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曲がり角まで

作者: つちふる

 


 トモエは指がないのでチョキがだせない。

 それでもジャンケンに強いのは、グーとパーの見分けがつかないからだ。

 相手がチョキならトモエは 「これはグーだよ」 と言い、相手がグーならパーと言う。

 相手がパーならトモエもパーと言い張って延々とあいこを繰り返し、相手が根負けするまで終わらせない。

 いつでもトモエが勝つことになるのは、そういうわけだ。

 ミズキは今日もジャンケンに負け、トモエのカバンを持ちをさせられている。ふらふらとおぼつかない足取りになってしまうのは、右手に持っている自分のカバンと左手に持っているトモエのカバンの重さが釣り合っていないから。彼女のカバンは異様に重い。

「ねえ、どこまで持てばいいの?」

「曲がり角まで」

 トモエはいたずらっぽく笑って答える。要するに最後まで持って行けということだ。なんて意地悪なのだろう。ミズキはトモエを睨みつけてやったけれど、彼女はもう前を向いて歩き出していたので意味がなかった。

 ため息をつき、カバンを持ち直す。

 歩く速度があまりに遅いので、後ろから来た生徒たちが二人を跳び越えたり股下をくぐり抜けたりして追い抜いていく。

「ねえ。このカバン何が入ってるの? すごく重いんだけど」

「教科書とノートと筆記用具。あとは五㎏の鉄アレイが七本ほど」

「何でそんなもの入れてるのよ」

「足腰を鍛えるために決まってるでしょ」

 確かにこれだけ重いカバンを持って登下校すれば足腰も鍛えられるだろう。そのわりにトモエの身体は華奢なままなのが不思議でしょうがない。発達した自分のふくらはぎを見ながらミズキは首をかしげた。

 しばらく歩くと桂木さん宅の北玄関が見えてくる。ここから先は住宅街になるので靴を脱いだり履いたりと忙しい。指のないトモエは両手をうまく使ってドアノブをまわす。

「お邪魔しまーす」

「お邪魔します」

 二人は靴を脱いで廊下を歩いていく。途中で上り階段が道をふさいでいるけれど問題はない。三段目と四段目が大きく開いているので、そこをくぐり抜けていくのだ。下り階段の場合は跳び越えればいい。

 ひたすら廊下を歩いていくと、ようやく南玄関が見えてくる。二人は靴を履き直して外へと出た。が、すぐにまた玄関を開けることになる。今度は本間さんのお宅だ。これを、あと三十七回ほど繰り返さなければならない。

「いちいち靴を脱いだり履いたりするのって面倒だよね。時々、もっと南側に生まれれば良かったなって思うよ」

 何度目かの玄関を開けながら、トモエはうんざりしたようにため息をつく。

「あの人たち履きっぱなしだもんね、靴。でも、だったら北側に生まれても良かったんじゃない? あの人たちはいつも裸足らしいし、きっと楽だよ」

 しばらく歩けば、また階段。家の造りはどこも同じだ。

「あら、こんにちは」

 その階段から一人の女性が下りてきた。本間さんの奥さんだ。

「こんにちは。通らしてもらってます」

「ええ、どうぞ。そっちから来たってことは帰り道かしら」

「はい」

「ずいぶん遅いわね。部活だったの?」

「いえ。ミズキの歩くのが遅いだけです」

「だって、カバンが重たいんだもん。そろそろ自分で持ってよ」

 ミズキの非難がましい視線と文句をトモエはさらりと受け流す。

「おばさん、階段くぐらせてください」

「あら、邪魔してたわね。ごめんなさい」

 本間さんの奥さんはあわてて階段を上がっていく。二人は階段の三段目と四段目の間をくぐり抜けて廊下を歩き、南玄関に辿り着いた。

 住宅街を抜けると、今度はひたすら平坦な道がつづく。

 前方から歩いてくる人々とすれ違うため、ミズキとトモエは背中を丸めて両手を地面につける。緊急時以外は、北へ向かう人を優先するのが決まりだ。

 会社員らしいグループは次々と二人を跳び越え、運動神経のない者は彼女たちの股下をくぐっていく。

「もうすぐ夏休だね」

 丸めた背中に軽い衝撃を受けながらトモエが言う。明日明後日と学校へ行けば、いよいよ夏休みだ。一年で最も長い連休は過ごし方も人それぞれ。家族と旅行にいったり、友人と遊んだり、ひたすらゲームにあけくれたり、部活に精を出したり、進学のため夏期講習に通ったり、一夏限定の恋を楽しんだり、ひたすらボンヤリしたり。

