彼氏のできない彼女
「ただいまー」
言いながらアミィは自宅のドアを開けた。
ボロだが二階建ての山小屋だ。養母であり師匠である武術家が人間嫌いのため
おのずとアミィも人里離れた山奥に住むことになっているが、あまり不便に思ったことはない。
物心つく前からこんな生活だったし、別に街が遠いわけでもないからだ。
「おかえり」
「おかえりー。早いね」
靴の泥を落としてリビングに顔を出すと、母と妹弟子が三時のおやつを食べている。
テーブルの上にあるケーキを一瞥していそいそと席につくアミィ。
「サラ、あたしの食器出してよ」
「はいはい」
妹弟子――サラが苦笑しながら食器棚を開けた。
整然と並ぶ木製の食器から手際良く自分達の使っていたのと同じ皿とフォークを取り出し、アミィの前に置く。
アミィはと言えば、すでに果物ナイフに手を伸ばして
四分の一ほどが欠けた苺のショートケーキをざくざくと取り分けていた。
右手のナイフでケーキを切った後、わざわざナイフを置いて右手で皿を寄せ、もう一度ナイフを右手に取ってケーキを持ち上げる。
「自分で用意しろ、食器くらい」
「いいじゃんか、サラが嫌だって言わないんだから」
母――綾子の指摘もどこ吹く風と、アミィは木目のある皿にケーキを乗せた。
全ての作業を右手で行ったのは、アミィが左腕を持っていないからだ。
とある事故で失われた彼女の左腕は、現在では義手になっている。肘はあるのだが、手首やその先はない。
ギプスのように包帯でぐるぐる巻きにされているのは、その物騒な外観を他人の目から隠すためであった。
それが返って悪目立ちするということに、彼女は気付いていなかったりする。
「そんなこと言ってると、いずれサラに愛想をつかされるぞ」
「ないない、絶対ない。ねえ、サラ?」
「んー、さっきみたく言われたら、嫌いになっちゃうかもなあ」
意地悪く笑いながらも、サラはかいがいしくアミィの分の紅茶をカップに注いでいる。
「ちょっと待ちなって、サラがいなくなったらあたしゃ誰に面倒見てもらえばいいのさ。
お袋と二人暮らしなんて嫌だよ」
「こっちから願い下げだ。逆ならまだしも、一生娘の面倒を見る母がどこにいる。
まったく、左腕の一本や二本ないくらいで」
「ほら、こんな薄情なお袋なんだから。サラがいないと」
「冗談だよ、そんな必死にならなくても。はい、お茶」
「おお」
アミィにカップを差し出し、自分のものにも中身を注ぎ足していたサラは
片手で砂糖とミルクのビンを手繰り寄せながら言った。
「別に私じゃなくても、彼氏さんと結婚して面倒見てもらえばいいじゃない。
今日、彼氏さんと遊んで来るんじゃなかったの?」
「あー、振っちゃった」
「は?」
二人の沈黙を意図せずに無視し、アミィはぱくりとケーキを頬張った。
しばらくして我に返ったサラが慌てて問い質す。アミィにまた彼氏ができたと聞いたのは、ほんの数週間前なのだ。
「え、だって、この間付き合い始めたばっかだって」
「そうだけど。それとこれとは関係ないだろ?どうも気に入らなくてねえ」
「何?嫌な人だったの?」
「ああ、いけ好かない奴だった。料理が得意って言うから、食べてみたんだけどさ。言うほどのものでもなくて」
「……それで、振ったの?」
頷くアミィ。サラはしばし絶句した後、呆れたように額に手を当てた。
「あみー……そのくらい我慢しないと」
「なんでさ。それより時間できたから、今から街まで遊びに行かないかい?」
アミィは笑顔でそう提案する。船をこいでいたサラがうつろな目を師である綾子に向けると
綾子もまた疲れたような表情で面倒くさそうに手を振っていた。「行ってこい」というジェスチャーだろう。
「……わかったよ。それじゃ、いこっか」
サラがぬるんだ紅茶を一息に飲んだ。アミィが嬉しそうに頷き、皿のケーキを強引に口に押し込む。
「まあ、アミィの気晴らしだしね……」
チキンナゲットが食べたいという辛党サラの主張と
ソフトクリームが食べたいという甘党アミィの主張が真っ向からぶつかり合った結果、
