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11 仮初の側室

「いったいどういうことなんですか」

 乃江流は黙って酒を飲む将軍に詰め寄った。

 褒美と称してなぜか側室にされてしまった乃江流は、江戸城内の一角に部屋を与えられた。部屋には豪華な調度品が並べられており、見たことも触れたこともないような豪華な着物に着替えさせられ、専属の侍女達まで付けられた。月子だけは侍女の一人として側にいてくれるが、一緒に旅をしてきた男性陣は、今回のことを報告にと米俵を何俵も抱えて故郷に戻ったらしい。

 将軍は御猪口をくいっと飲み干してから、乃江流に目を向けた。

「どういうことも何も、仕方がないだろう」

「何が仕方ないんですか!」

「俺はお前をこの城の専属の巫女にしたいと言ったんだが、臣下たちが側室にすべきだとうるさくてな。仕方なかった」

「仕方なかったで済まさないでください!どうして私なんですか!」

「お前が妥協しろと言ったんだろう。だから妥協することにしたんだ」

「なんで私で妥協するんです!意味がわかりません!」

 乃江流の悲痛な声に、将軍は整った眉を顰めた。

「側室が嫌なのか?」

「当たり前でしょう!私は側室なんて器じゃありません!」

 田舎者で平凡な巫女が将軍の側室になるなど聞いたことがない。とびきりの器量良しが将軍に見初められるならともかく、乃江流には人目を引くほどの器量などない。なんであんな娘が、と笑われるのが関の山だ。

「心配するな。俺はお前を人前に出す気はない。表向きは、正妻はあくまで頼子だからな」

 人前に出せない顔ということか、と乃江流は一瞬むっとしたが、問題はそこではない。

「そうではなく、私なんかが側室になったら問題があるでしょう?」

「特にないが?周囲は俺が側室を娶る気になったと大喜びだ。それにお前は有名な幸せを呼ぶ巫女なのだから、縁起がいいだろう?」

「全く良くないです!私は適当な相手を側室にと言ったんですよ!それは私ではないはずでしょう!もっと良家のお姫様とか!」

 乃江流は目を吊り上げた。将軍は乃江流の怒りに満ちた表情を黙って眺め、杯を置くと小さく息を吐いた。そして少し考えるように腕を組んだあと、やっと口を開いた。

「お前が言ったんだろう?正妻との関係を改善しろと。助言だけして言い逃げか?お前には見届ける責任があるだろう」

「え」

 乃江流は目を見開いた。

「確かに……言いましたけど……え、改善する気になったんですか?」

「まあな。俺も考えを改めた。というわけだ。お前はしばらくこの城にいろ」

「……でも、私何をすれば?」

「俺の幸せを祈っていればいい。幸せを呼ぶ巫女なんだろう」

「………でも、一度帰ってはいけませんか?両親が心配を……」

「相当な褒美を持たせたんだ、お前の両親は小躍りして喜んでいるだろうよ。娘が将軍家の側室になるほどの名誉は他にない」

「………そうですかね……」

 普通に考えれば確かにそうだ。しかし神社に巫女がいなくなれば、参拝客は減るのではないだろうか。そう考えたことがわかったのか、将軍は笑った。

「心配ない。あの神社にはやはり神の加護があるのだと間違いなく評判になるだろうよ。将軍家の保護があれば、一人も客が来なくても金に困ることはまずない」

 ……それもそうだ。

 将軍に口で勝つのは無理だった。乃江流は全てを諦め、故郷の家族を想い、ただ溜息を吐いた。




 側室になってからというもの、毎日のように新しい着物や調度品が送り届けられたり、知らない人が挨拶に訪れたりと、乃江流は辟易するばかりだった。慣れない着物は乃江流には重過ぎた。