「ミズキは何か予定あるの?」

「今のところ決まってないかな。親は休みがとれるか微妙だって言ってたし、部活もないみたいだし」

「夏期講習は?」

「うーん。行った方が良いんだろうけど」

「行かない」

「うん。今のところ授業についていけているから、いいかな」

 志望している学校も今の成績で十分入れるレベルなので、わざわざ夏休みを潰してまで学力を向上させることもないという判断だ。

「トモエちゃんは行くの?」

「行かないよ。だって私、予定があるもの」

「あ、そうなんだ」

 すれ違いが終わり、二人は身体を起こす。ミズキはカバンを持ち直して歩きだそうとしたが、トモエが動こうとしないので前へ進めない。 

「トモエちゃん?」

「私、予定があるの」

 ミズキを振り返り、トモエは同じ台詞を繰り返した。ようするに内容を聞けということだろう。

「どこか行くの?」

 察したミズキは律儀に聞いてやる。

「そう。行くの」

 頷くトモエ。しかし、まだ歩き出そうとしない。次はどこへ行くのか質問をしろということらしい。うんざりするような勿体ぶりかただけど、それでも我慢強いミズキはきちんと聞いてやる。

「どこへ行くの?」

「知りたい?」

「うん」

「じゃあ、教えてあげる。私ね」

 トモエは身体ごとミズキに向き直り、得意げな顔で答えた。

「曲がり角を見に行くんだ」

「えっ!」

 何を聞かされてもそれなりに驚いてあげようと思っていたミズキだが、これには本気で驚いてしまった。

「ほんとに!?」

「ほ・ん・と」

「えっ、えっ、一人で?」

「そんなわけないでしょ。家族で行くのよ。夏休み全部つかってね。もしかしたらちょっとオーバーするかも」

「どっちに行くの? 北? 南?」

「南のほう。北より近いから」

「いいなあ。曲がり角かあ」

 ミズキはトモエが期待したとおりにうらやましがってしまう。

「一度でいいから私も見てみたいよ」

「親に頼んでみたら?」

「むりむり」

 家族サービスより仕事優先の父と、最長の遠出が近所のスーパーという出不精の母ではとても希望はもてない。

 トモエがいないとなると、今年の夏休みはずいぶんと退屈になりそうだ。

 しばらくして、ようやくミズキの家が見えてくる。

「ご苦労様。ここからは自分で持つわ」

「ああ、重かった」

 ミズキはトモエにカバンを返す。伸ばされた手には指がないので手首に引っかけてやった。

「休みに入ったらすぐ行くの?」

「うん」

「じゃあ、今年の夏休みは一緒に遊べないね」

「そうね。…あれ、さみしい?」

「ちょっとつまんない」

 素直に答えられて、からかうつもりだったトモエは苦笑した。

「ミサキとかリエコとかいるじゃない」

「そうだけどさー」

「わかったわかった。なるべくメールするから」

「電話も」

「はいはい。なんか恋人同士みたいな会話ね」

「浮気したら駄目だよ」

「ばーか」

 トモエは笑いながら指のない手のひらでミズキの額を小突いた。

「じゃね」

「うん」

 ミズキ宅の廊下を通り抜け、南玄関の前で一度振り返って手を振り、トモエは外へ出ていった。

 トモエを見送るとミズキは階段を上がり、一階と同じように前後に延々と続く廊下に立つ。

「ただいまー」

「おかえり」

 母の声は前方にある扉の奥から聞こえてきた。おそらくキッチンで夕飯の準備をしているのだろう。何やら良いにおいも漂ってきている。

 そうだ。お手伝いをしてみようか。

 ここで機嫌をとってポイントを稼いでおけば、夏休みにどこかへ連れっていってくれるかもしれない。少なくとも無下には却下できなくなるはず。

 あとは、甘えかたと言葉の選びかた次第だ。

 ミズキは四階へ上がって自分の部屋で着替えをすませると、急いでキッチンへ向かった。

「お母さん、手伝うよ」

「あら、珍しいこと言うわね」

「たまにはね。助かるでしょ?」

「まあ… そうね」

「そうでしょ、そうでしょ。じゃあ、何をする?」

 その不自然な笑顔を見てどうやら娘が何かをたくらんでいるらしいと母は察するが、とりあえず気づかないふりをしておいた。せっかくの手伝いを断るのは勿体ない。

 それに、動機はどうあれ一緒に料理をするのは楽しいものだから。

「じゃあ、味噌汁でも作ってもらおうかしら」

「味噌汁ね。了解」

「コンロは奥のやつを使って」

「うん」

 しゃがむ母親をまたぎ、それから手前のコンロの下をくぐり抜け、ミズキは奥のコンロへ辿り着く。

「味噌汁、味噌汁と」

