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1 幸せを呼ぶ巫女

 桜の花びらがひらひらと舞い散っていた。鳥居の真下へ降り、灰色の石段を華やかに塗り替えるように、また一枚、落ちていく。石段に腰をおろしていた娘は、膝に落ちた桜の花びらを抓んで、綺麗、と呟いた。

「掃除は終わったのか?」

 耳に飛び込んできた低い声に、娘は慌てて立ち上がった。背後には神主の白装束を身の纏った父親が立っている。娘は手にした竹箒を取り繕ったように動かして見せ、父親に向かって微笑んだ。

「少し休憩してただけ。祈祷は?」

「終わったよ。もうすぐ木戸様が来るから準備しなさい。髪にも桜がついているぞ」

 父親は娘の頭に乗った花びらを掃い、踵を返して戻っていった。休んでいたところを叱らなかったところをみると、どうやら機嫌が良いようだ。娘は髪の毛を手櫛で調えると、軽く溜め息を吐いてからゆっくりと歩き出した。


 本殿の前へ回ると、既に客人が到着していた。身分の高そうな豪華な着物を纏った婦人と、付き人らしき男達が数人。巫女装束に身を包んだ娘を見つけるやいなや、まるで神か仏でも現れたかのように歓喜の声を上げた。

「あらあらまあまあ、この子が例の巫女様ですのね?幸せを呼ぶという?」

 婦人は頬を紅潮させて、娘を頭から爪先まで眺めた。その瞳に一瞬、「案外普通の娘ね」という落胆が見えたが、娘には慣れた事だった。

「娘の乃江流のえるといいます」

 父親が娘を紹介すると、輝く宝飾品を身につけた中年の婦人は瞳を潤ませた。

「巫女様、夫をお助けくださいませ。私には巫女様だけが頼りなのです。どうか!どうか!」

 縋るような婦人の目を見て、娘は困ったように微笑んで言った。

「努力いたします」

「ああ!どうも有難うございます!」

 まだ祈祷もしていないのに、婦人は平伏しそうな勢いだった。娘は微笑んだまま、内心では大きく溜め息を吐いた。


 華道川(かどかわ)神社という名の神社がある。町を見下ろすように山の上に立つ城の裏側に、ひっそりと建つその神社は、それほど大きくないが、元々の成り立ちはかなり古い。古くはこの近くを流れる華道川の氾濫を恐れ、川の神を祭った小さな神社だったと言われている。だが、現在この土地を治める藩主の先祖が八幡様や稲荷神も祭ることにしたため、規模が少し大きくなった。今ではいくつかの神が並存しているが、元々日本には八百万の神がいるとされているため、そんなことはもう誰も気にしていない。華道川神社は何でも有りの神社として認識されている。人々が主に願うのは五穀豊穣や商売繁盛だ。

 華道川神社の長女として生まれた宮坂乃江流は、平凡な娘だった。霊的資質もなく、特別器量が良いというわけでもなく、取り柄と呼べるものもない。そんな平々凡々な乃江流に、神主である父も巫女として働く母も、特に期待を掛けてはいなかった。女の子はいずれ他家へ嫁ぐから、健康に育ってくれれば良い、と。

 両親の願いどおり、乃江流は健康優良児でお転婆な子どもに成長した。母の真似をして巫女の装束を着ては神社の掃除をしたり、祈祷の真似事をするようになった。

 ところが、いつからか、乃江流は幸せを呼ぶ巫女として祭り上げられるようになっていた。

 人々は言う。「華道川神社の巫女は幸せをもたらす神の使いだ」と。

 この評判が広まり、華道川神社の名は近隣に知れ渡り、参拝者は後を絶たなくなった。特に裕福な武家からは、ぜひ乃江流に祈祷してほしいと予約が殺到している。そのうえ人生相談のような文が毎日のように届けられる。

 思いも寄らないこの状況に愕然としたのは当の本人だった。なにせ何の力もないことは自分が一番わかっているのだから。

 どうしてこういう事態になってしまったのか。本人にもはっきりとはわからない。ただ、思い当たるきっかけがある。あれは六、七歳の時のことだった。


 鈴緒を鳴らし、手を合わせて熱心に何か呟いている一人の男がいた。男はその体勢のまま長い間動かなかった。近くで落ち葉を掃いていた乃江流は、一体何を祈っているのか純粋に不思議で男に近づいた。

「おじさん、どうしたの?」

 男ははっと目を開き、幼い巫女に視線を向けた。硬かった表情をふっと緩める。

「可愛い巫女さんだね。ここの神社の子かい?」

「そうよ。ねえ、何を祈っていたの?」

 男は悲しげに微笑んだ。

「商売がうまくいかなくてね。お金もなくて、妻も出て行ってしまったんだ」

「そうなの。どうしてうまくいかないの?」

「とても難しいんだよ。商売は」

「難しいからやめちゃうの?」

「辞めたくはないんだ。だから神様にお祈りしてたんだよ」

「ふうん。でも神様にお祈りしてもあまり意味ないと思うわ。神様は私達を見守ってくださるけど、直接助けてはくれないもの。時間の無駄でしょ?それよりもなんとかしてお店を立て直す方法を考えるべきだと思う。奥さんもおじさんを愛してるなら、良い報告を待ってるはずよ」

