六話
翌日、理緒は約束の時間よりも早く待ち合せ場所に向かった。
当然、鏡弥の姿はまだない。桜の木に背中を預け、上を向く。昨日よりも開花が進んでいた。
薄紅色の桜の隙間からのぞく青空を眺めていると、背中がぞくりとした。何かが背中を這っている感覚。背中に手を回す。すると、這われる感覚が腕に移った。それはさらりとしていて、少しひんやりしている。まるで鏡弥の手のようだった。
理緒は背中に回した手を、前に持ってくる。
「嫌!」
河原に悲鳴が響く。腕に絡まっていたのは、赤い眼をした白蛇だった。恐怖と嫌悪で全身に鳥肌が立ち、涙が出てくる。
白蛇に触りたくない理緒は、腕を振り回す。けれど、白蛇は腕から離れない。
涙で歪んでいる視界でも、白蛇が大口を開けたのが分かった。上顎に大きめの二本の歯が見える。
「きゃー」
白蛇の歯が理緒の右手首に食い込んだ。肉を持っていかれるのではないか。それくらいの痛みだった。
白蛇は、理緒の手首に二つの丸い傷をつけると、理緒から離れた。そして、桜の木の裏の草むらに消えていった。
理緒は川に向かって走った。大粒の涙を流しながら、川で消えるはずのない二つの丸い傷を、ごしごしと執拗に洗う。
「理緒」
背後から鏡弥の声が聞こえてきた。理緒は川から手を出し、顔を歪めて振り返った。
「鏡弥が早くこないから、白蛇に咬まれちゃったじゃん!」
金切り声を鏡弥に浴びせる。自分の声で耳がきーんと痛くなった。
「……ごめん」
鏡弥はうつむき、着物の太ももの部分をぎゅっと握った。
「鏡弥なんか、大っ嫌い!」
「……ごめん、理緒」
鏡弥はぽつりと言うと、こちらに背を向けた。草むらのほうにゆっくりと歩いて行き、山の中に入って行った。
理緒は再び川で右手首を洗う。
長時間水に浸した指は、白くふやけてしまった。
泣きすぎてかゆくなったまぶたを擦りながら、家に帰った。
畑に奈津がいた。
「ただいま」
背に声をかけると、奈津は振り返った。
「あら、もう帰ってきたの?」
理緒を見て奈津は目を見張る。
「どうしたの⁉」
「あのね……」
と、理緒はさっきあった出来事を全て話した。
「そうだったんだね。嫌な思いをしたんだね」
奈津が頭を撫でてくれた。
「でもね」
今度は肩に手を置いて、理緒と視線を合わせてきた。
「蛇に咬まれたのは、鏡弥くんのせいじゃない。だから、理緒は鏡弥くんに大嫌いなんて言っちゃだめだった」
「分かってるよ」
本当に鏡弥のことが大嫌いになったのではない。あのときは頭が混乱していて、つい口から出てしまった。
「今度鏡弥くんが遊びに来てくれたとき、ちゃんと謝るんだよ」
「うん」
理緒が頷くと、奈津は微笑んだ。
「薬を塗ってあげるから、一旦家に戻ろうか」
奈津から手を引かれた。農作業をし、土で汚れた奈津の手は熱を持っていて、水で冷えた理緒の手を温めてくれた。
翌日から、理緒は鏡弥が遊びに来てくれるのを待った。「大っ嫌いなんて言ってごめんなさい。本当は嫌いになってない。好きなままだよ」、と早く言いたかった。
*
こぼれ桜を見た。
ホトトギスの声を聞いた。
蚊に刺されるようになった。
鈴虫の歌を聴いた。
そして今は、燃えるように真っ赤な紅葉を見ている。
あれから、鏡弥は一度も遊びに来ていない。理緒は謝りたくても、謝れずにいた。もう少しすれば、冬になってしまう。冬になってしまえば、鏡弥は絶対に遊びに来ない。家を知っていれば謝りに行けるのに、知らないから来訪を待つしかない。どうしようもできなくて、理緒ははがゆい思いを胸に抱えていた。
結局、冬より前に鏡弥は遊びに来なかった。
春が巡ってきたが、鏡弥が遊びに来る気配が一切ない。理緒は鏡弥を待つことをやめた。そして恋心も雪のように解けて消えてしまった。




