夏、その日限りの小冒険
彼女までほんの二十歩。
このまま自然に歩いていき、声をかける。それだけ。
しかし山名豊径はその「それだけ」ができずに駅のホームの上で立ち尽くしていた。
「山名君やん、何してんの?」
いきなり後ろから声をかけられた。
「た、橘……、声がでかい」
振り返るとクラスメイトの橘縁が怪訝そうな顔で立っている。
今ここで知り合いに見付かりたくはなかった。
縁は豊径の向こうに清水佐香恵の姿を認めたようだ。
「清水さんに用なん?」
「いや、そう言う訳じゃ……。取りあえず、声がでかい」
両手で縁を制そうとするが、お構いなしに声を張り上げた。
「清水さーん! オハヨ!」
手を振る縁に、電話をしていた佐香恵が顔を向けた。
ヤバい、気付かれる!
豊径はとっさに縁の手を取ると、ちょうど扉が開いていた電車に飛び乗った。
「ちょっと! なにすんのっ!」
引っ張られながら叫び声を上げる縁。
そうやって二人車内に乗り込んだところで扉が閉まってしまう。
「も~、なに? 乗ってもぉたやん!」
縁が恨みの籠もった目で豊径を睨み付けてきた。
「わ、悪い。ちょっと、マズかったんだよ」
「これ特急やで? 次どこまで行くんよ?」
「いや、知らないけど……」
「も~っ」
豊径を押し退けると奥に入っていき、客席の一つに身を投げ出した。
「もーえぇ、覚悟決めた! あんたも座り、長期戦やっ!」
自分の隣の席を叩いた。
確かに立ちっぱなしも疲れてしまう。指示された席に座った。
特急席は進路に向かって横に四席ずつ並んでいる。その片側に二人は収まったことになる。
「なんなん?」
相変わらず厳しい目付きで聞いてきた。
「いや、まぁ、いろいろあるんだよ」
「清水さん、好きなん?」
いきなり核心に踏み込んできた。
しかしここまで迷惑をかけておいてダンマリもどうかと思ったので正直にうなずく。
「ほんで声かけれへんねや? なんやそれ、ヘタレやん!」
ぷいと窓の方へ顔をやった。
言われるまでもない。
さっきと似たようなことをこれまで何度も繰り返している。
結局声はかけられずにいなくなるまで突っ立っているのだ。
「悪かったよ……」
「うち、今メチャ機嫌悪いのに」
相変わらず窓の向こうを見ながら言う。
そこへ車掌がやってきて、特急券を持っているか聞いてきた。
当然持っていない。
間違って乗ったと豊径が言う前に縁が声を出した。
「終点まで。八木からの乗車券も。二人分」
あっけに取られた顔をしている豊径を見て車掌が縁に確認してくる。
「お願いします。二人分まとめて」
縁は財布から一万円札を簡単に取り出すと車掌に渡した。
それは切符と随分少なくなったお釣りになって戻ってきた。
車掌が行ってから豊径はようやく声を出す。
「おい、終点ってなんだよ」
「ええやん。うち、今日暇やねん」
「いや橘、学校行くんだろ?」
豊径達の高校の制服を着ている。豊径も制服だ。
「もぉええわ。どぉせ夏休みやん、ぱあっと行きましょ」
晴れ晴れとした笑顔を見せてきた。
「無茶苦茶だよ、俺は部活なんだよ」
席に背中を預ける。
「一日くらいええやん。賢島て、海やで? 海とか久し振りやわ~」
にこ~っと笑顔。
豊径は終点まで行ったことがないし、そこに何があるかも知らなかった。
ため息だけが出る。
「何かあったのか? 橘」
縁の顔を覗き込む。
「まぁな。親友と喧嘩した」
外の方へ顔をやって言う。
「それだけ?」
「それだけて、なんなんよ!」
今度は睨んできた。
「いや、悪い……」
「今日、遊びに行く約束しててん。せやのに今日になって家の用事で行けへんなったって。うち、珍しく早起きして、下ろし立ての服着て、お化粧もちょっとして。せやのに、行けへんて。なんなんそれ?」
「いや、家の用事なら仕方ないだろ?」
今も化粧をしているかその顔をよく見てみたが豊径には分からなかった。
「浮かれてた分、余計惨めになったわ。うちなんか、どぉでもええんや」
「泣いてる?」
「泣いてへんっ!」
しかしむこうに顔をやって盛大に鼻をすすった。
「親友って、佐伯のことだろ? いつも仲良いよな。すぐに仲直りだって」
「どやろ。うちの怒りはすごいことなってる」
「気が強いもんなぁ」
「そぉいう女はお好みでない?」
にやにやして豊径の顔を覗き込んできた。
嫌な感じだ。
「清水さん、おしとやかでおますな?」
「うるさいなぁ」
今度は豊径が顔を逸らした。
「男子の人気も高ぉ、おますなぁ」
「何が言いたいんだよ」
睨み付ける。
「無理めやね」
「はっきり言うよな……」
うなだれてしまう。
そんなことは自分がよく知っているのだ。