 夏休み計画をどうやって持ち出そうかと考えながら、ミズキはコンロの上に鍋を置いた。


                ※


 久しぶりに作った味噌汁は思いのほか好評で、父親からも母親からも絶賛された。

「この味噌汁、いつもより美味いな」

「そうでしょう。それ、ミズキが作ったのよ」

「ミズキが?」

「べつに普通に作っただけだよ。あ、でも沸騰させないように気をつけたけどね」

「それって大切なことなのよねえ。私の場合、他の料理と一緒に作るから、どうしても沸騰させちゃうのよ」

「いや、美味い。大したもんだよ。おかわりしていいか」

「うん!」

 おだてに弱いミズキはすっかり気をよくしてしまい、このあと夏休み計画を持ち出すことも忘れ、あまつさえ 「これからもお料理の手伝いをするよ」 などと約束をしてしまう。

 満足そうな父と笑顔の母。

 上手く乗せられたことに気づいたのは、その夜。

 ベッドなかで目を閉じる寸前のこと。

「……ま、いいか」

 目を閉じる。


          ※


 トモエから電話がかかってきたのは、夏休みも半ばになってからだった。

「今、曲がり角の手前なの!」

 珍しく興奮した口調に、ミズキも釣られて高揚感を覚える。

「どう? どんな感じ?」

「何て言うのかな。こう…、こんな感じ」

「電話じゃ見えないよっ。どっち? どっちに曲がってる?」

「右! 目の前からこう、こう、何て言うの? カクって感じで」

「ひょっとして、あれ? 右折とかいうやつ?」

「それ! 右折よ。まさにそれっ。話には聞いていたけど、実際に見るとやっぱ迫力が違うわね」

「写真撮って送ってよ!」

「それは無理」

「ええっ。どうして?」

「私、指がないからシャッターおせないの」

 そう言えばそうだった。

「…あれ、でも電話のボタンはどうやって押したの?」

「お母さんに頼んだ」

「じゃあ、お母さんに写真撮ってもらえばいいじゃん!」

「あ、そうか!」

「そうだよ!」

「ちょっとまって!」

 受話器の向こうから微かに届くトモエとトモエの母親の声。さらにその奥からは、どことなくざわついた雰囲気を感じる。トモエたちの他にも見学者がいるらしい。

「…ミズキ? 聞こえる?」

「あ、うん。どう? 写真撮れそう?」

「やっぱ駄目。お母さんが撮ろうとしたら撮影禁止って係りの人に言われた」

「係りの人なんているんだ」

「うん。曲がり角を見に来た人を二階から上に案内して、実際に曲がる人と分けてる」

「曲がる人!? そんな人いるの?」

「いるんだよ、それが。全部で… ええと五人かな。すごい重装備」

「そりゃそうだよ。未開の地だもん。うわ、すごいなあ」

 命がけだねと、ミズキは嘆息する。

「でも案外、行ってみたら私たちよりも進んだ文化があったりして」

「まさか」

「まさかねえ」

 二人で笑いあう。未開の地が自分たちの文化より発展していたなんて物語はよくあるけれど、現実はきっと文字通り現実的な結果が待っているに違いない。

「じゃあ、そろそろ電話切るね。後ろの人と交代しないといけないから」

「あ、うん」

「生写真は無理だけど、曲がり角のポストカードは売ってるみたいだからお土産に買ってくよ」

「ほんと? 楽しみにしてるよ」

「そうして。じゃあ、夏休み明けに」

「うん」

「あっ」

 切りかけた受話器からトモエの頓狂な声が響いた。

「どうしたの?」

「……曲がってる」

「え」

「曲がった! 人が曲がった!」

「うそっ。どんな感じ?」

「また曲がった。二人目」

「トモエちゃんってば。どんな感じなの?」

「うわあ……初めてみた。…あ、すいませんっ」

「おーい」

「すいませんすいません。すぐしゃがみますから。はい、跳んでください」

 ミズキの声はトモエに届かない。

 やがて電話は歓声とどよめき、拍手の音と口笛の音、そして人と人がぶつかりあう音を響かせて切れた。



「へえ。トモエちゃんは曲がり角を見に行ったのか」

 ミズキの父親はビールを喉に流し込み、心地よい刺激を楽しみながら息をつく。

「すごいな。それは」

「お金と時間があればこそよねえ。共働きで必死に生活費を稼いでいる私たちとは世界がちがうわ。ミズキ、お父さんにご飯を回してちょうだい」

「はあい」

 テーブルの北端に座る母親がキッチンでご飯をよそい、真ん中にあいた空間に座るミズキに手渡し、さらにミズキから南端に座っている父親へと渡される。次いで味噌汁、さらにおかずの数々。

