13 正妻との対面
それは乃江流にとっては全く予期していない事態だった。
美しいあやめの花が生けられた広い部屋で、乃江流は美しい姫君と対峙していた。
漆黒の艶やかな髪に、日焼けをしたこともないような白い肌、桃色の頬に淡い薔薇色の唇。乃江流は日本で一番の美少女はさゆりに違いないと思い込んでいたが、さゆりと並んでも遜色のない美少女だ。年は乃江流より少し年上に見えた。実年齢は十八歳らしい。
「私、正妻の頼子と申します」
彼女は微笑むと丁寧に頭を下げる。綺麗な顔に見蕩れていた乃江流も慌てて頭を下げた。
正妻と側室の対面といえば、普通ならば冷ややかもしくは激しい戦争が勃発するところだろうが、頼子から乃江流に対する敵意は全く見えなかった。周囲に侍る侍女達にも陰険さは一つも見えない。緊張して固まっていた乃江流は毒気を抜かれた。
「突然呼び立ててごめんなさい。私、一度お話がしたかったのです」
「い、いいえ!私なら大丈夫です!暇してるので!」
それは半分事実で半分嘘だった。
側室になってからは自由に動き回ることもできず、行動範囲は限られてしまうため、部屋で退屈凌ぎに書物を読んだり、文を書いたり、裁縫や生花をしていた。が、最近は乃江流の噂を聞きつけた城内の人間が相談を持ちかけてくることも多く、以前と変わらず、連日のように相談予約が入っているのだ。
頼子はふふふ、と上品に笑った。
「乃江流様は優秀な巫女様だそうですね?」
「え、いえ、それほどでもないのですが……」
「御謙遜なさらないで。この間御上とお会いして、お話を聞きましたわ。御上は大層貴女を気に入ったとか」
乃江流は驚いて声も出なかった。
「貴女を見てよくわかりましたわ。とても可愛らしい方ですものね」
ぽかんと頼子を見つめていた乃江流は、首を横に振った。
「と、とんでもありません。可愛らしいだなんて……。頼子様のほうがよっぽどお綺麗です」
「まあ!ありがとう」
頼子はほっそりとした手を口元に当てて可愛らしい声で笑った。乃江流はその仕草をぽーっと見つめた。
なんて可愛い人だろう。清楚で美しい、白百合の花のような姫だ。
彼女は乃江流の視線に気付いたのか、笑いを治め、侍女に声を掛けた。
「ねえ、例のものを出してちょうだい」
「はい、御方様」
侍女達が動き、頼子と乃江流の前に和菓子と茶を出した。可愛らしい若鮎の形をした焼き菓子のようだ。
「これ、最近好きなお菓子なの。お口に合うといいのだけど。ぜひ食べてみてくださいな」
勧められるがまま手をつけると、上品な甘さの白餡がとんでもなく美味しかった。素直に美味しいと言うと頼子はそうでしょう、と笑った。
茶菓子を楽しみ、和やかに会話しながら乃江流はこっそり考えた。将軍は正妻をあまり好きではない、特に興味がないと言っていた。しかし、こうして話していても、彼女に特別問題は見当たらない。意地悪なわけでも、共感能力がないわけでもなく、お世辞を言う優しさもある。
女性としては極上の部類だと思うのに、こういう女性を嫌いな男がいるだろうか?
いや、いない。
将軍はきっと、内心では頼子のことが好きなのだ。でも彼女に好きな相手がいるから身を引いただけだ。そうに違いない。
「………可哀想な将軍様……」
無意識に呟くと、頼子が首を傾げる。
「え?何か言ったかしら?」
「っいえ!何でもありません!すごく美味しかったです。このお茶も!」
乃江流が慌てて取り繕うと、頼子は良かった、と微笑んだ。
「これも取り寄せた最高級のお茶なのよ。良かったらまた一緒にお茶をしましょう?私普段あまり話し相手がいなくて寂しいのよ」
乃江流は二つ返事で頷いたが、ふいに疑問が沸いた。
「あの、頼子様の……想ってらっしゃる御方は……」
口に出してすぐ、まずいことを言ってしまったかと口を押さえた乃江流に、頼子は気を悪くした様子もなく笑った。
「あの人とはね、夜にしか逢えないの」
頼子は頬を染めて言った。その表情は恋する乙女そのものだ。
「それでもいいの。仕方がないことだから。障害だらけだし、一緒にはなれないけれど、この道を選んだのは私」
頼子は夢を見る少女のような、それでいて、現実を知った女の顔で寂しそうに言った。
「……その方をお慕いしているんですね」
本来なら許されることではない。道徳観念や倫理観に反しているし、まして頼子は将軍の正妻だ。その立場を持って他の男と通じることは許されないはずだが、異常なことにそれがまかり通っている。乃江流には理解不能だったが、全ては強い愛故なのだろう。乃江流はそこまで強い想いを持ったことはないが、世の中には自分の感情の赴くままに生きる人間がいることはよく知っている。乃江流の元には、そういう人間が何人も訪れていたのだから。