 乃江流は神が人の願いを叶えてくれる存在だとは思っていない。今は亡き祖父の影響だった。

 祖父はよくこう言っていた。

神が人の願いを聞き入れることはない。人が生きていく様を静かに見守っているだけなのだ、と。

 神も霊も見えず、奇跡を目にしたこともない乃江流には、その言葉は真理に思えた。人が幸せになるために必要なのは、強い意思と努力だと祖父はいつも言っていた。

 乃江流の言葉を聞いた男は、少しの間瞠目していた。生意気だ、お前に何がわかるんだと怒っても良いくらいだったのに、彼は気を悪くした様子もなく、何か考えていた。切羽詰っていた男には神の啓示か何か思えたのだろうか。彼は「そうだね、その通りだ」と神妙な顔で頷いただけだった。


 それから半年ほどたって、その男がもう一度神社を訪れた。彼は乃江流の姿を見つけると、満面の笑みで礼を言った。商売が上手くいって妻も戻ってきた、と。

 その時乃江流は特に何とも思わなかった。男は必死で努力したのだろうし、礼を言われることは何もないと思った。しかし彼にとってはそうではなかったらしい。数年が経ち有名な豪商となった彼は、成功したのは華道川神社の巫女のおかげだと度々口にしたのだ。

 そのせいなのか、神社を訪れる人間は年々増え、人々は若い巫女に相談を持ちかけるようになった。乃江流は言われるがままに話を聞き、思ったことを口にする。ろくな経験もない十代の小娘の言うことなど、たいした助言ではないはずなのに、人々は何等かの熱に浮かされたように、なるほど、さすがだ、素晴らしい、と称え、礼を言って帰っていく。

 一過性の熱病のようなものだ、と乃江流は思う。単なる流行病だ。そのうち、巫女に祈祷してもらったのに何の役にも立たなかった、と言い出す人々が現れるだろう。散々持ち上げられたのだから、後は落ちるしかない。その時が訪れることを考えると、身震いがした。


 祈祷が終わり、本宅に戻って居間に入ると、母親が台所から出てきた。

「祈祷は終わったの?木戸様は?」

「帰ったよ。とーっても満足そうに」

「そう。ならいいわ」

 玉串料の入った包みを渡すと、母親は嬉しそうに中身を検めた。身分の高い婦人のようだったから、中身も相当入っていることだろう。乃江流はちゃぶ台の上のみたらし団子を頬張りながら母親の表情を窺った。

「さすが、お殿様と親戚なだけあるわね」

 笑顔の母親は足取りも軽くお金を戸棚に仕舞いこんだ。

「お金返せって言われたらどうするの?あの人、旦那さんの病気を治して欲しいって言ってたのに」

 病気を治せ、とは無茶な願いだ。健康関係の願いは祈祷してどうこうなる問題ではなく、医者の力と本人の気力・体力の問題だろうと乃江流は思っている。だが、人間の願いには際限がない。乃江流の元に来る人のほとんどが無茶な願いを言っては神の力に頼ろうとするのだ。本当に神の力があるならばともかく、何の力もない乃江流にそんなことを頼むなんて馬鹿げている。

「治らなくてもお金返せとは言わないでしょう。木戸様にとっては幸せを呼ぶ巫女が祈ってくれることが重要なのだから」

「幸せを呼ぶ、か…。本当にそんな巫女だったら良かったのに」

「乃江流には本当に力があるのかもしれないでしょう。うちにも幸運が舞い込んできているもの」

 幸運をお金と呼ぶのならばそうだろう。両親は武家や貴族から多額のお金が舞い込むことを心から喜んでいる。神社にもお金が必要だ。広い敷地と建物を維持するためには思った以上に金がかかる。乃江流が稼いだ金は神社の経営のために使われ、お小遣いさえほんの少ししか貰えない。

 乃江流の唯一の楽しみは、空き時間に普通の着物に着替え、近所の甘味処へ行くことだった。

「あらいらっしゃい乃江流ちゃん。今日はどうする?」

 顔見知りのおばさんに微笑まれて、乃江流は少し迷ってから言った。

「今日は桜餅にしようかな」

 幼い頃から通っているこの甘味処は、安くて美味しいと町でも評判の店だ。店先の長椅子に座り、お茶と桜餅を楽しんでいる間にも、何人もの客が店を訪れては茶菓子を買い求めていた。

「お、乃江流か?」

 顔を上げると、近所に住んでいる菅原小次郎が立っていた。乾物屋の息子で、乃江流とは同じ年。寺子屋で一緒に学んだ時期があり、気安い仲だ。しばらく会っていなかったが、背が随分伸びて身体つきもがっしりとし、すっかり男らしくなっていた。

