トイレのアミィさん
「はい、どうぞ」
そう言ってサラはカップに安物の紅茶を注ぐと、アミィの前に差し出した。
「ありがと。なーんか喉乾いちゃってさー」
アミィは嬉しそうに口をつける。白い着流しは彼女の寝間着だ。
サラも薄桃色のパジャマ姿で、お互い髪がかすかに湿っている。風呂上がりらしい。
喉を鳴らしてカップを傾けるアミィを一瞥し、サラは傍らの本に再び目を落とすが、
「お代わり」
そうはさせまいとばかりに空のカップを突き付けられた。
軽く眉間にしわを寄せるサラ。アミィのほうはにこにこと笑っている。
「どしたの? 早く注いでよ」
「……アミィ、寝る前にそんなに飲むと、夜中にトイレ行きたくなると思うんだけど」
「へーきへーき。大丈夫だから早くちょうだい」
「……」
この遠慮のない義姉に何を言っても無駄だと思ったのか、無言でポットに手を伸ばす。
それでも嫌味くらいは言いたくなるようで、サラはアミィのカップを手繰り寄せながら小さくつぶやいた。
「トイレ行くからって、私を起こすのはなしだからね」
「あたしゃ十七だよ? トイレくらい一人で行けるって。……お、ありがとー」
「普通はね。でも、アミィだからなあ」
「なんだいそりゃ。――だいたい、サラの淹れるお茶が美味いからいけないんだ」
わざと音高く茶をすすり、アミィは笑った。
「こんだけ美味けりゃ、仮にあたしじゃなくても飲みたくなるさね」
「七割引きで売ってた処分品だよ、それ」
「サラが淹れたってのが問題なんだよ。
いいじゃんか、美味しい言われる分には気分いいだろ? サラだって」
「どうかな。手間はかかるし、いいことないよ」
「いいからそういうことにしときなって。あたしが嬉しいならサラも嬉しいはずだ。決定」
「そんな無茶な」
「うるさいね、いいから注いでよ。お代わり」
「ちょっと、もう三杯目?」
姉妹同然に育った仲の二人だったから、こんな他愛のない話もそれなりに弾む。
二人の部屋からなかなか灯かりが消えないのもいつものことだ。
しかし、やがては二人も寝静まり、山の覇権が人間から獣へと移る闇夜がやってくる。
ふくろうの鳴き声がやけに大きく聞こえる、満月の夜のことだった。
「……」
ベッドの中で、アミィはぱちりとまぶたを開けた。
目の前には静かに寝息を立てるサラ。
そろそろ冷え込んできたので、今夜は一緒に寝たのだ。まだお袋は暖房を許してくれない。
「……」
妹弟子の寝顔を見つめる。幸せそうな顔だった。起こすのは気が引ける。
実際、普段だったら何がなんでも起こさなかっただろう。
だが、今回ばかりは起こさなければならない。事態は深刻だった。
「サラ、サラ。起きてよ」
「ぅん、う〜……」
アミィはゆさゆさとサラの肩を揺さぶり始めた。その手つきはかなり遠慮がなく
サラはあっという間に目覚めた。眠たげに目をこすり、恨みがましい視線をアミィに向けたが
月明かりに照らされた彼女の真剣な顔付きに、自らも表情を強張らせる。
「サラ、唐突だけど大事な話があるんだ」
「……どうしたの?」
「うん。言いにくいんだけど……落ち付いて聞いてくれな」
「何?」
「トイレ、行きたいんだけど」
場の空気が一瞬で凍り付く。閉め切られた部屋の中を、一陣の寒々しい風が吹き抜けたようにも感じられた。
ずぼ。
ふいにサラの両手の小指がアミィの耳の穴にうずまった。そしてぐりぐりと回り始める。
「ふあっ、さ、ささ、サラ、サラ、耳、くすぐった、耳、みみみ、耳やめて、耳はーぁぁはぁううっ」
「アミィ、私言ったよね。トイレが近くなるから、あんまり夜中にがぶ飲みするものじゃないって」
「いいい、言いましたっ」
「でも大丈夫だって言ったよね。トイレくらい一人で行けるとも言ったよね。
私のことは起こすなとも言っておいたはずだよね」
「言いましたっ、言いましぃぃ、はぁうっ、言いまし、ましたけどっ、それはぁぁぁ」