サラが譲歩する形でソフトクリームを食べることとなった。
二人は人の少なくなったオープンカフェの一角に陣取り、冷たいクリームを舐めつつ往来を眺めている。
アミィは黒いレオタードの上から赤い着物を羽織って
腰を太いベルトで締めていたが、下半身には何も着ていない。ミニスカートのような着物である。
肉感的な大腿部を惜しげもなく外気にさらし、着物の左袖も肩から切り落とし、義手を隠すための白い包帯も完全に露出させていた。
ちなみにサラは灰色の布ズボンに黒いシャツ、上着に青い革ジャンパーと
素肌を見せない普通の格好をしている。派手な身なりを好むアミィとは対照的に、サラは服装の趣味が地味だった。
中ほどまでクリームを減らし、どのタイミングでコーンをかじるかを考えていたサラに
「……あのさ」
何の前触れもなくかけられたアミィの声。やや驚きつつもサラが顔を上げる。アミィはサラのほうを見ていなかった。
「何?」
「さっき家でさ、『そのくらい我慢しなきゃ』って言っただろ?」
「うん、言ったよ」
「彼氏が自分の理想通りでなかったら、我慢しなきゃ駄目かい?」
アミィは至極真面目な口調でそう言った。内心ではずっこけながらも、サラは頷いた。
「そりゃそうだよ、自分の理想にぴったりはまる男の人なんて、そうはいないんだから。
アミィ、理想高いんじゃない?」
「そうかねえ……?」
「じゃあ、どんな人がいいの?」
サラが逆に問い返すと、アミィはようやく向き直って考え始めた。
包帯で真っ白になった左腕を頬に当て、どこか楽しそうに条件を並べていく。
「あたしより強い人のほうがいいけど……まあ、そこはどうでもいいよ。あたしは強いからな」
「まあ、アミィより強いとなると、精霊使いか何かだろうね。で、他には?」
「そうだねえ……料理は上手でないと嫌だ。あたし、料理できないもん」
「なるほど」
「身長は別に低くても構わないし、顔だってよっぽど悪くなきゃ目をつむるよ。でもデブは嫌だ」
「性格とかは?」
「優しいのが第一。あたしがワガママ言っても笑って聞いてくれるような人がいい。
でもそれだけじゃなく、ちゃんと叱るときは叱ってくれなきゃ駄目だね。
手の中で遊ばせてくれるような人って言うかさ。そんな感じ」
「じゃあ、総合しようか。アミィより強くて、料理が上手で、顔が平均以上で、太ってなくて、
優しさの中に厳しさを持った、包容力のある男の人がいいんだね?」
「そうなるね」
「そっか。アミィ、一生彼氏できないと思ってたほうがいいよ」
「え、なんで!?」
真正面から切って捨てられ、あたふたと両腕をばたつかせるアミィ。サラがため息をつく。
「理想高すぎ。まさかここまでとは思わなかったよ……
そんな男、いるはずないでしょ」
「えー……いないのかい?」
「絶対にいない。賭けてもいいよ。アミィ、少しは妥協を覚えなきゃ」
「何だと。お袋が言ってるだろ、妥協はいかんと」
「それとこれとは話が別だよ」
サラが諭すように頷くが、アミィは不服そうに腕を組み、唇を尖らすだけだった。
「そうかねえ……いる気がするんだけど」
「何でそう思うの」
「……それを言われると痛い」
「妄想だよ、妄想。現実見なって。ほら、早く食べて遊びに行こう。
カジノで賭けレスリングやるはずだから」
「お、それは見に行かないとな」
魅力的な提案に話の前後を忘れ、かぶりつくようにクリームを口に入れ始めたアミィ。
そんな姉弟子の年上らしくない様子を見ていたサラが
半ばまで食べ終えたコーンを一気に口に放り込んでからつぶやいた。
「寂しくないの?」
「へ?」
「彼氏、何で振ったんだっけ」
「料理が下手だったから」
「その前の彼氏は?」
「仕事の都合であんまり会えなかったから」
「その前は」
「何の劇を観るかで喧嘩になったから」
「……そんなに彼氏作っては振ってを繰り返して、寂しくないかって」
「ないねえ。何でだろ?」
「聞かないでよ」
どかあっ!