「トモエちゃんたちは南へ行ったんだよ」

「ほう。南の曲がり角か」

「うん。南は右に曲がってるって言ってた。右折って言うんだけど、お父さん知ってた?」

「言葉では聞いたことあるよ。でも、右折をしてる様子を想像するのは難しいな」

「何かこう、カクって感じだって」

「カク …ねえ」

 ミズキの父親は目を閉じてその様子を思い浮かべようとしたが、うまく形にならなかったらしく首をひねる。

「トモエちゃん、そこでもっと凄いもの見たんだけど…… 何だかわかる?」

「もっと凄いもの? 曲がり角よりも?」

「そうそう。あ、曲がり角も関係してるけどね」

「何だろう。本当に曲がる人を見たとか?」

 笑いながら言う父を、ミズキは驚いたように見る。

「…あ、うん。正解」

「えっ」

「よくわかったね。さすがはお父さん」

「いや、曲がり角に関係していて曲がり角を見る以上に凄いものを見たと言ったら、それしか思いつかなかっただけだよ。…でも、本当に?」

「うん。五人ぐらいいたって言ってた。いっぱい荷物を持って探検家みたいだったって」

「探検家なんだろうな、実際。無事に帰ってこられると良いけど…」

「お父さんは曲がり角の向こうに何があると思う?」

「何だろうね。僕らと同じような世界が続いているのか。あるいは何もない荒野なのか。あるいは――」

「ほら。二人ともお話はあとにして。ご飯を食べちゃいなさい」

「はあい」

「そうだな。冷める前にご飯にしよう」

 母親に促され、二人はようやく夕食に手をつけ始めた。

「うん。ミズキのつくる味噌汁はやっぱり美味いな」

「そりゃ、毎日つくってるもん」

 夏休みにどこかへ連れて行ってもらおうと、ご機嫌とりで始めた夕食の手伝い。それが、今ではすっかりミズキの役目になっていた。

 父も母も、どういうわけかミズキが夏休みに入ってから急に仕事が忙しくなりだしたのである。父は残業が増え、母も日が沈んでから帰ることが多くなった。

 最初は味噌汁だけ作っていたミズキも、母の疲れた顔を見るとそれだけではいけない気がして、徐々に他の料理も手伝うようになり、やがて下ごしらえをするようになり、夏休みも半ばになる頃にはかなりのメニューを覚え、今では料理のほとんどを引き受けるようになっている。