「うわあ、久しぶり。どうしたの?」

「今日家に客が来るからさ、茶菓子買いに来たんだ。お前は忙しいんだって?噂は聞いてるけど」

 小次郎は乃江流の隣に座った。桜餅を食べ終えた乃江流は、まあね、と曖昧に笑う。

「すげーなぁ。お前が幸せを呼ぶ巫女様だなんて。びっくりだよ」

 私もびっくりしてる、と乃江流は内心呟いたが、口には出さなかった。

「俺の幸せも祈ってくれるか?」

 突然何を言い出すのかと乃江流が首を傾げると、小次郎は歯を見せて照れ臭そうに笑った。

「実はさ、結婚するんだよ」

「え!」

 乃江流は声を上げたが、別段驚くようなことでもなかった。小次郎も乃江流ももう十七歳だ。結婚しても全くおかしくない年だ。早い者なら十四歳くらいで結婚するし、十六歳は適齢期。二十にもなって独り者ならいき遅れと言われてしまうため、十代の子を持つ親のほとんどが結婚相手を探して奔走する。

「相手は誰なの?」

「隣町の親戚の知り合い。一つ下でさ。この間会ったけど器量がよくて、俺にはもったいないくらいだった」

 小次郎は鼻の下を擦った。親が決めた相手と結婚することが当たり前の時代に、一目で気に入る相手と出会えることは稀だ。よほど可愛いお嫁さんだったんだろう、と乃江流は笑った。御目出度いことだ。

「おめでとう。お幸せにね」

「結婚したらお前のところに行くよ。お前が祈ってくれたら幸せになれるよな?」

「わざわざ来なくていいよ。私の祈祷は高いから」

 乃江流は茶を飲み干して立ち上がった。

「夫婦が幸せになるのに必要なのは、思いやりと我慢と歩み寄りだよ。頑張って」

「あ、おい!」

 そのうち行くからな、と叫ぶ小次郎に軽く手を振り、帰路に着く。

「結婚かぁ・・・」

 歩きながら、自然と溜め息が出た。

 乃江流も昔は、十六にもなれば結婚して出て行くものだと思っていた。弟がいるから神社の跡継ぎに関しては問題がない。父も、誰か相手を探すつもりだっただろうに。それが変わったのは、巫女として名が知られてしまったここ数年のことだ。

 夕食の時間に、乃江流は小次郎が結婚することを家族に話した。両親と祖母、そして九歳の弟と共にちゃぶ台を囲む。食事は魚中心で質素なものだったが、毎日白米が食べられる。一般の農民の食事よりずっと良いのだと乃江流は知っている。

「そうか、結婚か。菅原家も安泰だな」

 父親は熱燗をお猪口に注ぎながら言った。他人事のような口調に、乃江流は少し苛立った。

「お父様、私はどうしたらいいの?」

「お前にはまだ結婚は早いだろう」

「でも、もう17歳なのに」

「まだ駄目だ。お前が結婚すると困る方が大勢いるんだ」

 巫女は未婚の娘でなくてはならないと言い出したのは一体誰なのか。乃江流には心底不思議だった。

 多くの場合、巫女といっても、処女性はそこまで重要視されない。乃江流の母親が巫女になったのは神社に嫁に来てからだし、日本には結婚後も働いている巫女がいるはずだ。結婚すれば、婿養子を貰うのでなければ、相手の家に嫁がなければならないから、巫女は辞めなければならないだろうが、乃江流は別に構わなかった。

「私には力なんてないんだよ?結婚したって此処を出て行ったって、何も変わらないのに」

「皆そうは思っていないんだ。もう少し待ちなさい」

 特別な力を持つ巫女が結婚してしまえば、その力が失われると信じている者は乃江流が思っている以上に多く存在するらしい。確かに生涯独身で巫女として生きる者もいるとは聞いている。父親としても、大きな収入源である娘がいなくなるのは困るのだろう。祖母も母もそう思っているから何も言わない。まだ早いと濁すだけだ。結婚は家同士の問題で、勝手に出来るものではないから、父親が結婚するなという限り、乃江流には何も言えない。

 

 夜半に外に出てみると、三日月が綺麗に見えた。桜の木が月明かりに照らされて美しい。四月下旬のこの時期は夜桜目当てに神社に来る者も多くいる。目を凝らすと離れた場所にいくつもの人影が見え、楽しげな声が聞こえてきた。皆、花見に来ているのだろう。

 風が吹きつけ、花びらが舞い散る。春とはいえ、夜の風は冷たい。乃江流は軽く身震いした。桜色の花びらが無数に舞い散る様子は例え様もない程美しいが、その儚さに切なくもなる。この桜は未来を象徴しているのだ。

 このまま結婚もせず、幸せを呼ぶ巫女として客寄せをする日々が続いていくのだろうか。今はそれでいいかもしれない。けれど、何年か経って熱病が皆の頭から消え去ったとき、この神社には未婚の行き遅れた娘が残るだけだ。その時には弟も大きくなって嫁を迎え、跡を継ぐことだろう。そうしたら父は自分をどうするのだろうか。

 乃江流も年頃の娘だ。どこかの優しい男性と一緒になって幸せな家庭を築きたいと思う。けれど、そんな当たり前のことも自分には無理なのだろう。

「神様が本当にいるなら、きっと意地悪なんだろうなぁ」

 闇に浮かぶ桜を見上げて、乃江流は溜め息を吐いた。


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