好きだと気付いた時からずっとそういう思いが胸に渦巻いていた。
しかしどうしようもない。
好きなのだから。
「それになぁ……」
「知ってる」
「そうなん?」
「大学生の彼氏だろ? さっき電話してたのもそうだろうな」
「知ってんのに諦めへんねや?」
「悪いかよ」
顔を上げることができない。
「うちにはよぉ分からん心境ですわ。あ、お菓子食べる?」
豊径が顔を上げると縁は自分の鞄の中をゴソゴソとしていた。
「はい、ポッキー。夏場やのにあえてポッキー」
「溶けてるだろ?」
「それがええんやて。溶けたチョコがうまいんですわぁ」
うれしそうに袋を開けると自分の分を引っこ抜いた。
そして豊径の方へも差し出してくる。
少し迷ったがせっかくの好意なのでありがたく受けておく。
やっぱり溶けていて、半分くらい剥がれていた。
「後で袋舐めるの?」
「そん時、むこう向いててな」
にっと笑うとチョコレートの付いた歯が見えた。
「で? なんで好きなん?」
「なんでって……。言わないと駄目なのか?」
「どぉせ暇やもん」
「はぁ?」
縁はシートに深々と座り、「聞く体勢」を取っていた。
「まぁいいや。て言っても、なんでかなんて分からないんだけどな」
「恋なんてそんなもんやなぁ」
「知ったかだろ?」
「まぁな。でも顔が好みとかあの大っきいおっぱいが堪らんとかあるやん?」
「大きいとか言うなって」
「純情ぶんなって」
縁はずっとにやにやしていた。
「そりゃ、な? 顔は好みだよ? それは否定しない」
「おっぱいは?」
沈黙でやり過ごそうとしたが、縁は許す気がないらしくじぃっと見てくる。
「ある。あります。確かにいいと思います」
「やっぱりや。男子は女子のおっぱいばっかりですわぁ」
すねたようにわざとらしく顔を逸らした。
自然、縁の胸に目が行く。
「見んなよ~、エロガキが~」
目は睨みながら、口元はにやにやしながら顔を向けてきた。
「振ってきたのそっちだろ?」
精一杯の抗議をしてみる。
「清水さん言うたらおっぱいは外せんやん」
「いや、そこだけじゃないだろ?」
「性格は穏やか」
「料理も上手い」
「運動はちと鈍い。あのおっぱいやし」
「しつこいなぁ」
「でも、彼氏おんねん。もう三年付き合うとる」
「そうだ。三年付き合ってる彼氏がいる」
豊径が下を向くと、縁が追い打ちをかけてきた。
「しんきくさっ!」
目だけ上げると彼女は身体ごと窓に向けていた。
またうなだれてしまう。
そのまま二人とも白け、終点まで何も話さなかった。
終点に着いて二人は電車を降りた。
「海や!」
「おい、走るなって」
駆けだした縁を追いかける。
少し行くと海に出た。とは言え、湾の中のようですぐ向こうに対岸が見えている。
「もっと広いのがええなぁ。歩こか」
縁が豊径の手を引いて堤防沿いに歩き始めた。
いきなり手を握られて豊径はどぎまぎしたが、縁は気にするふうもない。海を見ながらご機嫌だった。
そうすると自分だけ慌てるのも負けたような気になるので、そのまま手を握られるままにする。
縁は股下くらいしかない堤防の上に片手でよじ登った。
「おい、危ないぞ」
「大丈夫やて。こぉやって堤防の上を美少女が歩くて絵になる思わへん?」
「自分で言うかよ」
ニコニコ顔の縁へ苦笑いを向けてやる。
しかし彼女は構う様子もなく歩いていく。
堤防の上と下で手をつないで歩く、制服の男子と女子。
すれ違う人が微笑みを浮かべたりするのが恥ずかしい。
かと言って堤防の方を向くと無防備なお尻だった。
仕方なく前方だけに集中する。
しばらくして気が済んだのか飛び降りた。
片手で押さえきれないスカートがふわりと浮く。
もう少し行くと幾分か視界が開けた。
冴え渡る青空をよく映した海が広がり、すぐ向こうには島がいくつも見える。
水平線こそないものの、そこには爽やかな開放感があった。
「まぁ、こんなんでええかな? ちょっとこっち来ぃや」
胸くらいの高さになっていた堤防に前からもたれかかる縁。自分の真横をバシバシと叩く。
言われた通り、彼女の横に並んで堤防に腕を乗せる。
「うちらて、山に囲まれて生活してるやん? 潮の匂い、波の音、海鳥の声。こういうの、ウキウキワクワクしてけぇへん?」
「分かる。いつもと違う感じ」
「そうそう。ここやったらなんでもできるで」
「なんでも?」
「そや、清水さんへの気持ちなんかここに捨ててまえ」
海を眺めながら静かに言った。
「そう簡単に捨てられるかよ」
「でもつらいやん?」
「でも好きなんだ。どうしようもなく切ないけど好きなんだ。分かる? そういうの」
「分かんで。うちかて好きな子おるし」