 一番緊張したのは将軍の実の母親と会った時だ。父親は病で亡くなってしまっているため、彼の家族は母親だけだ。

 良家の生まれで、先代将軍の側室となったが、現在は親族の屋敷に身を寄せているという。将軍の母君はまだ若かったが、その顔には苦労がにじみ出ていた。

「あの子が側室を娶ったと聞いて驚きました。でも安心しましたのよ」

 秀尊とどことなく似ている整った顔立ちの女性に開口一番そういわれて、乃江流は返事に困った。ぽっと出の側室をいびる様な素振りは一切なく、純粋に息子が側室を迎えたことを喜んでくれているようだった。そのことにもまた胸が痛む。

「あの子は側室の息子として将軍を支える仕事をしていくだろうと思っていたので、跡継ぎの若君が突然の病で亡くなってお鉢が回ってきたときは本当に驚いて……。正妻の頼子様はお姫様育ちでしょう?秀尊とは合わなかったようなの。乃江流様は有名な巫女だけれど普通に育ったと聞いて、秀尊が選ぶのも理解できると思いました」

 将軍の母は静かに微笑んだ。

「あの子はいつも民が何を考えてるか、どんな生活をしているのかを気にするような子で、豪華なものには興味がなくて。母親の私が言うのも何だけれど、真面目で優しい子なのです」

「……ええ……」

「貴女はきっとわかってくれるでしょうね。どうか秀尊を支えてやってください」

 丁寧に頭を下げられ、乃江流は仰天した。慌てて頭を上げてほしいと頼むと、嬉しそうに微笑まれて良心がひどく痛んだ。


「……早く孫の顔が見たい、か」

 乃江流は将軍の母君の言葉を繰り返して溜息を吐いた。やんわりと言われただけだが、その言葉は乃江流を焦らせた。

 なにせ、実際は形だけの側室だ。将軍は乃江流に対し、一切手を触れようとはしない。それが形だけの妻なのだと信じさせる一因でもあった。

 側室になったものの、将軍の妻になったという実感は一切なかった。将軍と正妻の頼子との関係が早く良くなり、世継ぎが生まれればいい。乃江流は毎朝毎晩神にこっそり願うようになった。






 夜も更け、将軍が乃江流の部屋を訪れた。夕餉を共にし、乃江流は将軍に酌をする。これが日課だった。

 将軍は不思議なほど欠かさずに乃江流の部屋を訪れる。一緒に食事をし、話をして帰っていくだけだ。たまに隣の布団で眠ることもあるが、それ以上のことはしていない。たぶん彼は話を聞いて欲しいのだろうと乃江流は思った。人は切羽詰っている時ほど話を聞いて欲しがるものだ。乃江流の元に来る相談者は皆そうだった。

 たわいない雑談をしながら、膳に並べられた豪華な食事を終え、乃江流は本題を切り出した。

「将軍様。今日は……いかがでしたか」

 詳しく聞かなくても、将軍は乃江流の質問の意図を正確に汲み取ってくれる。

「ああ、少し話をした」

 その言葉に、乃江流はぱっと目を輝かせた。

「本当ですか!」

「ああ。短時間だが。和やかに会話ができたと思う」

「大進歩じゃないですか!良かったですね!」

 これまで毎日正妻との関係について聞いていたが、今日は会えなかった、という報告ばかりで、ろくに進展がなかったのだ。乃江流はにこにこと笑って言ったが、将軍は不機嫌そうに目を細めた。乃江流はその表情の変化に気付いて首を傾げた。

「何を怒ってるんですか?」

「……別に」

「まさか頼子様に惚気られたんですか。それで落ち込んでるんですね?」

 乃江流は一人勝手に想像して呟いた。将軍は乃江流を一瞥して大きく溜息を吐いたあと、女中を呼んで膳を片付けさせた。

「もういい。寝るぞ。俺はもう疲れた」

「え、今日はここで寝るんですか」

「別にどこで寝ても同じだろう」

 乃江流の部屋にはいつも布団が二人分敷いてある。女中達が気を利かせているのだろう。寝支度をした将軍は布団の上に寝ころがり、乃江流もその隣の布団に横になった。二人で並んで天井を見上げていると、ふいに将軍が口を開いた。