相手の腰に抱き付き、持ち上げて、自ら前方に倒れ込むようにしてダウンを奪う。
赤い衣装のレスラーが青い衣装のレスラーの両肩を床に押し付けた、すかさずカウントを取り始める審判。
「1、2、3っ!」
青いレスラーの抵抗空しく3カウントが取られ、赤いレスラーの勝利が決定した。歓声と罵声が同じだけ響く。
「あー……負けやがった」
アミィが舌打ちする。
サラやアミィのような十代後半の少女が立ち入るような場所ではない地下カジノだが
どちらかといえば田舎のこの街は娯楽が少ないから仕方がない。店内を見ると、同じくらいの年頃の子供達もちらほら見えた。
華やかな中に緊張感を秘めた独特の雰囲気の中、アミィは人込みをすり抜けてスロットマシンのコーナーに向かう。
「サラー、コインちょうだい」
「はいはい」
端から二番目の台に陣取っていたサラが、アミィのほうを見もせずにカップを渡す。コインが満載されていた。
サラの足元にはコインの山と盛られたカップが何個か置いてあった。サラの台はなかなか出ているようだ。
「さんきゅ。さすがだねえ」
「まーね。そっちはどう?」
「全然ダメ。まあ、サラがこうだからとんとんかも知れないけどさ」
アミィが笑う。サラも笑い返しながら、向かって左から順にボタンを押していった。さくらんぼの絵柄が横一直線に並ぶ。
「この店、儲ける気がないんじゃないかい?」
「そんなことないよ、攻略には苦労したんだから……よ、は、と」
台に数枚のコインを食わせてレバーを引き、リールを回すサラ。
ぽち、ぽち、ぽちと丸い突起を押していけば、今度はベルの絵柄が斜めに揃った。
「あとは自分で頑張りなよ。あと十回やったら今日はやめるからね」
「ブラックリストに載ったら稼げなくなるもんねえ。了解」
アミィは人差し指と中指で軽く敬礼し、再び賭けレスリングに向かった。
周囲の床より高くなったステージに正方形の線を引いた試合場では、ひいきのレスラーがウォーミングアップを行っている。
コインカップを抱える腕に力が入った。無意識に小走りになっていたアミィの肩を、唐突な衝撃が襲う。
どんっ。
「おわっ……とっ、ととと、とっ」
手からこぼれ落ちそうになったコインを、うなぎでも捕まえるように宙でキャッチするアミィ。
義手と手の間に挟まれて落ち付いたカップを見て息をつき、振り向く。人がぶつかったに違いなかった。
「悪いね、大丈夫かい?」
言おうとして、言うより早く胸倉を掴まれた。
思わずぱちくりさせたアミィの目には黒髪を短く刈り込んだ男が映っている。
「悪いね、で済む人に見えるか?嬢ちゃん」
「見えないねえ」
アミィは皮肉っぽい微笑を浮かべながら、それとなく男を観察し始めた。
大柄でがっしりした男の顔にはあちらこちらに傷があり、豪勢な造りの革の鎧を着込んでいる。
武器はベルトに取り付けられた剣が一振り。さして長いものでも、精霊の加護を受けたものでもなさそうだ。
「ふざけてんのか?」
凄みを効かせてきた男の不細工面を間近に見せつけられ、アミィの笑みがいよいよ濃くなった。
「そっちこそ、喧嘩を売る相手を間違えたね!」
アミィがぱちんと右腕で男の手を払いのけたかと思えば、
――がしいいいっ!!