不倫や浮気で不貞を働く者達の多くは、自らでは制御できないほどの強い感情に突き動かされていた。中には自らの愛を貫くために命を絶った者さえいた。乃江流は愛を貫くことは悪いことだとは思わない。結局人の幸せはそれぞれ違うのだから。
だが、このまま頼子が愛を貫けば、将軍はどうなるのだろう。
「……将軍様のことは、お嫌いですか?」
「え……嫌いではないけれど……」
頼子は少し戸惑ったように小首を傾げた。嫌いではない、という言葉に、乃江流は少し嬉しくなって言葉を重ねる。
「将軍様って、なんだかんだで優しいし、いつも冷静で、怒ったりしないし、誠実な人だと思いません?」
昨晩墨と筆が欲しいと言っていた乃江流の言葉をしっかり覚えていた将軍は、昼前に立派な硯や筆を自ら持ってきてくれた。忙しいのだから誰かに届けさせても良かっただろうに。
そんな話をすると、頼子は何か言いたげな不思議な笑みを浮かべた。
「……ええ、そうね。本当に、なんて優しいのかしら」
それだけ言うと、笑みを貼り付けたまま遠くを見た。よくわからない反応に、乃江流が首を傾げると、頼子は口元を押さえながら言った。
「貴女が御上のことを好いてくれているみたいで良かったわ。彼と是非仲睦まじく暮らしていってくださいね」
頼子の言葉で、乃江流は将軍の高感度を上げよう作戦は失敗したらしい、と悟った。
なぜ自分が将軍のことを慕っていることになってしまうのか。
慕っている?え、慕っているのか?将軍を?私が?違う違う、そんな馬鹿な。ないない。
「なんでこうなるんだろう?」
乃江流は自室に戻り、一人首を傾げた。
「どうされたのです?乃江流様?」
月子に声を掛けられ、乃江流は唸った。
「正妻様と将軍の関係を良くしたいと思ったんだけど……上手くいかないの」
月子はそれを聞いて目を丸くした後、苦笑した。
「乃江流様はお優しいんですのね。けれどあまり首を突っ込んでは良くありませんよ。お二人のことですから。乃江流様は御上と仲良くしてくださってさえいればいいのですよ」
二人に上手くいってもらわなければ困るのだ、とは言えず、乃江流は曖昧に笑った。
しかし、頼子の口から直接、将軍のことは嫌いではない、という言葉を聞けたことは収穫だった。今は零の状態で、これから百まで高感度を上げていけばいいのだ。乃江流はよし、と拳を握った。
夜。将軍はいつものように乃江流の部屋へやってきた。機嫌良さそうな顔でお土産だと紙袋を押し付けてきた将軍は、乃江流が頼子と会ったと聞いた途端に声を荒げた。
「な、頼子に会ったのか!?」
動揺したような将軍を、乃江流はきょとんと見返す。
「え、駄目でしたか?」
「っ……駄目ではないが……」
将軍の語気が弱まり、乃江流は紙袋を覗いた。中には可愛らしい動物の形をした細工が入っている。
「わあ!可愛い!うさぎの形ですね!」
「ああ、飴だ。食べられるぞ」
兎や猫や馬など、様々な形をした飴だ。色は飴色ばかりではなく、桃色や白色など様々で、乃江流は頬を緩めてそれらを眺めた。
「江戸で有名な飴細工職人が作ったんだそうだ。お前が気に入りそうだと思ってな」
「でももったいなくて食べられないですね。こんな可愛いの。大事に並べておきます」
「せっかくだから食え。気に入ったならまた買ってこさせるから」
「私には十分ですから、頼子様に買ってあげてください」
将軍は乃江流の喜んだ顔を見て満足そうにしていたが、乃江流の言葉に再び表情を曇らせた。
「乃江流、頼子と何を話したんだ?」
「え?えーと、なんでもない話がほとんどです。美味しいお菓子を御馳走していただきました」
「餌付けされたのか?」
「餌付けってなんですか!」
乃江流がむっとして言うと、将軍はぐっと眉間に皺を寄せた。
「お前は食い物に目がないだろう。誰にでもほいほい物を貰うな。親に教わらなかったのか?」
「なんで人をそんな食い意地が張ってる子みたいにいうんですか!誰にでも貰ってませんよ。それに、相手は正妻様ですよ?」
「だから心配なんだ」
「なんでですか?とっても良い方でしたよ?すっごく綺麗な方ですし、優しくて、将軍様のこと嫌いじゃないって言ってました」
将軍は苦虫を噛み潰したような顔で乃江流の話を聞いていた。乃江流は飴細工を眺めながらにっこり笑う。
「だからこれからいくらでも改善の余地があると思うんですよ!」
「頼子は男のことを言ってなかったのか?」
「あ……言ってましたけど……でも絶望的ってわけじゃないですよ。たぶん。正妻様に好きになってもらえるように頑張りましょう!」
乃江流が拳を握ると、将軍は呆れた顔でこめかみを押さえた。
「将軍様?どうかしたんですか?この飴、ちゃんと正妻様にも贈ったんですよね?」
「あ~贈った贈った。もういいから、さっさと飯を食うぞ」
将軍は疲れたように話を打ち切った。