「言ったけど、それは? 何?」
ごち。
指が引き抜かれ、代わりに拳がアミィの頭に添えられた。
どことなく冷めた無表情のサラの拳は、中指の第二関節だけが不自然に突き出ている。
誰もが一度は食らったことがあるだろう『殴られた時もっとも痛い拳』が、アミィのこめかみに添えられているのだ。
この状況下で、先ほどのようにぐりぐりとやられてしまえば。いよいよ歯の根が噛み合わなくなるアミィ。
「……何も震えることないよ。トイレ行きたいんでしょ? 早く行ってきたら?」
「あ、あのね、サラ……そ、そのー、夜中だよね、暗いよね」
「そうだね」
「それで、あれだよ、ほら。何と言うか、人間は真っ暗闇を本能的に恐れるもんでね」
「らしいね」
「だからさ、えっと、えーと……暗いとさ、そこから何かヤバいもんが出てきそうじゃん?」
「そうかもね」
「つまるとこ、ほら、一人じゃ怖いんだよね、トイレ行くの」
「だから?」
「そのー……一緒に来てください。お願いします」
「覚悟はいい?」
「ご、ごめん!ごめんってば!許して!やめ、ぐりぐりはやめて!お願い!おねが――」
絶叫。
「……自分がトイレに入ってる横に誰かがいるって、気まずくない?」
「そんなこと言ってられないって」
ランタンの炎を見つめていたサラが、寄りかかったドアの向こうに話しかけた。返ってきた声はアミィのもの。
「こんな暗いのに一人でトイレなんて行けっこないじゃんか。
サラもお袋も、なんで平気なんだよ」
「私に言わせれば、その年になって一人で行けない方が不思議だよ。
何がそんなに怖いの?」
「何って、何か出そうじゃん。いろいろと怖いものが肩でも組んで練り歩いてるように思えるだろ」
「……何のために修行してきた武術なの? 他人のトイレ覗いて喜ぶ変態さんなんか
何人束になっても、アミィの敵じゃないじゃない」
「そう言う意味じゃないって! もっとこう、殴って倒せない怖いもののことだよ!
オバケとか、妖怪とか、幽霊とか、化け物とか!」
「はいはい、静かにしてないとお師さんに怒鳴られるよ」
サラはトイレから聞こえてくる必死な叫びを軽く流し、
おもちゃ屋で駄々をこねる他人の子供を見るような、そんな仕方なさそうな笑顔を浮かべた。
「要するに幽霊が怖いんだね、アミィは。子供だなあ」
「……サラのほうが年下じゃないさ」
「私は精神年齢のことを言ってるの。ほら、早く済ませちゃいなよ。寒いから」
そう言って後ろ頭でドアを小突くサラ。アミィは何も言ってこなかった。
「……というようなことがあったと言うのに。それも昨日に」
サラは腕組みをしてベッドに座っていた。
向かいのベッドではアミィがあろうことか、ぬるめに冷ましたお茶をがぶ飲みしている。
「何でアミィはそんなに過剰な水分補給をしちゃうかな?」
「うるさいねえ。決まってるじゃんか」
三杯目のカップを干したアミィは、濡れた口元を拭いながらサラをにらむ。
「昨日のことはありがたいけどね、『子供だなあ』はちょっと許せないものがあるだろ。
あたしゃあんたの姉弟子なんだから」
「……怒ってたなら、あやまるけど」
「あやまられてもしょうがない。っつーわけで、あたしゃサラがいなくても
夜中にトイレに行けるということを、今夜証明してみせるって言ってんのさ」
「なるほど。でも、別に本当に用足ししなくたっていいと思うけどな」
「飲んじゃったもんしょうがないだろ。見てなよ、あたしはあんたより年上なんだから」
「……結局、私は起きてなきゃ駄目なんだね」
「当たり前さ、口だけじゃ信じないだろ」
自分で注いだ四杯目のお茶を飲み終え、アミィは「ごちそうさま」をつぶやきながら立ち上がった。
「それじゃ、行ってくる。ランタン貸して」
サラがもらした大きなため息にすら気付かない真剣さで、アミィはマッチ箱に手を伸ばした。
