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八話

 騒がしい人々の声で、理緒は意識を取り戻した。

 まず目に入ってきたのは、鬱蒼と繁る木々だった。

 店で意識が遠のいたことは覚えている。それなのに、なぜ今こんなところにいるのか。理由がさっぱり分からない。

「目を覚ましたぞ」

 下方から声が聞こえ、視線を下に向ける。数多の村民が見える。その中に、庄一、宗助、祖父の姿を見つけた。

 地面にいる人々よりも高い場所。理緒は自分が、山奥の蛇様の社に上っていることに気がついた。そして服装も変わっていることにもだ。誰に着替えさせられたのか分からないが、白無垢を着ていた。

 鏡弥から手をかざされ、白蛇から咬まれてできた消えない傷が光った。意識を失う直前に聞いた「蛇様」。目が覚めたら社の上にいて、白無垢姿。そして今年は蛇様が妻を娶るという年。

まさか鏡弥って……。

 理緒は全身から血の気が引くのを感じた。

 庄一たち三人が、社の階段を上がってくる。

「まさか、理緒が選ばれていたとは」

 祖父は目に涙を浮べている。

「理緒、ありがとうな。これで石田漬物は末代まで栄える」

 庄一は満面の笑みだ。こんな笑顔、今まで見たことがない。

「ほら宗助も礼を言え」

 庄一が宗助の背を押した。

「お姉ちゃん、ありがとう」

 宗助がぺこりと頭を下げた。とりあえずお礼を言いました、という顔だ。

「では蛇様」

 庄一の言葉に、疑惑は確信に変わった。

 蛇様の妻になるんだ。理緒の顔は青ざめる。逃げようと試みたが、全く動けなかった。足腰を石にされたみたいにぴくりとも動けない。

「娘と末永くお暮らしください。そして、これからも村を見守ってください」

 腰にひんやりと冷たいものが巻きついてくる感覚があった。その感覚は、腕、胸、とゆっくりと上に昇ってくる。感覚が肩にきたとき、鱗を持った白く太い胴が視界に入った。そして、真っ赤な眼と目があった。人間ではない。白い大蛇だった。