痛烈な左の前蹴りが男の顎に炸裂した。
バレリーナもかくやという柔軟性を発揮して振り上げられたアミィの足が
頭一つ大きな男の体を軽々と持ち上げ、脳天から天井に叩き付ける。説明するまでもなく、常人離れした力だ。
「……いくらなんでも予想外だねえ、一発でくたばるとは思わなかったよ」
べしゃっ、と力なく倒れた男を蹴飛ばしてカジノの隅に追いやる頃には、
アミィをカジノのガードマン達が取り囲んでいた。今さっき倒した男と格好が似ている。同業者なのだろう。
田舎のカジノに雇われている者達である。ガードマンとは言っても、ヤクザ屋とたいして差のない連中だった。
「てめえ、何やってんだ!」
「別に? このあたしの悩殺ボディに失神しちゃったみたいだねえ、そこの兄ちゃん」
思い切りふざけきった口調で男を指し示し、腕を頭の後ろで組んで悩ましく腰を振るアミィ。
まだまだ子供の顔立ちとは裏腹に発達しきった今が旬の肢体、ストライクゾーンど真ん中の人間も多いだろうが
たとえ男達がそういう趣味であったとしても、状況を打破する決め手にするにはまだ甘い。
そして打破してしまっても困るのだ。彼女にとって、喧嘩は屈指のストレス解消法である。
アミィの自分達を見下した物言いに怒り狂い、四方から飛びかかる男達。アミィの目が楽しそうに輝いた。
「恨むんじゃないよ!」
ひゅ――ごぎゃんっ!!
その刹那、アミィの左右にいた男がきりもみしながら後方に飛び、それぞれスロットマシーンとルーレット台を滅茶苦茶にした。
両腕――正確には右腕一本――を前について逆立ちすると同時に恥ずかしげもなく開脚、
ブレイクダンスのウインドミルにも似た動きで顔面を蹴り抜いたのである。
「二人!」
次いで背中を丸めてころりと回転、でんぐり返しで正面の男に近寄るとハンドスプリング、
揃えた足を思い切り跳ね上げて下からみぞおちを貫く。
「三人っ!はい、お次ー!」
胃の内容物を吐き出す男を尻目に、アミィは釣り竿のようにしなる蹴りで次々と男達をノックアウトしていった。
「六っ、七っ、八っ、九、十、十一、十二っ!」
数秒もしないうちに、アミィを取り囲んだ男達の人数はわずか数人になってしまっていた。
右の拳を開いたり閉じたりしながら不敵に笑うアミィの実力を目の当たりにし、積極的な攻撃に踏み切れずにいる。
「……どうしたよ、来ないんなら」
アミィは深く腰を落とした。男達とは少なからず距離があったが、彼女の運動神経を持ってすれば一息で詰められる間合いだ。
「こっちから――ほぐっ!?」
びったああああんっ!!
走り出そうとしたアミィは、何故だか顔面に物凄い衝撃を感じた。目の前が暗転し、意識が遠のいていく。
「……あー、はい、どうも、お騒がせしました」
アミィが走ろうと体を傾ける――すなわち、バランスが一時的に崩れる一瞬を狙って足を払い
彼女を見事に転ばせてみせたサラは、周囲の男達や見物客にぺこぺこと頭を下げ、
皆が我にかえる前にアミィを抱えると、一目散にその場を去ってしまった。
カジノには、あっけに取られたガードマンと客達が残される。
十数分後。街の数少ない公園に、サラとアミィの姿はあった。
「だから!ケンカ売ってきたのは向こうなんだよ!あたしは何もしてないったら!
なのになんで――」
「言い訳しない!」
サラはアミィの鼻先に指を突きつけて続ける。
「あんな騒ぎになったらどうなるか、予想つかないの?