思ったよりもぼんやりとしたランタンの灯かりを頼りに、アミィは一階への階段を降りていった。
一歩一歩確実に、そろりそろりと進んでいく。
ホラー映画の一幕のようだが、別に彼女はゾンビやエイリアンを警戒しているのではなく、トイレに行こうとしているだけだ。
「二階にもトイレがあればなあ……」
ひんやりした空気を意識する度、気弱な独り言が口をついた。
一階の廊下もやはり暗い。同じランタンのはずなのに、灯かりが昨日より弱い気がする。
やはりサラがいるといないとでは大違いだ。
「……」
今からでもサラのところに戻って、ついてきてもらおうか。
ちょっと耳に指を突っ込まれて悶絶させられるかも知れないが、
ちょっとこめかみに拳を押し付けられてぐりぐりされるかも知れないが、
こうやって得体の知れない恐怖と戦うよりは、そっちのほうが
「……いや、いかん!あたしはサラを見返すんだ!」
大きくかぶりを振って、アミィは歩く速度を上げた。
無意識に呼吸は止まっていた。頻繁に辺りを見渡す。何かがいる気配はしない。暗いが、それだけだ。
「なんだ……大丈夫じゃんか」
アミィは力なく笑い、強張っていた肩の力を抜く。
母の部屋の前を通り過ぎ、狭い廊下を曲がると、突き当たりにトイレのドアが見えた。
何のことはない。ここまでくれば、あとは行って帰ってくるだけだ。
たったこれだけのことに、今までびくびくしていた自分が馬鹿みたいではないか。
安堵の息を漏らしながら一歩を踏み出し、廊下にあるガラス張りの窓の前を通過してトイレへ。
そんな彼女と、窓を挟んで並走する影があった。
「……」
アミィの顔から表情が消えた。いつも血色のいい肌がみるみる青ざめていく。
ごくりと唾を飲み込み、アミィはちらりと眼球だけを動かして窓を見た。全てが見間違いであることを信じて。
はたして、その者はそこにいた。
こちらを睨んでいるのは、真っ白な着物を着た若い女性。硬そうな長髪をわずかに乱したその女は
この世の生物では有り得ない、半透明な体をしている。後ろの景色が透けて見えた。
絶叫。
窓のある壁を背にしてしゃがみ込み、荒い息を整えようとするが、うまくいかない。
「ひーっ、ひーっ、ひーっ……」
出た。間違いなく出た。オバケ。妖怪。幽霊。化け物。とりあえず精霊ではないと思う。アミィは頭を抱えて震える。
出るとは思っていたが、まさか本当に出るとは。
どうしてサラや母は気付かないのだろうか。自分は霊感とやらが強いのか。
とにかく、何とかしないと。だが、どうすれば。どうすれば解決できるのだろうか。知らず目に涙がたまっていく。
「……アミィ? 大丈夫?」
その声にびくりと肩をすくめたアミィだったが、それは聞き慣れた親友の声だった。
一応は何者かの襲撃を警戒してか愛用の木刀を携え、窓の外を気にしながら歩み寄ってきたサラを
アミィは絞め殺さんばかりの勢いで組み伏せる。
「サラぁぁぁぁぁ!! 出た!出た!出た! 助けて!助けてぇ!」
「げふっ!? ……お、落ち付いて、アミィ。そんな大声出したらお師さんに怒鳴られるよ」
急き込みながら身を起こしたサラの言葉を聞くと、アミィは泣き顔のままではあるがおとなしくなった。
彼女が母をどれだけ恐ろしい存在だと認知しているかが知れようというものだ。
もっとも、アミィの母は一度寝たら起きないタイプの人間だが。
「で、どうしたの? まさか本当に幽霊が出たとか?」
「その通りだよ、窓の外!見てみておくれよ!」
小声で叫んだ、と称するのが相応しいような器用な主張だった。
アミィの体をどかすと、サラは腰をかがめて静かに窓へと近寄り始める。
「……」
壁に背中をつけ、そっと外の様子をうかがうサラ。
しかし、アミィの言う幽霊らしきものは見当たらない。
アミィは殴って解決できないものに対しては驚くほど臆病であることを考慮しても、
