12 将軍と正妻と側室
乃江流が目を覚ましたとき、将軍は既に隣にいなかった。
将軍が一日をどう過ごしているのか、乃江流はそれほど詳しく知らない。将軍もいちいち自分の仕事について細かく教えようとはしない。しかし、彼の一日は非常に多忙だった。
将軍職に就いて4年。老中や臣下達の助けを借りて何とかやってきたが、飢饉だとか一揆だとか、異国人が海を渡って来たとか、問題は常に起こり続け、安寧とはほど遠い。その上世継ぎの問題もあって、常日ごろ様々なことに頭を悩ませている秀尊だが、ここ最近はそう機嫌が悪くなかった。
「う、上様……」
髪の毛がほぼ真っ白になった壮年の武士が秀尊の顔色を伺っていた。秀尊は顔を上げて書物を卓に叩きつける。
「これが報告書の体を成していると言うのか?肝心なことが一つも書かれていないようだが?」
冷ややかな口調に、武士は頭を下げる。
「しかし、有識者会議での意見が割れましてですな……」
「だから何だ?有識者の見解が一つもなく、お前の意見しかないのでは何一つ進んでいないのと同じではないか。早急にやり直せ。会議が紛糾するならば意見が纏まるまで終わらせるな」
「上様、それでは時間が」
「こんな報告書で民にとって大事な一件を決められると思うのか?」
「……仰せの通りに」
武士はすごすごと去っていった。秀尊は大きく溜息を吐き、卓の上に積まれた書状に再び目を通し始めた。
「上様、失礼致します」
壮年の武士と入れ替わるように、長身の男が部屋に現れた。異母兄の平賀大次郎だった。現幕府の中でも要職につく彼は、頭が良く秀尊の信頼も厚い。他の異母兄弟たちとは全く仲が良くない秀尊だが、大次郎だけは親友のように思っている。大次郎は秀尊の前に分厚い冊子を差し出して言った。
「こちら、河川工事の進捗状況に関する報告書です。後で御目を通してください」
「順調なのか?」
「とりあえず、つつがなく」
「ならばいい」
秀尊は再び書状に目を通し始めたが、大次郎は立ち去ることなく側にあぐらをかいた。秀尊は顔を上げずに聞く。
「まだ何か用か?」
「いやー怒ってた割りにはいつもより眉間に皺が少ないので。昨晩も巫女さんと楽しい夜を過ごしたのかなーと」
秀尊は目線だけ上げて大次郎の顔を見た。大次郎は実に楽しそうに、にやにやと笑っている。
「……まあな」
「お、秀尊が惚気た」
「うるさい」
秀尊は視線を逸らす。
「いやー春ですなぁ。もうすぐ夏だけど。秀尊のこんな顔を見る日が来るとはおもわなかった。実に喜ばしいことだな。あの巫女、そんなに美人じゃないが、素朴な感じでさ、お前好きそうだと思ったんだよなぁ」
大次郎はからからと笑った。
この年上の異母兄とは昔から何でも話せる中で、秀尊の性格も考え方も何もかもを知られている。現在の立場的には秀尊の方が身分が上ではあるが、秀尊にとって大次郎は頭の上がらない兄なのだ。巫女選抜試験でもこっそり一役買っていたらしい。
大次郎は声を少し落とし、ずい、と身体を前方に乗り出すようにした。
「昨日頼子姫と会ったんだってな。何か言われたか?」
「少しだけだ。俺が側室を迎えたことを喜んでいた。貴方がいつまでも側室を迎えないから心苦しく思っていたのよ、だと」
秀尊が言うと、大次郎は苦笑した。
「自分が悪いって自覚はあったわけか。秀尊少年の幼い恋心を打ち砕いておいてよくもまあぬけぬけと言えたもんだ」
「別に俺は頼子に恋はしていない。何度言えばわかる」
「でも期待はしていたろう。頼子姫は相当な美人だって噂だったしなぁ。初夜に指一本触れないで、あんたなんか夫じゃない!なんて言われたら、どんな男でも萎えるさ」
秀尊は頼子と初めて会話した時のことを思い出し、しばし黙った。大次郎は笑う。