 そんな二人の仕事がようやく落ちついたのが、つい昨日のこと。今日はだから、数週間ぶりに三人そろっての夕食であり、母の手料理も数週間ぶりに食卓に並んでいる。

「ミズキ、夏休みの宿題はどうなってるの?」

「とっくに終わってるよ」

 今年は家族旅行をせがむつもりでいたから、休みに入ってすぐ終わらせていたのだ。

 結局、二人の仕事が忙しすぎてそれどころではなかったけれど。

「そうか。じゃあ、残りの一週間は好きに過ごせるな」

「そうなんだけどさ。トモエちゃんは休みの終わりまで帰ってこないし、他の友だちは今ごろ宿題で忙しいだろうし、することないんだよねえ」

「予定ないの? ぜんぜん?」

「なあんにも。ま、のんびり過ごすよ」

 言って、ミズキは久しぶりに母が作った料理を口にした。同じように作っているつもりでも自分の味とはずいぶん違う。やっぱり美味しい。

「ですって。良かったわね。あなた」

「ああ。仕事を頑張った甲斐があったよ」

「…なに? なんの話?」

 微笑みあう二人を見て、ミズキは首をかしげる。

「君が言えよ」

「あなたが言えばいいでしょ」

「僕が?」

「そりゃそうよ。このために頑張ったんだから」

「それは君も同じだろ」

「あなたよりは頑張ってないわ」

「そんなことないよ」

「あの、どっちでもいいからさ。なんなのか教えてよ」

 遠慮をしあう新婚のような会話にうんざりしてミズキが口をはさむと、二人は顔を見合わせてまた微笑みあった。

「いや、実はね」

 結局、父が言うことにしたらしい。わざとらしく咳払いをしてミズキを見る。

「実は、明日から一週間、連休がとれたんだ」

「えっ?」

「そうなのよ。私とお父さん二人とも。一週間の連休って、ちょっと凄いでしょ」

「どうして?」

 今まで残業続きで休日もろくになかったのに、いきなり一週間の連休。そんなことがあるのだろうか。

 あるとしたら、それは――

「ひょっとして、左遷されたの?」

「ええっ? どうしてそうなるんだ?」

「だって」

「違う違う。そんな後ろ向きな理由じゃないよ」

「私たち、ずっと残業続きだったでしょう」

 父のあとを引き継いで母が言う。

「うん」

「それって、この連休をとるためだったのよ。なんとか休みを確保したくて、先の仕事を前倒しで片づけたの」

「周りから不満がでないように、他の人のかわりに出勤したりもしてね」

「そのせいで、ミズキにとばっちりがいっちゃったけど」

「とばっちり?」

 ミズキは少し考え、それから夕食の支度のことだと気づく。

 確かに、始めはちょっとした夕食のお手伝いのはずだったのに、気がつけば夕食の支度を全てするようになっていた。普段のミズキなら、きっと不平タラタラだっただろう。

 それが文句の一つもなく、当たり前のように夕食の支度をこなしていたのだ。

  今更ながら自分で驚く。

 もともとご機嫌取りのために夕食の手伝いをするつもりでいたから、押しつけられていると思わなかったのかもしれない。

 こういうのを何て言うんだっけ。怪我の功名?

 ちがうか。 

「…それで?」

「うん?」

「一週間も連休とってどうするの?」

「どうすると思う?」

「全然わかんない」

 父の問いに首をかしげながらも、ミズキの瞳はすでに期待で輝いている。

「うちは二人とも働いているから、今まで夏休みに家族で出かけるなんてことなかっただろう」

「うんうん」

 出かけるという言葉の響きに、ミズキの瞳はますます大きくなっていく。

「このまま一度も夏休みの思い出がなく大人になってしまうのでは、あまりにミズキが可哀相だって話になってね」

「うんうんうん」

「じゃあ行こう。となったわけだ。な、母さん」

「ええ」

「……つ・ま・り?」

 ほぼ確信しながらも、ミズキが緩みかけた唇を開いてそろりと聞くと、

「そう。家族旅行だ」

 父は大きく頷いて言った。

「やった!」

 ミズキは思わず飛び上がり、その振動で食器が盛大な音を立て、コップから水からこぼれ出る。

「こら、行儀が悪いっ」

 叱りつける母の声も聞こえない。

「それでそれで? どこに行くの?」

「ミズキはどこへ行きたい?」

「曲がり角!」

 即座に答えるミズキに、父は苦笑して首をふった。

「いや、さすがにそれは遠すぎて無理だよ。行くだけで二週間以上かかる」

「だよねえ。じゃあ、どこがいいかな」

 何しろ初めての家族旅行だ。滅多に行けない所がいい。

 滅多に行けないところで、曲がり角よりは近い場所。

「…って何かあるかな」

 腕を組んでうなるミズキ。

「実は良い場所があるんだ」

 そんなミズキを楽しげに眺めながら、父がぽつりと言う。どうやら最初から行く場所を決めていたらしい。

「良い場所って、どこ?」

「滅多に行けないところで、曲がり角よりは近い場所」

「ほんとに? それってどこ?」

「ここからなら、そうだな二日で行けるかな」

「だから、どこ?」

「一泊して帰ってくればちょうど良い。なあ、母さん」

「そうね」

「もうっ。だから――」

 口から出かけた四度目の同じ台詞は、父の指の動きが視界に入るなり別の台詞へと変わった。

「……あっ。ああっ、わかった!」

 言いながら、ミズキは父と同じ指の動きをする。

「…でしょ? そうでしょ? そうだよねっ。わかった! わかった!」

「悪くないだろう?」

 目を輝かせるミズキに、父は得意気な顔で笑いかける。

「うん。悪くないっ。全然悪くない!」

「母さんは?」

「もちろん良いわ。ミズキさえ良ければ」

「良いに決まってるよ!」

「よし、それなら決まりだな」

「決まりだね!」

「この一週間の連休で」

「連休でっ」

 ミズキと父は指を上に向けて言った。


「空を見に行こう!」



                    了



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[一言]  これはすごい!  いままでずいぶんたくさんのSFやファンタジーを読んできましたが、これほどの奇想にはあまりお目にかかったことがありません。有名な作品でいうと、山尾悠子の「遠近法」やラリイ・…
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