外には幽霊と見間違えるようなものは何一つなかった。いつものように月明かりに照らされる山林があるだけだ。
「アミィ、何もないよ?」
「嘘だって! いたんだよ、確かに! 体が薄く透けた、白い着物着た髪の長い不気味な女が立ってたんだって!」
「……体が、薄く透けた?」
サラは窓に視線を移した。アミィが放り出したものの
奇跡的に壊れなかったランタンが照らす廊下は、少なくとも夜闇よりは明るい。
その明暗の差が、サラの丸い瞳をはっきりとガラスに映り込ませている。その向こうの景色は、薄く透けて見えた。
「……白い着物の?髪の長い?女?」
次いでサラは腰を抜かしてへたり込むアミィの姿を見た。
今の格好は、彼女が寝間着に使っている肌触りのいい浴衣。合わせを逆にすれば死装束に使えそうな、白無垢の。
サラ自身が切ってやっている彼女の髪は、尻に触れるほど長い。
「アミィ」
「なんだい?」
「大丈夫、怖くないのは保証するからね。だから、窓見てみなよ」
「え……」
「大丈夫だから。それでもうだうだ言ってるなら、怒るからね」
重ねて、アミィは殴って解決できないものには弱い。サラはその代名詞だった。
サラが怒れば幽霊や母以上に恐ろしいことを十二分に理解しているアミィは、幽霊の恐怖を呑み込んでそれに従う。
もはや警戒の欠片も見せずに窓の正面に立つサラに並び、アミィはおそるおそる窓を覗き込んで、
「……あ」
幽霊の正体を知った。
アミィはうつ伏せにベッドに倒れ込んだ。その顔は、酒でも飲んだように紅潮している。
その脇にサラが腰かけ、ぽむぽむと姉の頭を叩いた。
「ガラスに映り込んだ自分の姿を、幽霊だって勘違いするとはね」
「笑えよ。派手に笑い転げるがいいさ」
「あまりに傑作過ぎて笑えないよ。もう少し加減してボケなきゃ」
「……うるさいね」
枕に顔をうずめて動かなくなったアミィを見てか、サラの手つきが柔らかなものに変わる。その笑顔も。
「だから暗いのは嫌なんだ……もう夜中に水飲むのやめるよ」
「最初からそうすればいいんだよ。そしたら、私の睡眠時間も減らずに済むんだから」
「そんなに寝たいなら、あたしのことなんてほっといて寝ればいいじゃないか」
「……アミィ、せっかくついて行ってあげてる人に言う台詞がそれ?」
「あ……いや、ごめん」
声のトーンが低くなったことを感じ、慌てて顔を上げるアミィだったが
悪い予想に反してサラは微笑んでいた。剣だこのできた硬い手で、それでも優しくアミィの長髪をとかしている。
「いいよ。前に言ってたよね、ついて来てくれるのはありがたいって」
「ん、ああ」
「なら別に構わないよ。嬉しく思ってくれて、感謝してくれてるならね」
「……優しいねえ、あんたは」
寄り添うように毛布に潜り込んだサラを一瞥し、あきれたようにアミィは言う。
が、サラはきょとんとしていた。もっとも、楽しそうな笑みをこらえきれていないから
まだ何か自分をからかうつもりでいるのだろう。アミィは少しだけ眉をしかめる。
「私が、優しい? 何で?」
「何でって。あたしが嬉しく思うだけでついて来てくれるだろ。
あたしが言うのも何だけどさ、サラって優しすぎないかい?」
「アミィが嬉しいことなら、私にとっても嬉しいことなんでしょ?」
アミィ自身がすっかり忘れていた、前の夜の何気ない一言を口にし、サラは笑った。
「なら、ついて行くのは当然じゃない」
返す言葉はなかった。赤面したままアミィはころりと仰向けになり、目をつむる。
「……もう寝るよ。おやすみ」
「ん、おやすみ」
隣でサラが一度体を起こし、ランタンの炎を消す気配がした。
目を開けると部屋はすでに何も見えなくなっていた。ただ、すぐそこで横になっているサラの寝息は聞こえる。
アミィはサラの手を握った。毛布の中はまだ冷たかったが、もうじき暖かくなるだろう。