「乃江流」

「はい、なんでしょう」

「……前から思っていたが、お前、変わった名だな」

 乃江流は天井を見たまま気を悪くすることもなく頷いた。

「はい、よく言われます。この名前は私の両親と祖母の名前を一文字ずつ取って組み合わせただけなんですよ。母の志乃と祖母の明江と父の流生から一文字ずつ取って、乃江流にしたらしいです」

 昔からこの件については良く聞かれたため、乃江流はすらすらと説明した。将軍は虚をつかれたような顔をした。

「なんだ、それだけなのか」

「はい。うちの家では華道川にあやかって、名前に水に関する文字を付けるのが決まりなんです。だから私も江とか流とか入ってるわけです。弟にも入ってます」

 将軍はなるほどな、と笑った。

「今日海の向こうから来た異人にお前のことを話したら、のえるってのは奴等の信仰する神の誕生日のことだそうだ」

「え、そうなんですか?……それってちょっと……喜んで良いのか微妙ですね。というか、私のことなんか話したんですか?」

「話の流れでお互いの妻のことを話しただけだ」

「妻って……私は形だけの妻でしょう。ちゃんと正妻様のことも話したんですよね?」

 乃江流は将軍に視線を向けたが、将軍はふいっと目を逸らした。

「ああ話した話した」

「……本当ですか?正妻様とのこと、ちゃんと一番に考えてくださいね?」

 乃江流は横を向いて将軍の横顔を見つめた。将軍は一度目を瞑り、ふいに乃江流の方を向いた。

「だが頼子は相変わらずだぞ。男と上手くいってるらしい。俺に興味の欠片もない」

「一緒の時間を過ごしたらきっと変わってきますよ」

「そうか?」

「だって、今までほとんど会話してなかったんでしょう?将軍様の良いところが見えれば正妻様もきっと変わりますよ。そうだ、贈り物なんてしてみたらどうです?」

「贈り物?」

「ええ、女の人は意表をつかれた贈り物とかされると嬉しいんですよ」

「そうか……。たとえば、お前なら何を貰ったら喜ぶ?」

「えっ私ですか!……普通ならお花とか、可愛らしいちょっとした小物とか、髪留めとかがいいのではないかと思いますけど」

「普通はわかった。乃江流は何が欲しいんだ?」

「私は別に欲しいものなんてないです。最近いっぱい分相応なものをいただきましたし。もう一生分手に入れましたよ」

「……欲しいものはないのか?」

「別にないですよ。あれ以上何か欲しいってどれだけ贅沢なんですか。そういえば、墨と筆をお借りしたいです。今日実家から文が届いたので、私も文を書こうと思って」

 乃江流の答えに、将軍は小さく笑った。

「おかしいですか?」

「ああ、面白いな。……それより、家族は息災か?」

「ええ。元気そうでした。私が側室になったことで町はお祭り騒ぎらしいです。両親もそのうち江戸に訪れたいと言ってました」

「それはいいな。俺も乃江流の両親に挨拶しなければな」

 将軍はどこか満足げに言った。乃江流は首を傾げ、将軍は真面目な人だなぁ、としみじみと思った。形だけの側室にそこまで気を遣う必要はないと思うし、わざわざ一緒の部屋で眠る必要もないと思うのだが。将軍と正妻の間が上手くいけば、自分は用無しになり、実家に帰ることになるのではないか。

 乃江流がぼんやり将軍を見ていると、彼は本格的に眠くなってきたようで、目をこすると、口の端を上げて笑った。

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

 将軍は目を瞑って乃江流に背を向けた。乃江流は将軍の広い背中を見つめていたが、しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。完全に眠りに落ちたらしい。彼は案外寝付きが良いということも、一緒に眠るようになって気付いた。乃江流はそれほど寝つきが良くない方で、眠るまでにしばらく時間がかかる。将軍の寝息を聞きながら、薄暗い天井の木目を見つめ続けた。



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