カジノには少なからず悪い人達の思惑が絡んでるんだから、
そこのガードマンに恨まれるような真似したらまずいでしょ」
「だったらどうすれば良かったのさ!?」
「誰かに助けを求めるとか、一目散に逃げちゃうとか。いろいろ方法はあったでしょ」
「そ、そんなの、情けないじゃ――」
「うっかり裏社会に目をつけられて、コンクリートで固められて海に沈められたりしたら
それこそ情けないじゃない。目の前の利害に固執しない、常に大局を見据えろ。お師さんが言ってるよね?」
「め、目の前に戦いがあるんだよ!?それから逃げるのはぁ――」
「どうしても戦いたいならそれでもいいよ、それにしたって場所を変えたりはできるでしょう。
カジノのど真ん中で戦ったりしたら、他の一般人にも見られるんだよ。面子が立たないでしょ、ヤクザ屋さんも」
「っ……うぅ〜〜〜っ」
実際にはアミィのほうが一つ年上なのだが、他者の目にはどうやってもサラが姉に映るだろう。
子供を諭すような言い方をされ、アミィは真っ赤になってむくれ、何かを言おうとして何も思い付かず、結局、
「……ごめんなさい。もうしません」
そう言ってうなだれた。唇を尖らせるアミィの頭をげんこつで優しく小突き、サラは笑って言う。
「はい、よろしい。荷物持ちくらいで許してあげるよ、夕飯の買い物でもして帰ろうか」
「わかった。……メニューはなんだい?」
「決めてないよ、何がいい?」
「シチュー希望」
即答するアミィ。サラは頷き、ふと思い出したように言った。
「ちょっと待ってて、トイレ行ってくる」
「ん? おお」
公園すみの小さな建物に歩いていくサラの背中を見送っているアミィの肩に
ごつごつと荒れた男の手がかけられた。
アミィは振り向き、軽く顔をしかめる。背後には顔のあちこちに湿布を貼った、先ほどのガードマンがいた。
「――わざわざリターンマッチを挑んでくるとはねえ。わざわざこんな場所まで用意してさ」
アミィは臆した様子もなく言った。
彼女が連れてこられたのは街の路地裏だ。
広さは武術の試合場に使うにはやや狭い程度。四方を背の高い建物に囲まれており、
出るには入口を逆行するしかない。そこはガードマンに塞がれていた。
「さっきのことでこりなかったのかい? 私に勝てる奴なんか一人だっていなかったじゃないか」
「ああ、あそこにはな」
アミィに派手にやられたガードマンが不敵につぶやく。
すると、図ったようにアミィの前に一人の男が進み出た。ひょろひょろと背の高い、青白い肌をした不健康な男だ。
「ふーん? こいつがあんたらのリベンジをするってわけだね」
「威勢のいい娘だな。あまり調子に乗ってると、後悔することになるぞ?」
「その台詞はヒロインに負ける奴が吐くって相場が決まってるのさ。言い直すなら待ってあげるよ」
アミィが腰を落とし、かかとで地面をリズミカルに踏み鳴らし始めた。
痩せた男も構えを取る。武器らしい武器は持っていなかったが、彼の構えはやけに素人くさい。
武術の心得があるわけではなさそうだ。単なる素人のケンカ自慢――アミィは男の実力をそう読んだ。
「アマリネ・フジバヤシ。覚えときな、あんたの思い上がりを粉々にする美少女の名前さ」
「俺の名はバーゼルだ。台詞はそっくりそのまま返そうか」
「上等ッ!」
アミィの靴底が砂煙を上げた。
「ごめん、意外と込んでて――って、あれ?」
アミィはそこにはいなかった。サラはきょろきょろと辺りを見渡し、近くにいた屋台の店主に声をかけた。
「あの、この辺にいた女の子を知りませんか? 背は私と同じくらいで
丈がミニスカート並に短い赤い着物を着た、長髪の子なんですけど」
アミィの派手な格好は聞き込みには便利だ。店主はすぐに頷き、公園の外を指差す。
「ああ、その子なら何か、ガラの悪い男に連れて行かれたよ。
少し笑ってたようにも見えたから放っておいたんだけど……騎士団にでも通報しようか?」
「……いえ、大丈夫です、知り合いですから。ありがとうございます」
サラは人あたりのいい笑みを浮かべ、駆け足で屋台を後にした。
もとから湿っていた陽の当たらない土をさらに濡らしたのは、痛みからあふれるアミィの涙だった。
よろよろと起き上がる彼女の前には、痩せた男――バーゼルの涼しい顔がある。
あちこちにすり傷やあざがあったものの、アミィの惨状に比べればかすり傷にも等しい軽い怪我だ。
ガードマン達は面白そうに二人の勝負――否、半ば一方的な暴力行為に口笛を吹いている。
「くそっ……」
力の抜け始めた足を叱咤し、アミィは何度目かもわからない攻撃を開始した。
軽く飛び上がり、上半身を攻めていくと見せかけて屈み込むと
弁慶の泣き所とも称される人体急所――向こう脛に全力で靴裏を叩き付ける。
がしいっ!
