにしばらくかかった。

「え?あ、いや、ちが……」

「いいのよ。言い訳しなくても。私御上には一切魅力を感じてないから心配いらないわ。それにここだけの話、御上も私のところに来ては貴女のことばかり話すのよ。貴女に夢中みたい。惚気話は犬も食わないってね」

 頼子はにやりと笑うと乃江流の肩をぽんと叩き、耳元でそっと呟いた。

「私、こんな立場だけど、貴方達を応援してるわ。それだけは信じて頂戴」

 にっこりと綺麗な笑顔を浮かべた頼子を、乃江流は唖然として見つめた。池の方で、ぴちゃんと鯉跳ねた音がした。



 乃江流はようやく気がついた。頼子の気持ちを変えることは無理だった。彼女は将軍に一切魅力を感じていないらしい。よっぽど頼子の想い人が素晴らしい男性なのかはわからないが、あれは無理だ。どうしようもない

「………応援されちゃったし……」

 乃江流は畳に頬を擦り付けながら、内心大混乱していた。頼子の言葉が脳裏に甦っては消える。

 

『よほど御上のことが好きなのね』


 好き?私が、将軍を?


「…………ええ……?好きって……うそだぁ……」

 そんなことはない。だって形だけの側室なのだから。有り得ない。相手は将軍だ。


『貴女に夢中なんでしょう』

 

 夢中ってどういうことだ。

 何故将軍は頼子に乃江流のことばかり話すのだろう。惚気話って?そんなわけない。話のネタにしているだけだ。

「そうだよ。絶対そう。ないないない。ないったらない」

 乃江流はがばりと起き上がり、近くにあった筆を取った。

 乃江流は最近書道に目覚めた。というのも、将軍が書道は背筋が伸びて良い精神統一になると勧めてきたからなのだが。乃江流は真っ白な和紙にしばらく筆を持って向かっていたが、結局何も書かずに筆をおいた。そして呻きながら畳に突っ伏した。将軍のことばかり考えてしまう。頼子の言った言葉が頭から離れない。

「いやいや、有り得ない。絶対ない。好きとか……ないからね。そもそも初めて会った日に人の唇奪うような人だし、勝手に側室にするし。そんな人好きになるとか、ぜったいない。うん」

 乃江流はぶつぶつと畳に向かって呟いた。井草の良い匂いを吸い込んでいると、控えめな声が掛けられた。

「どうなさったんですか。正妻様に意地悪を言われたのですか?」

 顔を上げると、乃江流の奇行を不審に思ったらしい月子が眉を顰めていた。乃江流は慌てて居住まいを正した。

「いえ!全然!大丈夫です!」

「そうですか?ならいいのですが……」

 月子は不思議そうに乃江流を見た。乃江流は再び精神を沈めようと筆を取った。

 



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