怖い。気持ち悪い。理緒の全身が小刻みに震える。

 庄一たちとの距離が遠くなっていく。社の中に引きずり込まれているのだと分かった。

 扉が上から下りてきて、ひとりでに閉まりだす。

「理緒、蛇様と仲良くな」

 庄一が言った。

 嫌だ。叫びたくてもなぜか声が出ない。

 景色がだんだん狭くなる。もう庄一たちの下半身しか見えない。つま先も隠れ、ついに扉は完全に閉じてしまった。

 社の中は真っ暗になったが、一瞬で明るくなった。

 檜が使われた広い部屋だった。この部屋は、中央に火のついていない囲炉裏があるだけだった。左右と奥にも扉があり、他にも部屋があるようだった。

巻きついていた大蛇が体から離れた。理緒は脱力する。目の前に人の姿をした鏡弥が現れた。

「理緒」

 鏡弥に頬を触られた。その手はひんやりと冷たい。

「触らないで!」

 理緒は鏡弥を突き飛ばした。鏡弥は吹っ飛び、壁で頭を打つ。

「痛っ……」

 鏡弥は後頭部をさすりながら、こちらにやって来る。

 理緒は床に尻をつけたまま後退った。すぐに背中が壁に触れた。もう逃げられない。

「来ないでよ……」

 鏡弥は立ち止まらない。理緒の目の前まで来ると、屈んで視線を合わせてくる。

「理緒」

 と、鏡弥から抱きしめられた。蛇から抱擁されていると思うと、全身に鳥肌が立つ。

「気持ち悪い! 離れてよ!」

 鏡弥の腕の中で暴れるが離してくれない。離すどころか、余計に力を入れられる。

「俺のこと、好きなんじゃないの?」

 耳元でささやかれた。冷風に撫でられたように背中はぞくりとし、涙まで出てくる。

「私は蛇が大っ嫌いなの。だから、あんたのことなんか、大大大っ嫌い!」

 鏡弥の耳元で叫び返してやった。鏡弥は眉間にシワを寄せると、理緒から離れた。

「まあ、理緒が蛇嫌いなこと分かってたけどね」

「それならどうして私を選んだの?」

「好きだったし、理緒も俺のことを好きって言ったから」

「確かに子どもの頃は好きだった。でもそれは、あんたのことを人間だと思ってたから。蛇って知ってたら、あんたのことなんか好きにならなかった」

 知らなかったとはいえ、一時でも蛇のことが好きだったなんてありえない。鏡弥と出会った日に戻れるのなら、配達に行ったおばあさんの家にもう少しいろ、と言いたい。

「俺は今でも理緒のことが好きだよ」

「私のことが好きなら、家に帰してよ。好きな人のお願いだよ。できるでしょ?」

「それはできない。俺の妻になれるのは理緒だけだから」

「最低!」

 理緒は金切り声を上げると、壁の方を向いて鏡弥に背を向けた。

 背後からため息が聞こえると同時に、嫌な気配が消えた。その直後、右側から、きーっと扉が開く音がした。

 理緒は立ち上がる。白無垢の裾をたくし上げて助走し、出入り口の扉に体当たりした。すると扉は容易く開いた。

 社の下にいた村民はもういない。理緒は外に向かって飛び出した。

 外に出たはずなのに、なぜか社の中にいた。

「何で? 出たはずなのに……」

 もう一度、社から飛び出した。やはり外に出られない。

「逃げられないように結界を張ってるから無駄だよ」

 鏡弥は言いながら、右側の部屋から出てきた。手には見覚えのある着物を持っている。

「白無垢じゃあ苦しいでしょ? 早く着替えなよ。理緒の着物は、お父さんたちが全部持ってきてくれたものだから」

「あんたが触ったものなんか着たくない」

 鏡弥は悲しそうな顔をし、目を伏せた。

「右側の部屋に、理緒のお父さんたちが運んできたものが入ってる。俺は触ってないから」

 理緒は右側の部屋に飛び込んだ。

 扉を閉める。窓がないのに室内は昼間のように明るい。きっと鏡弥が何かしているのだろう、と思う。

 理緒は改めて室内を見た。古びたタンスや曇った鏡台などがある。きっとここにあるものは、歴代の蛇様の妻が使っていたものだろう。

 タンスの前に見覚えのある行李があった。父親たちが運んできたものだろう。理緒は行李の蓋を開ける。やはり、自分の着物が入っていた。白無垢を脱ぎ捨て、自分の着物に着替える。

 鏡弥が入ってこないように、扉の前に文机や背の低い棚を置いた。これで外側から開けられないはずだ。

「ねえ、着替えた? 出ておいでよ」

 扉の向こうから声がした。

「あんたの側になんかいたくないから行かない」

 向こう側にいる鏡弥に向かって叫ぶ。

「そっか。でも俺はずっと出てくるの待ってるから」

 理緒は床に寝転がり、天井を見つめた。

 蛇なんかとこんなところで暮らすなんて、死んだ方がまし。理緒は決めた。死のう、と。けれど、自分の首を絞めて命を絶つ勇気はない。だから、この部屋に閉じこもって、不眠、絶食をして命が尽きるのを待つ。


 天井を見つめ始めて、どれくらい時間が経っただろうか。窓がなく、時計もない部屋では今が何時か分からない。部屋の明るさも変わらないから、永遠に昼のような気もしてしまうが、店で倒れたとき午後一時だった。社の前で目覚めたときは何時が分からないが、そろそろ夕方にはなっただろうと思う。

 しばらくすると、腹の虫が鳴いた。いつもお腹が空くのは午後七時頃。今はだいたいそれくらいなのだろう。そんなことを考えていると、

「理緒、ご飯だよ」

 扉の向こうから声がした。

「いらない」

「変なものじゃない。村民がお供えしてくれたものだよ」

「それでもいらないから!」

「とりあえず理緒の分は取っておくから」

 コトン、と床に何かが置かれる音がした。

「食べたくなったら出ておいで」

 いらない、と言っているのに鏡弥は余計なお世話を焼いてくる。それがまた、理緒をいらだたせる。


 理緒のイライラがなくなることがないまま、さらに時は過ぎた。

「そろそろ出ておいでよ。寝床に行こう」

「行くわけないでしょ!」

「布団で眠ろうよ。何もしないから」

 眠らないと決めた理緒には布団なんていらないし、安心させるための常套句だって効果ない。

「しつこい! 一人で寝ろ!」

「分かった。一人で寝るよ。おやすみ」

 と、聞こえた後、足音が遠のいていった。

 理緒は睡魔に襲われても、体を叩いたりつねったりして絶対に眠らないように心がけた。


  *


 この部屋に閉じこもり、不眠と絶食を始めて何日が経っただろうか。

 理緒の頬はへこみ、血の気がなくなっていた。天井を見つめる目も、死んだ魚の目のように光を失い、虚ろになっている。

 視界が暗くなり、意識が遠のく。

 ああ、やっと死ねるんだ。死の恐怖よりも、鏡弥から解放される喜びが強い理緒は、瞼を下ろす。そしてあの世へ旅立とうとした。

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