この個所を通っている神経のすぐ下には骨があり、ここを蹴られれば大の大人も涙を流して痛がらずにはいられない。
そう、痛がらずにはいられないはずなのだ。しかしバーゼルは少しも表情を変えなかった。
「――ちっ!」
蹴りを放った右足が脳に伝える、半端でない衝撃。
巨木や石を蹴ったという騒ぎではない。鉄柱にぶつけたような痺れが右足を走っている。
舌打ちまじりにアミィは左腕を振りかぶると、水平に薙いでバーゼルの胸元へと無造作に叩き付けた。
アミィの義手は鋼鉄製だ、まともに受ければ骨折は免れない一撃だったが――
ぎぃぃぃんっ!!
包帯を巻きつけた左腕は金属音とともに弾き返された。
信じられないことだった。アミィの腕とバーゼルの胸との間に、分厚い金属の板が挟まっている。
「さっきの威勢はどうした、アマリネとやら」
頬に手加減のない拳を叩き込まれ、アミィはふらふらと尻餅をつく。
涙にかすむ視界の中心で、浮遊していた金属の板は溶けるように消えてなくなった。
この世界には、精霊使いと言う人種が存在する。
平たく言えば魔法使いだ。万物に宿るとされる意志『精霊』を使役し
おおよそ常人には不可能な奇跡を起こしてみせる。
持って生まれてこなかった者はどんなに努力をしても得ることができないこの先天的な才能を
たいていの精霊使いは世のため人のために活かすのだが、時にバーゼルのような、悪行に力を使う精霊使いも少なからず存在する。
それも当然と言えば当然である。
『精霊使いを殺す手段が一つだけある。それは精霊使いに殺させることだ』という言葉があるほど、精霊使いは強い。
その力を利用しようとする悪人は多く、その力を売り物にする精霊使いも多いのだ。
アミィとて並の格闘家ではない。多少のハンデなら跳ね返せるだろう。しかし今回ばかりは相手が悪かった。
「精霊魔法『アイアン・スキン』。俺は俺の魔法にこう名付けた」
バーゼルは顔の前に手をかざして言った。その手は黒光りする金属に覆われている。
「俺は俺の意志で、体を鋼鉄で覆うことができる。つまり、どれほど力持ちの人間であろうと
単純な打撃で俺の体を傷つけることはできない」
「アイアン・スキン――鋼鉄の肌ってか。……あんた、ネーミングセンスないねえ」
アミィは皮肉っぽくつぶやいたが、それが強がりであることは誰の目にも明らかだった。彼の言葉が事実なら
彼は全身に分厚い鎧を着込んで戦っているも同然であり、
殴るか蹴るか投げるかしか攻撃の手段がないアミィには最悪の相手となる。分が悪すぎた。
「口の減らない娘だな。自分がどんな状況に置かれているかわかってないと見える」
「わかってるともさ。こっから逆転したらカッコいいよねえ、あたし」
おぼつかない足取りで再び立とうとするアミィだったが、先ほどのパンチが尾を引いているらしく
平衡感覚を乱され、まともにバランスを取ることができないでいた。地面が船のように揺れている。
バーゼルが何もせずとも足を絡ませ、酔っ払いのように倒れるアミィ。
そんな彼女を、優しく抱き止める者がいた。
「……何?」
バーゼルが片方の眉を跳ね上げる。
アミィの腰に後ろから手を回すようにして、サラがその体を支えていた。
末恐ろしいまでの無表情で、じっとバーゼルを見つめている。
バーゼルがちらりと出入り口を見れば、見張りのガードマンは二人とも倒されていた。
「何だ、お前は」
「サラ・マローコモンと言います。アミィの――アマリネ・フジバヤシの妹弟子です」
