七話
月日は流れ、理緒は二十歳になった。小学校を卒業し、十二歳から本格的に店に立つようになり、今は石田漬物の立派な看板娘だ。
八年で石田家もすっかり変わった。八年前に弟の宗助が生まれた。五年前に祖母が風邪をこじらせて、あの世に逝った。二年前に奈津が突然倒れて、この世を去ってしまい、女は自分一人になってしまった。男性陣の食事の準備、掃除洗濯、宗助の世話も理緒が担当している。毎日大変だが仕方がないことだ。疲れもたまっているが、今日も笑顔を絶やさず店に立っている。
ふと店先に視線をやると、とぐろを巻いているアオダイショウが見えた。
子どもの頃は蛇を見る度に顔をしかめていた。でも今は、遭遇しても顔に出さないようになった。
「そろそろ、蛇様が妻を迎えに来るんじゃねえか」
「夏が多いらしいからな」
買い物に来ている男性客が言った。
今年は、蛇様が妻を娶るとされる年。春になった辺りから、「いつ蛇様が現れるのか」と、村全体がどこかそわそわとした雰囲気に包まれている。
「理緒ちゃんは、蛇に咬まれたことあるかい?」
「はい。あります」
「もしかしたらこの蛇は、理緒ちゃんの様子を見に来たんじゃないかい?」
「選ばれていたら名誉なことだし、この店も大きくなること間違いなしだな。そうなれば、庄一は幸せものだなあ」
「……そうですね」
理緒は愛想笑いを浮べておく。蛇様の妻になるなんて、絶対にごめんだ。
村民は娘が蛇様に選ばれることが、本当に名誉なことだと思っている。連れて行かれた後、娘がどんな風になるか分からない。家が隆盛ばかり気にしていて、娘のことなど考えていない。村民のそういうところが怖い。
男性客二人はアオダイショウに会釈すると、店から出て行った。
理緒は右手首の二つの丸い傷を見て、ふーっ、とため息をつく。
九年経ったのにこの傷はまだ残っている。白蛇に咬まれたあの日のことなど思い出したくもない。
「理緒」
名を呼ばれ、顔を上げる。女児の手を引き、膨れた腹をした朝香だった。
「いらっしゃい」
「ナスときゅうりの浅漬けちょうだい」
朝香はザルをこちらに差し出した。
「はーい」
理緒はザルと受け取り、注文されたものを入れる。
「あのアオダイショウ、いつからいるの?」
「五分以上はいる」
「ずっとこっちを見てるし、理緒を迎えに来たのかもね」
「えー」
朝香まで言ってくる。そんな事言わないで、と言いたくても言えない。
「私を迎えに来てくれればいいのに」
朝香がぽつりとつぶやいた。
十六で嫁に出された朝香。幼少の頃より体はふっくらとしたが、その代わり顔に深い影が出来てしまった。四歳上の旦那は優しいが、舅姑がいじわるだという。嫁いだときから舅姑には使用人のように扱われ、身重になってもこきつかわれる。しかもそれは、旦那がいないところでだけらしい。旦那がいるときには、自分たちが甲斐甲斐しく世話をしているように振る舞っている。だから旦那に舅姑のことを話しても、信じてもらえない。早く舅姑が死んでくれないかな、とここで愚痴をこぼしている。だから、朝香は蛇様のところに行くほうがましなのだ。
「はい。どうぞ」
理緒は朝香にザルを渡し、代金をもらった。
「いつもありがとうね」
実は朝香にだけおまけをしている。友だちだからというのと、舅姑にいびられて可哀想だから。このことは二人だけの秘密だ。
「じゃあまた来るね」
「うん。待ってるから」
朝香も店先のアオダイショウに会釈をして、帰って行った。
アオダイショウは舌をちろちろと出しながら、こちらを見ている。
気持ち悪い。早くどこかに行け。理緒は心の中で言いながら、アオダイショウを睨みつけた。するとアオダイショウはするすると、どこかに去って行った。
翌日は雲一つない晴天だった。店先の土が太陽光を反射して眩しい。理緒は目を細めながら、店に立つ。
今日は嬉しいことに客足が途切れず、大繁盛だった。店頭に並べている漬物が大分減ってしまった。
お客がいない隙に漬物を並べる。
入口に尻を向けていると、
「こんにちは」
と、聞こえた。
「はーい」
理緒は振り返る。つい手に持っている漬物を落としそうになった。
きらりと光る白髪に、血のように赤い眼。血管が透き通るような白い肌をした美しい青年。子どもの頃に出会った彼に間違いない。
「もしかして鏡弥?」
「そうだよ。理緒」
少年の頃の鏡弥もきれいだった。けれど成人した鏡弥は、いままで会った人の中で一番美しかった。理緒は呼吸するのも忘れ、鏡弥をじっと見つめる。
鏡弥が近づいてきて、はっとする。接客をしなくては。
「うちで買い物するの初めてだよね? 何を買いに来たの?」
「買い物じゃない。理緒を迎えに来たんだよ」
「えっ?」
意味が分からず、理緒は目を瞬かせた。
「約束したよね」
一緒に遊んでいたときの記憶をたぐり寄せる。脳の片隅にその記憶は薄らとあった。
桜を見ながら、『大人になったら結婚しよう』、『二十歳になったら迎えに来る』、と言われた覚えがある。けれど、
「子どもの頃の口約束だよね? まさか、ずっと本気にしてたの?」
理緒は言う。すると、鏡弥から表情が消えた。美しい彼の無表情は怖さをはらんでいて、理緒はびくりと肩をすくめる。
「ずっともなにも、もう決めてたから」
鏡弥が手をかざしてきた。理緒の右手首が光る。
「えっ、何?」
理緒は右手首を見る。光っているのは、九年前白蛇に咬まれて、いまだに消えない二つの丸い傷だった。
「さあ、理緒。行こう」
意識が遠くなる。立っていられず前に倒れると、ひんやりと冷たい感触があった。鏡弥が支えてくれているのだと、理緒は思う。
意識が朦朧として、耳も音を拾いにくくなった。やかましい蝉の声とざわめきが、遠くに聞こえる。
光と音のない世界に落ちる直前、
「へ、蛇様」
そう言った男性の声ははっきりと聞こえた。
そして理緒は意識を失った。