豊径に顔を向けた。少し真面目な顔をしている。
「なのちゃん。うちの親友、佐伯菜ノ花。うち、あの娘めっちゃ好きやねん」
「それって友達の好きだろ?」
少し拍子抜けをしてしまう。
「違う。恋してる。なのちゃんに恋してるねん、うち」
「へぇ……。向こうは知ってるの」
「メチャアピールしてる。でも冗談や思われてる。そんでも何度でも好きやて言ぅねん」
「そっちもつらいんだ……」
「そーでもない」
堤防に両手を置いたまま後ろに伸びをした。
「うちメチャ幸せ。あの娘と一緒にいて、あ、こんな顔するんや。こんなこと考えてるんや。いろいろ知れて、それがうれしくて、幸せやねん」
「へぇ……」
豊径は気分が下がってしまう。
「あんたは違う。清水さんのことなんも知らへん。遠くで見てるだけやし、近付かへんし。あの娘のホンマをなんも知らん」
その通りだった。
豊径と佐香恵はせいぜい同級生。
たまに話す程度の間柄。
それにしたって豊径は舞い上がってしまってまともに話なんてできやしなかった。
しかしなにも知らないというわけではないつもりだ。
「知ってるよ」
「あの娘、二股してんねで?」
「知ってる。いっこ下の後輩」
「そうや、あんたはそれを知ってる。うち、ホンマは山名君が清水さん好きなん最初から知っててん。だって見てんもん、清水さんと後輩君が腕組んで電車待ってんの、山名君が遠くから覗いてるとこ。そん時のあんたの顔……」
縁がじっと豊径の顔を見る。
豊径も視線を外さない。
「メチャしんどそうやった。あんなんあかん。絶対あかん」
「仕方ないだろ、それでも好きなんだから」
縁が海の方に目をやった。
「忘れって。見てみ、この海。なんでも受け入れてくれそうや。あんたの気持ち、ここに放り。きっと溶かしてなくしてくれるわ……」
豊径は縁と同じように海を眺めた。
捨て去れるものなら捨ててしまいたい。
大事に取っておくにはつらすぎた。
「無理だよ、今さら。どうやったら捨てられるのか分からない……」
「しゃあないなぁ……」
そう言うと、身体ごと豊径の方へ向けた。
「うちが取っときのおまじないしたるわ。放りたい気持ちを放れるおまじない」
「そんなのあるんだ?」
「あんねん。あそこの島あるやん? あれよぉ見ててみ」
指さされた海の向こうにある島をじっと見る。
しかしそれ以上縁の指示はない。
どうしたのか彼女に聞こうとしたところで肩に手を置かれた。
そして頬に温かい繊細な感触が。
驚いて縁の方を見ると、吐息のかかる距離に彼女の顔があった。
「どや? 放れるか?」
優しく微笑むその顔は、少し赤らんでいた。
豊径は笑みを返すと一度うなずく。
急に悪戯っぽい表情に変わった縁が大きく息を吸い込んだ。
そして海に向かう。
「清水佐香絵の、アホンダラァァァッ!」
あっけに取られている豊径の方を向き、顎で海の方へと促してくる。
豊径も大きく息を吸い、海と向かい合う。
「清水佐香絵の、アホンダラァァァッ!」
その瞬間、豊径の胸の奥にこびりついていたものが吐き出された。
二人で顔を見合わせ、ゲラゲラと笑い合う。
この後二人は昼食を挟みながらあちこちと歩き回り、疲れた頃合いに駅へと戻った。
土産物を買い込んだ縁は、それでも帰りの電車賃を二人分出す余裕が残っていた。
豊径としては帰りは自分が払うべきだと思ったが、財布の事情はどうにもならない。
うなだれながら縁の世話になった。
帰りの車中では学校、友達、家族のことなどをワイワイと話す。
駅の売店で買った小枝で指と唇をチョコまみれにしながら、縁は明るく笑い通しだった。
あっと言う間にいつもの駅にたどり着く。
「じゃあ、電車賃、学校で返すから」
「もうええ、言ぅてんのに。まぁ、気の済むよぉしてや」
「今日はありがとう」
「うちも引きずり回して悪かったわ」
縁が手を出してきたので、豊径はその手を握った。
握手したままブンブンと振り回す縁。
と、彼女のスマホが鳴った。
「なのちゃんや! 仲直りの電話やで!」
縁は手を振り解くと、自分のスマホを引っ張り出した。
「じゃあ、ちゃんと仲直りしろよ」
「そっちも悪い女に騙されんなや」
手を振りながら遠ざかって彼女は電話に出る。
豊径が後ろを向くと、少し離れて同じ高校の女子がいた。
清水佐香恵だ。
「こんばんは、山名君」
柔和に手を振りながら近付いてきた。
「橘さんと仲よかったんだ?」
向こうで飛び跳ねて電話をしている縁に目をやる。
「いろいろあって、今日だけね」
佐香恵と話をしても、胸が高鳴りも痛みもしないと豊径は気付いた。
頬にある、薄桃色をしたおまじないの跡がほのかに明るむ。