苦しげに自分の名前をつぶやく姉弟子を足元に座らせ、サラは淡々と自己紹介した。
「そうか。この娘を助けに来たと、そういうわけだな?」
「そうなりますね。連れて帰ってもいいですか?けっこうひどい怪我みたいなので」
「そんな勝手が通ると思うか?」
バーゼルは鼻で笑う。周囲のガードマンが、倒された二人を気にかけつつもはやし立てた。
サラは不機嫌そうな無表情を崩さず、落ち付いた口調で聞いた。
「では、どうすれば良いですか?」
「力ずくでどうにかすればいいだろう? 俺達に体を売るって言うなら、話は別だがな」
「そうですか」
つかつかと歩み寄り、サラはゆるりと右手を突き出す。
とくに拳を放ったというわけではないようだったが、バーゼルは反射的に胸を守る金属の鎧を呼んでいた。
彼の精霊魔法――アイアン・スキンが薄い胸板を覆い、サラの手の平に硬く冷たい感触を伝える。
サラが右手でバーゼルの胸を押すような姿勢になっていた。
「……精霊魔法ですか」
「そうだ。俺のアイアン・スキンがある限り、素手では俺を倒すことなどできない」
ずっと冷静な姿勢を崩さない少女の絶望する姿を想像してか、勝ち誇ったような笑みを浮かべたバーゼルだったが
その予想に反して、サラは少しも取り乱さなかった。右手をバーゼルの左胸に押し当てたまま言う。
「お名前を聞いても良いですか?」
「バーゼルだが」
「では、バーゼルさん。一つ忠告しておきます」
ずどんっ。
次の瞬間、バーゼルの口が大量の血液を吐き出した。
それを浴びることを嫌ってかサラが少しだけ右に立ち位置を変え、バーゼルはうつ伏せに倒れ込む。
彼の左胸にはわずかな光を取り込み、複雑に屈折させて輝く美しい槍が突き刺さっていた。バーゼル自慢のアイアン・スキンを貫いてだ。
「世の中には金属より硬いものがたくさんあるんです」
カットされたダイアモンドのように光を乱反射する刃を右手の掌から呼び出し、一人の男の生きる権利を剥奪してみせた少女は
頬にわずかに散ったバーゼルの血液を拭い取り、呆然としているアミィに手を差し出した。
「立てる?」
「あ……ああ。大丈夫」
サラの肩を借りてどうにか立ち上がるアミィ。無表情はようやく氷解し、サラが柔らかな笑顔を見せた。
そのまま無言で立ち去ろうとする二人を、慌てて残りのガードマンが取り囲む。
「ま、待て! てめえ、バーゼルさんに何したんだ!?」
「殺しました」
涼しい顔でサラはバーゼルだった死体を指差す。
その胸に突き刺さっていたはずの刃はきれいさっぱり消え去り、傷口からは血が飽きることなく溢れ出しているだけだ。
「お仕事ご苦労様です。でも、ここは譲って頂けませんか?」
サラは抑揚のない声で続けた。隣のアミィが肌を粟立てるほどの冷たい声だった。
「そして、二度と私達の前に現れないでください」
「調子に乗ってんじゃねえぞ!言わせておけばいい気に――」
「次は殺すぞ」
別人のようにトーンを落としたサラの言葉に、男達はそろってすくみ上がった。
サラが精霊使いであるのは疑いようがないだろう。この少女は何らかの精霊魔法――
少なくともバーゼルの呼び出す鋼鉄をやすやすと貫けるだけの何かを使役できるのだ。
自分達より強い精霊使いを圧倒し、なお人殺しに何のためらいも見せないサラに
どうしてこれ以上逆らうことができようか。
中指を真っ直ぐ天に向けた彼女の進む道を阻んだものは、そこにはいなかった。
夕暮れ。
町外れの獣道に、二人の少女の影が長く伸びる。