「お前はあれから四年も、女を一人も作らなかったからなぁ。ようやっと興味を持つ相手が出てきて良かったよ。これで俺との噂も消えるな。あぁ本当良かった」
大次郎は秀尊より五歳も年上で、既に結婚していて妻子がいるのだが、秀尊と仲が良いせいか、実は二人は想いあっているという噂が城内で流れて散々迷惑していたのだ。そういう嗜好があることは知っているが、二人にその気はない。
「それには同意する。が、乃江流は……」
「なんだ、あの巫女何か問題あるのか?」
「いや……あれは鈍いんだ。それに天然だ。……そこが可愛いんだが」
「ああ、そんな感じだな。試験の時も、休憩時間に食べ物の話ばかりしていたと女中が言っていた」
「江戸の菓子はいろいろ珍しいらしくてな。持って行くと喜ぶんだ。何か珍しいものを手に入れたら教えてくれ」
「ああ、それなら女が好きそうな良い物があるぞ。今日届けさせよう」
大次郎の言葉に、秀尊は頼むと笑んだ。最近の秀尊は乃江流に小さな贈り物をして喜ばせることに凝っているのだ。
「それよりお前、聞いたぞ」
「……?何をだ」
「お前、まだ手を出してないのか?正式に側室にして二十日経つんだぞ」
怪訝な顔をしてひそひそと話す大次郎に、秀尊は目を丸くした。
夜中でも有事の時のために護衛や侍女が遠くない場所に控えている。どうせ侍女達が噂でもしているのだろう。大次郎は城内の噂には敏感な男だ。
秀尊はさっと目を逸らした。その反応に、大次郎は心底呆れた顔をする。
「……お前なぁ……」
「仕方がないだろう。乃江流があんまり鈍いから、つい形だけの側室だと言ってしまったんだ。手なんか出せるか。あれは俺のことなんかちょっとした相談者くらいにしか思ってないんだぞ」
「将軍のお前を、ちょっとした相談者とはねぇ。側室にされても何も思わないとはたいした女だな。鈍いどころじゃないだろう」
呆れた視線を向けられ、秀尊は天井を仰いだ。
「まあな。でもそういうところがいいんだ。寝顔は本当に可愛いぞ」
「あーそうですか。それは良かったですね、将軍様。それちゃんと読んでおいてください」
大次郎が立ち去った後、秀尊はゆっくりと立ち上がった。いつの間にかどんよりとした雲がたちこめ、ぽつぽつと雨が降り出している。そろそろ江戸も梅雨入りの時期なのだろう。
「さて、どうしたものか……」
秀尊は強まる雨脚を見ながら、側室にしたばかりの女のことを考え、一人呟いた。
同時刻、江戸城の北側の一角で、同じように雨を見つめている者がいた。ほっそりとした身体に豪奢な着物を纏った女は、つまらなそうに唇を尖らせて灰色の空を眺めている。
「御方様、あまり縁側に居られますと、お身体に触ります」
「ええ、そうね」
将軍秀尊の正妻である頼子は、くるりと振り向くと、声を掛けてきた侍女に向かって微笑みを作った。
「もう梅雨かしら?昨日も夕方は雨だったわよね?」
「そうですね。そろそろそんな時期ですわね」
頼子はしとしとと降り注ぐ雨粒を見て、美しい黒髪をいじりながら残念そうに言った。
「雨は私の髪が広がるから嫌だわ。夏になるまで憂鬱……何か楽しいことはないかしら」
「例の君ならばまた今夜もいらっしゃるそうですよ」
侍女の言葉に、頼子は花が咲くように笑った。作り物ではない本物の笑みだった。
「本当?嬉しいわ!」
側に控えていた数人の侍女たちは微笑ましそうに、それでいて少し固い表情で頼子を見守っていた。
「あ、そうだ」
突然、頼子は思いついたように両手を合わせる。
「昨日御上に聞いたんだけど、新しく来たっていう側室の巫女がいるでしょう。きっと彼女も雨で退屈してるんじゃないかしら?」
頼子は何を言い出すのかと怪訝な顔をしている侍女達に向かって言った。
「私ね、一度お会いしてみたいと思っているの」
固まる侍女達を前に、頼子はにこりと笑った。