母であり師である家族の待つ家に向かって、傷だらけのアミィと無傷のサラが歩いていく。
会話はない。夕食の買い物袋は、全てサラが持っていた。
「……サラ」
アミィがおずおずと声をかけたが、サラは無言で歩き続けた。視線すら合わそうとしない。
「怒ってるかい?」
「うん」
感情を押し殺して普通に響く声。こういう声で話すサラは相当怒っていることを
十年来の親友であるアミィは良く知っていた。
「……ごめん。あれだけ言われたのに、さっそくケンカになって。しかも負けちゃって。
サラに人殺しさせちゃった……し。その……」
「別に気にしてないよ」
「そ、そうかい?」
サラの声は本当に何も気にしていないように聞こえる。
確かにアミィもサラが人殺しをしたことをうじうじ悩んでいるとは思っていなかった。
決して治安がいいとはいえない辺境に住む二人なのだ、自衛のための殺人は今回が始めてではないし、
見られてさえいなければ、精霊使いの力は法では裁けない。
あのガードマン達が騎士団に泣き付いたりでもしなければ、その辺りは大丈夫だろう。
問題はサラの言に反した愚行をどうやって許してもらうかだ。アミィはうつむいて続けた。
「……あのさ、晩ご飯抜き……三日くらいご飯抜きでいいから。
掃除も洗濯もあたしがやるから。その、そのさ、好きなだけ殴ってくれても我慢するから……」
「そんな趣味ないよ。何が言いたいの」
「え、えっとさ……何でもするから。我慢するから。……許して。嫌いになんないで」
「わかった」
「やっぱり……じゃ、じゃあさ、こうしよ――って、ええ!?」
あっさりと謝罪が受け入れられたことに拍子抜けし、アミィは思わず大声を上げる。
「どうかした?」
「え、あ、いや、許してくれるのかい?」
「うん」
「罰ゲームとか、ペナルティとか、廊下にバケツ持って立つとか、そういうのは?」
「お望みならやるけど」
「の、望んでない! ……本当にいいの?」
「反省してるならそれ以上は叱らないよ」
サラはこともなげに言う。夕日を浴びて赤く染まっていたのは、
できのいい妹の、最大の好敵手の、十年来の親友のいつもの笑顔だった。
いくら彼氏を振ってもまったく寂しくない理由がわかった気がした。不思議とこみ上げてくる涙を、流れ落ちる前に拭う。
「さ、帰ろ? 早く手当てしないと、傷痕が残っちゃうかもよ。自慢のお肌が台無しだよ?」
「そ、それは困る」
いつの間にか開いた差を駆け足で埋めるアミィに苦笑いし、サラは姉の肩口のすり傷を一瞥して言った。
「少しは露出の少ない服にしたら?そしたら、こんなひどい怪我しなくても済んだのに」
「嫌だ。男なんて色気で引っかけるのが一番早いんだ」
「……昼間も言ったでしょ? アミィに彼氏ができないのは、アミィの理想が高すぎるせいだよ」
「それは絶対にない」
アミィはきっぱりと言い放った。
「実際、私は見つけたんだぞ。あたしの理想――あたしより強くて、料理が上手で、顔が平均以上で、デブでなくて、
普段は優しいんだけど叱るべき時は叱ってくれる、そういう人をね」
「いつ見つけたの。そんな人がいるなら、その人にアタックかければいいじゃない」
「そいつは無理だ。彼氏にするにゃどうしても許せない点が一つあるんだよ」
「だから理想が高いって言うんだよ……で?その人の何が気に入らないの?」
サラの問いに答え、アミィは至極残念そうに笑う。
「……悔しいことにね、女なんだよ。そいつ」
アミィの眼前に、丸い目をぱちくりさせるサラがいた。